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草生政恒

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草生 政恒(くさお まさつね、1863年3月20日(文久3年2月2日[1][2]) - 1957年昭和32年)7月17日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧名・鍗造[1]

経歴

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越後国(現新潟県)出身[1][2][3]。草生惣蔵の二男として生れる[1]。1882年(明治15年)9月、陸軍教導団歩兵科を卒業[1]。1884年(明治17年)3月、歩兵軍曹に任官[1]。同年9月、陸軍士官学校に入校[1]。1887年(明治20年)7月21日、陸士(旧9期)を卒業し歩兵少尉に任官、歩兵第9連隊小隊長となる[2][4][5]。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校に入学するが、日清戦争開戦のため1894年(明治27年)7月に中退[6]。1895年(明治28年)8月、歩兵大尉に進み歩兵第9連隊中隊長に就任[1]。1896年(明治29年)2月、陸大に復校して、1897年(明治30年)12月、陸大(11期)を卒業した[2][3][6]

1899年(明治32年)11月、参謀本部員となり、1901年(明治34年)2月、歩兵少佐に昇進[1]。1902年(明治35年)2月、第1師団参謀に転じた[1]。同年9月、陸軍省総務局課員となり、人事局課員に転じて、1904年(明治37年)11月、歩兵中佐に進級[1]。1905年(明治38年)9月、人事局補任課長に就任し、1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に昇進した[1][3]

1912年(明治45年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第10旅団長となる[1][2][3]。1912年(大正元年)9月、 予備役に編入され[2][3]、1922年(大正11年)4月、後備役となった[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]

栄典

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親族

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  • 子息 草生政克(陸軍主計少佐)[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』268頁では10月26日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、58頁。
  2. ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』268頁。
  3. ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』80頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』78、80頁。
  5. ^ 『官報』第1221号、明治20年7月25日。
  6. ^ a b 『日本陸海軍総合事典』第2版。58、548頁。
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」54頁。
  8. ^ 『官報』第2193号「叙任及辞令」1890年10月20日。
  9. ^ 『官報』第2571号「叙任及辞令」1892年1月28日。
  10. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  11. ^ 『官報』第8702号「叙任及辞令」1912年6月22日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。