里見宗次
里見 宗次(さとみ・むねつぐ、1904年11月2日 - 1996年1月30日[1][2])は、日本のグラフィックデザイナー。大正時代に渡仏し、第二次世界大戦の時期を除いて戦前・戦後のパリで活動。ムネ・サトミ (Mounet Satomi) の名でも呼ばれる。
生涯
[編集]誕生からボザール卒業まで
[編集]1904年(明治37年)11月2日、大阪府大阪市住吉区帝塚山に生まれる[1][2]。里見家は実業家で、五人きょうだいの末っ子(三男)であった[1]。長兄の同級生には小出楢重がおり、小出は里見家にはよく出入りする関係であった[1][3]。
1911年、本来の学齢より1年早く天王寺師範附属小学校に入学。1914年、桜島噴火のポスターコンクールに応募し、金賞を受賞した。1917年、府立今宮中学校に入学、飛び級で1年早く卒業。東京美術学校を受験する準備を行っていたが[1]、フランスから帰国したばかりの小出楢重に刺激され[1]、1922年(大正11年)にパリに渡る[1][2]。おりしも花開いたエコール・ド・パリ全盛期をパリで過ごすことになる。
アカデミー・ジュリアンで勉強した後に、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)本科を受験。定員7名中6番で合格した。里見は、パリ国立美術学校本科に入学した初の日本人である[1]。1923年から1926年まで油絵を学ぶ。ボザールでは、1924年と1925年にデッサンで第一席を受賞。1924年には、フォア・ド・パリのポスターコンクールに入賞した。また、1926年には春・秋のサロンに入選している。
なお、在学中にやはり留学中であったルーマニア人、マリワラ(ラスジャ・マリワラ・ラスジャノ)と知り合い、1925年に結婚する。[4]
商業美術家として活躍 - パリを離れるまで
[編集]1927年2月父が他界したことから、生計の道を断たれ、商業美術家に転じることを決意。グラフィックデザイナー「ムネ・サトミ」として、そのままパリで活躍することになる。ショパン広告会社に勤務後、フレガット社にアトリエ課長として迎えられる[1]。
1928年、ゴロワーズたばこのポスターコンクールで一等賞を受賞し、注目を集める[1]。1932年、フォア・ド・パリのポスターコンクールで一等賞を受賞。1933年、「6日間自転車競争」 (fr:Six jours de Paris) ポスターコンクールで一等賞を受賞し[5]、これを契機として独立する。
カッサンドルのポスター "NORD EXPRESS" に衝撃を受けたという里見は、これらポスターでグランプリを受賞したことから、当時の一流ポスター作家達と親交を深め、特にカッサンドルの技法に影響を受ける。この時期の里見の作品は、アール・デコを体現するもので、KLMオランダ航空のポスター(1934年)などが知られる[1]。
1934年、東京で雑誌「広告界」が主催した「国際商業美術交歓展」にポスターを出品。里見のポスターが日本で公開されるのは、これが初めてのことであった。1935年、パリで初の日本ポスター展「日本広告美術展」を開催。[6]
1936年、初めて帰国。滞在中に、鉄道省、日本郵船、御木本真珠店からポスター制作を受注する。1937年、パリ万国博覧会広告館に出展。鉄道省のポスター『JAPAN』で名誉賞と金杯を受賞する[1][2]。
1938年、在留日本美術家協会の結成にあたり、事務局を引き受け、同年12月および翌年7月の在仏日本人美術家展開催に尽力する。
1939年、第二次世界大戦が始まったことからパリを離れる。
タイ、そして再びパリへ
[編集]1940年1月に帰国。同年3月、ニューヨーク万国博覧会日本館のデコレーションを担当することになり、単身渡米。このニューヨーク滞在中に、アルコのポスターを制作した。[7]
帰国後、杉浦非水に請われて多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)図案科教授に就任するも、翌1941年にはフランス語の実力を買われ、外務省嘱託としてサイゴンに渡る[1]。その後、1943年に日泰文化協会会員としてバンコクへ派遣される[1]。家族をバンコクに呼び寄せ定住し、「義」部隊の宣伝部長を勤める一方で、日本文化会館主催の美術展やコンクールを開催する。
1945年、同地で終戦を迎えると[1]、バンバートンの強制収容所へ送られる。今までのポスター作品も、その際に没収され失われた。1946年には解放されるが、引き続きタイにとどまり、パリでの学生時代からの旧知であったピブーンソンクラームから、タイ国劇場の舞台装置家の職を斡旋される[8]。その後、シャム航空(現:タイ国際航空)などの広告デザインを手がける。1948年には、タイ美術学校顧問に就任する。
1951年にはパスポートの発給を受け、タイを離れ、翌年再びパリに戻る[1]。1953年、旧友の藤田嗣治の勧めで、カンパーニュ・プルミエール街の、藤田が住む隣のアパートへ転居し、以後この場所に住む。[9]
1954年には健康食品展(SALON DE LA SANTÉ)、1958年には政府広報「パンを食べよ」(MANGEZ DU PAIN VOUS VIVREZ BIEN)のポスターをそれぞれ発表。1964年以降、国際食品展(SIAL、隔年開催)のポスター制作を第14回まで担当。他にも数多くのポスターを手がける。
デザイナーとしての活動は衰えることなく、2万点を超える作品を残した[10]。1989年に日本に帰国[1]。1996年1月30日、奈良県大和郡山市の病院で心不全のため死去、享年91[1]。
作品集・著書
[編集]- 『のすどディアマン―ある広告美術家の歩いた道』(1981年)
- 『巴里花画集』(京都書院 1991年)
主要展覧会
[編集]- 里見宗次展(そごう美術館・1990年)
- 里見宗次展(奈良そごう美術館・1992年)
- 里見宗次とモンパルナスの日本人画家たち(ナビオ美術館・小倉そごう・東武百貨店池袋店・千葉そごう美術館・1994年)
参考文献
[編集]- 「在仏70年記念 - 里見宗次ポスター展」図録((財)そごう美術館・毎日新聞社、1990年)
- 松本伸夫『二つの愛 ムネ・サトミのパリ』(京都書院、1991年)
- 瀬木慎一・竹内次男(監修)「里見宗次卒寿記念 - 里見宗次とモンパルナスの日本人画家たち」図録(毎日新聞社・1994年)
- 「異邦人たちの夢 エコール・ド・パリと巴里を描いた日本人」カタログ(福井市美術館・松坂屋美術館・キュレイターズ、2007年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s “里見宗次”. 東京文化財研究所. 2014年12月11日閲覧。
- ^ a b c d “里見宗次”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年12月11日閲覧。
- ^ 小出は、里見邸の襖絵を制作している。
- ^ 但し、家族から反対されたこともあり、正式に結婚の手続きをとったのは父の死後、1930年のことであった。この間、長男ペーター(日本名時宗)が1928年に誕生している。
- ^ “第137回デザインギャラリー1953「里見宗次のポスター」”. 2014年12月11日閲覧。
- ^ 雑誌「広告界」の編集長であった室田庫造が、連絡もなく単身パリに現れ、里見はやむなく手伝ったものともされる。
- ^ 松本、164頁(瀬木ほか、120頁も同旨)。アルコの作品にはその大半に1939年のサイン(里見の作品には、その殆どに19XX年制作を示す "SATOMi XX" のサインが入る)があり、松本の記述とは矛盾する(一部作品には "SATOMi 41" のサインがあるが、里見がニューヨークから帰国したのは1940年7月であるとされ(松本、165頁)、これとも矛盾する)。なお、高田隆雄「アルコの広告とある出会い」(鉄道ファン247号(交友社、1981年11月号)、pp.100-105)において、高田が里見と1949年にバンコクで偶然会って聞いた話として「パリからニューヨーク経由で日本に送還される途中、ニューヨーク到着時には無一文に近い状況だったが、アルコとの連絡の結果、広告謝礼の支払いを受けた」旨の記述がある。また同記事で転載されているポスターには、サインとは別に縁に記された日付が「December 2, 1939」や「December 30, 1939」とも読み取ることができ(101-102頁)、松本の記述(162頁)でも「ニューヨークに着いたのがクリスマスでした」とある。以上のことから、アルコのポスター制作は1940年の渡米時以前、あるいは送還の途次に行われていた可能性が高い。
- ^ 松本、181頁。瀬木ほか、120頁では元タイ外相のビチットによる斡旋とする。
- ^ 佐伯祐三が描いた「扉」(1928年)は、同アパートの門扉である。
- ^ 1991年に総制作数2万点を達成した。瀬木ほか、123頁。
外部リンク
[編集]- HISTORY of 日本郵船 - 里見宗次のポスター「躍進 日本郵船」(1941年)が見られる。