都塚古墳

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都塚古墳
Miyakozuka-kofun.jpg
墳丘全景
(中央に横穴式石室の開口部)
所在地 奈良県高市郡明日香村大字阪田小字ミヤコ938
位置 北緯34度27分49.09秒
東経135度49分39.70秒
座標: 北緯34度27分49.09秒 東経135度49分39.70秒
形状 方墳
規模 幅41m×42m
高さ4.5m以上
築造年代 6世紀後半
埋葬施設 両袖式横穴式石室
(内部に家形石棺1基・木棺1基)
被葬者 (一説)蘇我稲目
出土品 土師器須恵器・鉄製品・瓦器
史跡指定 なし
特記事項 類例の少ない階段ピラミッド形
地図
都塚古墳の位置(奈良県内)
都塚古墳
都塚古墳
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都塚古墳(みやこづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字阪田にある古墳。形状は方墳。史跡指定はされていない。別称を「金鳥塚」とも。

6世紀後半(古墳時代後期)の築造で、蘇我稲目の墓と推定する説がある。類例のほとんどない「階段ピラミッド」形状を持つ古墳として知られる。

概要[編集]

奈良盆地南東縁、明日香村中央部の石舞台古墳(明日香村島庄)の南南東約400メートルの尾根上に位置する大型方墳である[1]1967年昭和42年)に関西大学文学部考古学研究室による調査が、2013年-2014年度(平成25年-26年度)に明日香村教育委員会・関西大学文学部考古学研究室による調査が実施されている[2]

墳形は方形で、復原規模は東西41メートル・南北42メートル、高さ4.5メートル以上を測る[2]。墳丘表面では階段状に積み石がなされ、各段0.3-0.6メートルが計4段以上あったとされる[2]。このような「階段ピラミッド」形状は日本では類例がほとんど知られておらず、5世紀頃に高句麗百済で見られる階段状積石塚との関連が指摘される[3]。墳丘周囲には周濠が巡らされており、この周濠は幅1.0-1.5メートル、深さ0.4メートルを測る[2]。埋葬施設は両袖式横穴式石室で、南西方に開口し[1]、石室長は約12メートルを測る[2]。石室内部には家形石棺が据えられたほか、木棺(非現存)の追葬が推定される[2]。盗掘に遭っているため、副葬品のほとんどは散逸している[1]

この都塚古墳は、6世紀後半の築造と推定され[2]、築造には約3万人が関わったと推計されている[4]。一帯は飛鳥時代において蘇我氏が勢力を持った地域とされており、蘇我馬子の墓と推定される石舞台古墳や、馬子の邸宅と推定される島庄遺跡などが知られる[2]。本古墳についても、石舞台古墳よりやや遡ることから馬子の父の蘇我稲目欽明天皇32年(570年?)没)とする説が挙げられている[3]。また、当時は前方後円墳の終焉から定型化大型方墳への過渡期であったことから、前方後円墳に代わる次の形式を模索する過程で、本古墳が中国・朝鮮半島の積石塚を参考にして築造されたとする説がある[5]

なお、この都塚古墳では、後世の地震(宝永地震または安政東海安政南海地震か)によると見られる地割れや石室の亀裂が認められている[6]

埋葬施設[編集]

玄室内部
中央には家形石棺

埋葬施設には石英閃緑岩(飛鳥石)による両袖式横穴式石室が使用されている[2]。石室の規模は次の通り[2]

  • 全長:12.2メートル
  • 玄室
    • 長さ:5.3メートル
    • 幅:2.8メートル
    • 高さ:3.55メートル
  • 羨道
    • 長さ:6.9メートル
    • 幅:1.9-2.0メートル
    • 高さ:約2メートル

玄室中央には、二上山凝灰岩製で刳抜式の家形石棺が据えられている[2]。この石棺は、棺身長2.23メートル、棺身幅1.46メートル、棺身高1.08メートル、総高1.72メートルを測る[2]。また、棺台が存在することから木棺(非現存)が追葬されたと見られている[2]。この石室は盗掘を受けたため副葬品のほとんどは散逸しているが、調査により鉄製品など(後述)が発見されている[1]

出土品[編集]

主な出土品は次の通り[2]

脚注[編集]

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参考文献[編集]

(記事執筆に使用した文献)

関連文献[編集]

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『都塚古墳発掘調査報告書 飛鳥の多段築墳の調査(明日香村文化財調査報告書 第12集)』 明日香村教育委員会文化財課・関西大学文学部考古学研究室編、明日香村教育委員会文化財課、2016年

関連項目[編集]