雫石城

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座標: 北緯39度41分21秒 東経140度58分57秒 / 北緯39.689079145566度 東経140.98237900265度 / 39.689079145566; 140.98237900265

雫石城の位置(岩手県内)
雫石城
雫石城
雫石城の位置

雫石城(しずくいしじょう)は、岩手県岩手郡雫石町字古館に所在した日本の城。別称 雫石御所、滴石城。

東西250m、南北60mで東から本丸、二の丸、三の丸と伝い、その西方は家臣屋敷跡、本丸東に古館がある。 現状は宅地で、ほぼ中央を岩手県道212号が通る[1]

歴史[編集]

南北朝期から見られる地名。陸奥国磐手郡滴石庄。城主戸沢氏は本姓平氏であり、寿永年間(1182年1184年)に大和国から下向し、滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから戸沢氏または滴石氏と称していたと伝える。

南北朝期の滴石氏は南朝方の拠点として築かれており、北畠顕信興国(南朝)2年から、多賀国府奪回に成功した正平(南朝)6年(1346年1351年)秋まで在城し、繁の「御所」の地名は北畠顕信が居住した地に由来すると伝える。 それ以後の滴石や戸沢氏の事績は不明である゜戸沢氏の本宗は応永30年(1423年)に出羽国角館に移ったという。

天文年間(1532年1555年)の雫石盆地には、滴石城主手束左衛門尉、長山の長山某、戸沢城主戸沢政安がおり、相互に確執を繰り返していた。南部晴政はこれを好機とし、天文9年(1540年)に雫石に出兵した。滴石城は焼け落ち、戸沢館の戸沢政安は自ら館に火を放ち出羽国最上新庄へ立ち退くと伝える。

次いで斯波氏は、滴石城に斯波詮貞を置くことに成功した。詮貞は雫石御所と呼ばれ、詮貴・久詮と3代にわたり、天正14年(1586年)まで雫石を支配した。滴石の文字が雫石と改められたのは、斯波氏が当地を領有してからのことと伝えられる。雫石御所の居城は、客分として迎えられた遠野の綾織越前広信が新築したものであり・雫石川を南にして本丸・二の丸・三の丸が東西に並んでいる。 雫石御所は天正18年(1590年)と元亀3年(1572年)、に南部氏の攻撃を受けたが、これを撃退している。

南部信直は天正12年(1584年)から天正14年(1586年)まで3度にわたって雫石に出陣し、9月29日、雫石城を包囲して討ち滅ぼし、雫石地方を手中におさめた。 雫石御所の支配はここに終わり、本家の高水寺斯波氏も2年後に滅亡した。

天正20年(1592年)、「諸城破却書上」には「滴石 平城 破 信直抱 代官 八日町太郎兵衛」とあり破却された。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 『角川日本地名大辞典 3 岩手県』 角川書店、1985年3月8日ISBN 4-040-01030-2
  • (有)平凡社地方資料センター 『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』 平凡社1990年7月13日ISBN 4-582-91022-X
  • 児玉 幸阿・坪井 清足 『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』 新人物往来社、1980年7月15日

関連項目[編集]