西域都護

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

西域都護(せいいきとご、さいいきとご)は、西域を統括することを示す中国の官名である。

前漢地節2年(紀元前68年)、漢から西域に派遣されていた鄭吉車師を屈服させると、漢は鄭吉を「護鄯善以西南道」(西域南道の監督役)とした。

その後、神爵3年(紀元前59年)に匈奴の日逐王を降伏させたことで、鄭吉は「護車師以西北道」にも併せて任じられ、西域の南北両道全てを統括することになり、「西域都護」(「都」は大きい、全て、という意味)と称されるようになった。これが西域都護の由来である。

西域都尉は加官であり、本官は騎都尉(官秩比二千石)や諫大夫(官秩比八百石)であった。副官として副校尉(官秩比二千石)が置かれ、丞1人、司馬2人、候2人、千人2人が属した。西域の中央部である烏塁城に幕府を置き、西域36国を鎮撫し、諸国に号令をかけた。

後漢においては漢が西域への軍事的影響力を保持できず、しばしば廃止と設置を繰り返した。

おもな西域都護[編集]

前漢[編集]

  • 鄭吉(前59年 - 前48年)
  • 韓宣(前48年 - 前45年)
  • 甘延寿(前36年 - 前33年)
  • 段会宗(前33年 - 前30年)
  • 廉褒(前30年 - 前27年)
  • 段会宗(前21年 - 前18年)…再任
  • 郭舜(前15年 - 前12年)
  • 孫建(前12年 - 前9年)
  • 但欽1年 - 13年)

[編集]

  1. 但欽(1年 - 13年殺)
  2. 李崇(13年 - 23年

後漢[編集]

  1. 陳睦74年 - 75年殺)
  2. 班超(91年 - 102年
  3. 任尚(102年 - 106年
  4. 段禧(106年 - 107年

参考文献[編集]

  • 班固顔師古注)『漢書』(巻19表第七 下百官公卿表下、巻70列伝第四十 傅常鄭甘陳段伝、列伝第六十 西域伝)
  • 范曄後漢書』(列伝第四十 班梁列伝第三十七、列伝第八十六 西域伝第七十八)

関連項目[編集]