郭徳海

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郭 徳海(かく とくかい)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。

概要[編集]

モンゴルに仕えるまで[編集]

華州鄭県の人で、唐代安史の乱鎮圧に活躍した郭子儀の末裔とされる[1]。チンギス・カンの中央アジア遠征に従軍し活躍した郭宝玉の息子であり、容貌は奇偉で、父同様に天文・兵法に通じていたという。当初は金朝に仕えて父とともに「猛安」に任じられており、彭義斌を山東で破る功績を残している。後に行動を別にしていた父がモンゴル帝国に降ったことを知ると、太行山に逃れ入り、父同様にモンゴル軍に降った[2]

モンゴル軍に加わった郭徳海は「抄馬(Čaqmaq)弾壓」の称号を授かり、中央アジア遠征軍の先鋒を務めた。キジルバシュを渡り鉄山を攻めた時には、煙をたいて戦場を満たすことで敵軍の動揺をもたらし、斬首3万級を得る勝利を挙げた。1225年(乙酉)には中央アジア遠征から帰還して崢山に至り、チベット人の尼倫・ウイグル人の阿必丁が起こした叛乱を平定している[3]

1228年(戊子)春には元帥のココチュとともに金朝侵攻に加わり、関中まで至ったが、援兵が至らなかったために一時撤退している。1229年(己丑)秋、南山83寨を破り陝西地方を平らげた。郭徳海は大将を先導して漢中を通り、金朝の武仙率いる軍団と各地で転戦した。最終的に武仙軍は敗走し、徳は斬首2万級を得た。その後、更に移剌粘哥の軍を鄧州で破り、11月には鈞州に至った[4]

1231年(辛卯)正月、トゥルイ率いる軍団と合流して三峰山にて金朝軍主力に決戦を挑んだ(三峰山の戦い)。大雪の中行われた激戦をモンゴル軍は制し、金軍は30万もの死者をだして敗走した。更に金将の合喜を撃退し、功績により右監軍に移った[5]

1232年(壬辰)正月には金軍を黄龍岡で破り、1233年(癸巳)には申州・唐州を奪取した。1234年(甲午)、河南で叛乱があったため郭徳海は出陣したが、足に砲傷を受け、これがもとになって病死したという[6]

後に、1238年シギ・クトクらによって実施された華北在住の仏道の選別試験、華北における「投下(特に工芸者)」の分配、天下の人材の選抜は郭徳海の進言によって行われたとされる[7]。このような文化政策が必要とされた背景として、本来帝位を継ぐことを想定されていなかったオゴデイが第2代皇帝となったため、信頼おける漢人知識人が不足していたためではないかと考えられている[8]

脚注[編集]

  1. ^ 宮2018,604頁
  2. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「徳海字大洋、資貌奇偉、亦通天文・兵法。金末、為謀克、擊宋将彭義斌於山東、敗之。知父宝玉北降、遁入太行山、大軍至、乃出降、為抄馬弾壓」
  3. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「従先鋒柘柏西征、渡乞則里八海、攻鉄山、衣幟与敵軍不相辨、乃焚蒿為号、煙焰漫野、敵軍動、乗之、斬首三万級。踰雪嶺西北万里、進軍次答里国、悉平之。乙酉、還至崢山、吐蕃帥尼倫・回紇帥阿必丁反、復破斬之」
  4. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「戊子春、従元帥闊闊出游騎入関中、金人閉関拒守、徳海引驍騎五百、斬関入、殺守者三百人、直擣風陵渡寨、後兵不至、引還。己丑秋、破南山八十三寨、陝西平。徳海導大将魁欲那拔都、假道漢中、歴荊・襄而東、与金将武僊軍十万遇於白河、徳海提孤軍転戦、僊敗走、斬首二万餘級、復破金移剌粘哥軍于鄧。冬十一月、至鈞州」
  5. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「辛卯春正月、睿宗軍由洛陽来会于三峯山、金人溝地立軍囲之。睿宗令軍中祈雪、又燒羊胛骨、卜得吉兆、夜大雪、深三尺、溝中軍僵立、刀槊凍不能挙。我軍衝囲而出、金人死者三十餘万、其帥完顔哈達・移剌蒲兀走匿浮図上、徳海命掘浮図基、出其柱而焚之、完顔斜烈単騎遁還洛陽。又破金将合喜兵於中牟、完顔斜烈復帥軍十万来拒、戦于鄭、先登破之、殺其都尉左崇。以功遷右監軍」
  6. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「壬辰正月、破金師於黄龍岡。癸巳、取申・唐二州。甲午、河南復叛、徳海往討之、砲傷其足、以疾帰、卒」
  7. ^ 『元史』巻149列伝36郭宝玉伝,「先是、太宗詔大臣忽都虎等試天下僧尼道士、選精通経文者千人、有能工芸者、則命小通事合住等領之、餘皆為民。又詔天下置学廪、育人材、立科目、選之入仕、皆従徳海之請也。子侃」
  8. ^ 宮2018,648頁

参考文献[編集]

  • 小林高四郎『元史』明徳出版社、1972年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 『元史』巻149 列伝36 郭宝玉伝