袁斉キ

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袁 斉媯(袁 齊媯、えん せいき、405年 - 440年)は、南朝宋文帝劉義隆の皇后本貫陳郡陽夏県

経歴[編集]

袁湛の娘として生まれた。母の王氏は正妻ではなく、関係は不明であるが、卑賤の出であったという。

宜都王の劉義隆にとつぎ、宜都王妃に立てられた。劉劭と東陽献公主劉英娥を産んだ。元嘉元年(424年)9月、皇后に立てられた。

皇后は頻繁に袁氏一族への賞賜を求めた。文帝は節倹を重視し、每回の賞賜は数万銭だけであった。潘淑妃中国語版が文帝の寵愛を受けるようになると、皇后は淑妃に頼んで袁氏一族に30万銭の大金を求め、翌日にはそれを得ることができた。しかし、皇后は潘淑妃を嫉妬し恨むようになり、病と称して文帝に会うのを避けるようになった。始興王劉濬ら諸庶子が見舞いに訪れても面会に応じなかった。元嘉17年(440年)7月、病が重くなり、顕陽殿で死去した。享年は36。は元皇后といった。9月、長寧陵に葬られた。

伝記資料[編集]