阪井徳太郎

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阪井 徳太郎
生誕 1868年
死没 1954年
出身校 立教大学
ホバート大学
ハーバード大学
職業 実業家国家公務員牧師
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阪井 徳太郎(さかい とくたろう、1868年 - 1954年 )は、日本の実業家国家公務員牧師。第25代三井合名会社理事、内閣総理大臣秘書官、外務大臣秘書官。同志会学生寮設立者。ルドルフ・トイスラーを支援し、聖路加病院の国際化に貢献した。聖公会信徒[1][2][3]

人物・経歴[編集]

愛知県の士族、阪井久の長男として1868年(明治元年6月)に名古屋で生まれる[4][5]

立教大学校(現・立教大学)に入学。1888年(明治21年)には、築地聖三一教会でチャニング・ウィリアムズより洗礼を受ける[6]。1892年(明治25年)、立教大学卒業[7][8]

1892年(明治25年)12月に米国に渡り、ニューヨーク州ホバート大学英語版を卒業。その後ハーバード大学神学哲学を修め、1898年(明治31年)に修士号(M.A.)を取得[2]。米国留学中はクリスチャンの学生寮に寄宿するが、そこは高い志に溢れた若者が、キリスト教精神に基づき、暖かな交流をする家庭寮であり、深く感銘を受ける。このようなキリスト教精神に基づいた家庭寮こそが、日本の将来の指導者を真に育成するに不可欠だと思い、クリスチャン学生寮の輸入を構想することとなった。

1899年(明治32年)11月から半年に渡り、ボストンの富豪フランク・H・ビービー(Frank H Bebe)の随行秘書として欧州、アジアを歴訪し、1900年(明治33年)5月に日本に一時帰国した。この時、ビービーに祖国日本にキリスト教の精神に基づく学生寮を作る構想を伝え、彼の援助を得ることに成功した。ボストンに戻ってから彼は、ビービー他からの寄付集めに奔走し、当時の金額で5万ドルを集めて、1902年の早春に帰国した。34歳独身だった彼は、同年10月に本郷区(現・文京区)根津権現の裏手にキリスト教の基づく学生寮「同志会」を建て、学生らとともにこの寮に起居した[1]
同志会への入寮者は当初は東大生に限られていたが、現在はどの大学の学生でも入寮できる。同志会は創立から100年以上に渡る歴史があり、各界で活躍する人材を輩出している[1]。)

阪井は、日露戦争国債募集に際して渡米使節の通訳官をつとめ、また、ポーツマス条約締結に際して小村寿太郎外務大臣とセオドア・ルーズベルト大統領の通訳をつとめた。その後、外務大臣秘書官となり、小村をはじめ、加藤高明牧野伸顕桂太郎などに仕えた[6]。1912年(大正元年)12月からは、内閣総理大臣秘書官を兼務した[3]

同1912年(大正元年)には、聖公会聖路加病院を国際病院に発展させるため、院長のルドルフ・トイスラーを支援し、新病院建設計画の後援会幹事に就任。初代会長にはチャニング・ウィリアムズの長崎時代の弟子であった大隈重信が就任。渋沢栄一桂太郎なども会員となった[9]

1914年(大正2年)7月には、聖路加病院への援助をより強固にするために、大隈重信が病院に対する援助方法を検討し、評議員組織「大日本国際病院設立評議会」が発足。会長に大隈重信、副会長に後藤新平、渋沢栄一、阪谷芳郎が就任。評議会には、新渡戸稲造尾崎行雄近藤廉平服部金太郎、青山胤道(東京帝国大学医科大学学長)など多くの名士や実業家が参加した。こうした政財界の有力者が数多く参加し、トイスラーが支援者のつながりを持てたのは、評議会の実行委員を務めた阪井の尽力が大きかった[6]

1915年(大正4年)に官界を退いた後、三井財閥の中心機構である三井合名会社の第25代理事となり、経済界との関係性をさらに増していった[6]

阪井は、聖路加の国際病院化計画のために、三井家岩崎家から5万円ずつ、合計10万円の寄付を得ることにも尽力した。同時に、立教学校(現・立教大学)初代校長を務めたジェームズ・ガーディナーが設計した本郷の東京聖テモテ教会の副牧師をつとめるなど、クリスチャンとしても教会に貢献した[6]

卒業生として母校である立教大学の校友会及び立教大学後援会の幹部顧問を長く務めた[7][10]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 公益財団法人同志会のご紹介
  2. ^ a b 阪井 徳太郎
  3. ^ a b 任免裁可書・大正元年・任免巻二十九
  4. ^ 名古屋大学大学院法学研究科『人事興信録』データベース
  5. ^ 聖路加国際大学 大学史編纂・資料室 『トイスラー小伝』 改訂版 中村 徳吉 2020年6月30日
  6. ^ a b c d e 藤本大士「医療宣教師トイスラーの文化外交 : 1911‐1917年の聖路加病院国際病院化計画における日米政財界の協力」『アメリカ太平洋研究』第20号、東京大学大学院総合文化研究科附属グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター、2020年3月、75-91頁、ISSN 1346-2989 
  7. ^ a b 『立教大学新聞 第79号』 1951年(昭和26年)7月20日
  8. ^ 立教大学校は1890年(明治23年)に立教学校と名称変更し、卒業時の校名は立教学校となる。
  9. ^ ビジネスクリエーター研究・創刊号『病院組織の発展段階モデルの検証―聖路加国際病院の事例研究』羽田明浩 立教大学大学院 2009年11月 (PDF)
  10. ^ 『立教大学新聞 第72号』 1928年(昭和3年)12月5日