稲垣長敬
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時代 | 江戸時代 末期 - 大正時代 |
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生誕 | 嘉永7年7月12日(1854年8月5日) |
死没 | 大正9年(1920年)8月24日 |
戒名 | 泰巌長敬信徳院 |
墓所 | 三重県鳥羽市鳥羽二丁目の常安寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 志摩国鳥羽藩主 |
氏族 | 稲垣氏 |
父母 | 父:稲垣長明、養父:稲垣長行 |
兄弟 | 長行、長敬、長完、富三郎 |
妻 | 正室:本多忠廉の娘 |
子 | 娘(稲垣長昌正室)、養子:長昌 |
稲垣 長敬(いながき ながひろ)は、志摩鳥羽藩の第8代(最後)の藩主。明治維新後は子爵。鳥羽藩稲垣家12代。
経歴
[編集]嘉永7年(1854年)7月12日、第6代藩主稲垣長明の次男として生まれる。明治元年(1868年)、兄で第7代藩主の長行が早世したため、その養子として家督を継いだ。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で鳥羽藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で藩知事を免官された。学制発布時には「鳥羽聯合小学校」(現・鳥羽市立鳥羽小学校)創設のために出資した[1]。その後、慶應義塾に入り大学部を卒業した[2]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[3]。
大正9年(1920年)8月24日に死去した[4]。享年67。
孫に稲垣長賢がいる。
家族
[編集]父母
妻
- 本多文子 - 本多忠寛の娘
子女
- 稲垣銑子 - 稲垣長昌夫人
養子
脚注
[編集]- ^ 鳥羽市史編さん室 1991, pp. 148–149.
- ^ 『慶應義塾入社帳』第1巻434頁(NDLJP:12244872/232)、第5巻181頁(NDLJP:12248538/108・588頁(NDLJP:12248538/316)。
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第2422号、1920年8月27日。
参考文献
[編集]- 『慶應義塾入社帳 第1巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年3月。NDLJP:12244872
- 『慶應義塾入社帳 第5巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年9月。NDLJP:12248538
- 鳥羽市史編さん室『鳥羽市史 下巻』鳥羽市役所、1991年3月25日、1347頁。全国書誌番号:92001549
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (鳥羽)稲垣家初代 1884年 - 1920年 |
次代 稲垣長昌 |