廉褒

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廉 褒(れん ほう、生没年不詳)は、前漢の人。字は子上。隴西郡襄武県[1]の人。先祖は廉頗で、漢の時代になり豪族であったため苦陘から移住させられたという[2]

略歴[編集]

西域都護を務め、その恩義と信頼が賞賛された[1]

永始3年(紀元前14年)に金城太守から執金吾に移り、永始4年(紀元前13年)に右将軍となる。

綏和元年(紀元前8年)、男子に恵まれなかった成帝が皇太子を甥の定陶王(哀帝)と弟の中山王から選ぶ際、成帝は丞相御史大夫将軍に諮問した。廉褒は丞相翟方進大司馬驃騎将軍王根らと共に定陶王を支持し、定陶王が皇太子に立てられた。しかしこの年、淳于長の事件に廉褒も連座し、罷免され庶人となった[3]

子の廉丹の将軍として有名である。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『漢書』傅常鄭甘陳段伝の賛。
  2. ^ 『後漢書』廉范伝。
  3. ^ 『漢書』孔光伝。

参考文献[編集]

  • 巻19下百官公卿表下、巻69趙充国辛慶忌伝、巻70傅常鄭甘陳段伝、巻81孔光伝