花月 (駆逐艦)
艦歴 | |
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計画 | 1941年度(マル急計画) |
起工 | 1944年2月10日 |
進水 | 1944年10月10日 |
竣工 | 1944年12月26日 |
除籍 | 1945年10月5日 |
その後 | 復員輸送に従事 賠償艦としてアメリカへ (調査終了後処分) |
要目(計画) | |
排水量 | 基準:2,701英トン 公試:3,470トン |
全長 | 134.2m |
全幅 | 11.6m |
吃水 | 4.15m |
機関 | ロ号艦本式缶3基 艦本式タービン2基 2軸 52,000馬力 |
速力 | 33.0ノット |
航続距離 | 18ノットで8,000海里 |
燃料 | 重油:1,080トン |
乗員 | 263名 |
兵装 (1945年) |
65口径10cm連装高角砲 4基8門 25mm機銃 3連装7基 同単装機銃8挺[1](竣工時) (単装機銃8挺を後に追加装備[1]) 13mm単装機銃4挺(後に追加装備[1]) 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 (九三式魚雷8本) 九四式爆雷投射器2基 爆雷投下軌条2条(推定) 九五式爆雷 54個 |
電探 (1945年) |
22号電探1基 13号電探2基 |
水測兵装 | 九三式探信儀1基 (九三式水中聴音機1基)[2] |
花月(はなづき)は、日本海軍の駆逐艦。秋月型の12番艦である。
艦歴
第366号艦として1944年2月10日、舞鶴海軍工廠で起工し、1944年10月10日に進水、1944年12月26日に竣工した。同日訓練部隊である第11水雷戦隊に編入された。しかし残工事があり、翌年1月後半に呉へ回航された。
旗艦用の改装工事を受けた「花月」は1945年(昭和20年)3月15日に第2艦隊隷下となっていた第31戦隊に編入、18日に鶴岡信道少将が乗艦し第31戦隊の独立旗艦となった。1945年4月6日、坊ノ岬沖海戦に「花月」は第43駆逐隊の「榧」「槇」と共に前路掃討隊として参加、15時20分に徳山沖を出撃、豊後水道出口まで随伴し16時20分に解列、沖縄に向かう「大和」以下を見送り「花月」ら3艦は反転した。その後呉で出撃待機していたが翌日に作戦中止、出撃の機会は無かった。
5月20日、本土決戦に際し、日本海軍では、航空機・回天、震洋、特殊潜航艇等の特攻兵器が主力となっていた中で、奇襲を主とした、唯一の水上艦部隊である海上挺進部隊が第31戦隊を主力として組織される。その中で、花月は旗艦となり、米軍の本土上陸に備えていた。7月ころより本土決戦のために戦力を温存、重油不足もあり残存艦の多くは擬装の上繋留し待機していた。「花月」も屋代島付近にて遼艦で松型駆逐艦の「桐」「蔦」と共に擬装繋留し戦力を温存していて[4]、そのまま8月15日の終戦を迎える。
無傷であった花月は復員輸送艦として用いられ、1947年戦時賠償艦としてアメリカ軍に引き渡し、「DD934」と命名される。調査終了後処分された[5]。
歴代艦長
艤装員長
- 東日出夫 中佐:1944年12月1日 -
艦長
- 東日出夫 中佐:1944年12月26日 -
脚注
- ^ a b c 『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』p174。
- ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされたらしい。装備時期は不明。『歴史群像 太平洋戦史シリーズ23 秋月型駆逐艦』p39、『写真 日本の軍艦 第11巻』p158による。
- ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p354。
- ^ 『艦長たちの太平洋戦争 続篇』p183、「榧」艦長だった森本義久少佐(当時)の回想による。
- ^ 『写真 日本の軍艦 第11巻』p175。
参考文献
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0461-X
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23 秋月型駆逐艦』学習研究社、2001年。 ISBN 4-05-602063-9
- 中川寛之「第三十一戦隊と丁型駆逐艦部隊全史」『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年。ISBN 4-05-603251-3
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』光人社、1984年。 ISBN 4-7698-0231-5