石星川

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石星川
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1880年光緒6年)
死去: 1948年民国37年)7月22日
中華民国の旗 中華民国
出身地: 湖北省黄州府興国軍(現在の陽新県
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 石星川
簡体字 石星川
拼音 Shí Xīngchuān
ラテン字 Shih Hsing-ch'uan
和名表記: せき せいせん
発音転記: シー シンチュアン
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石 星川(せき せいせん)は中華民国の軍人・政治家。湖北軍の軍人。後に中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となった。原名は承楷、敦人漢舫参人[1]

事跡[編集]

黄州府興国州中国語版墈頭石高村(現:陽新県七峰郷)出身、のち興国州城(現:陽新県興国鎮中国語版)。幼少期より文武両道で科挙を受けたが落第したため、湖北新軍工程営に入隊。成績優秀だったため、武昌の湖北武普通中学堂にて領班兼助教として派遣される[1]

1903年(光緒29年)秋、日本に留学して、東京振武学校に入学。陸軍士官学校第4期歩兵科進学。同時期に中国同盟会に入っている[1]。を卒業した近衛歩兵第4連隊で士官候補生として勤務。1908年に帰国後は、湖北陸軍小学堂副監督[1]。陸軍部の推薦で陳宧が統制官(師団長)を務める東北新軍第20鎮にて第79標(錦州駐屯)標統、第80標標統を歴任している。

辛亥革命が勃発すると、石星川は帰郷して湖北軍政府に参加し湖北陸軍第一混成旅旅長、中華民国成立後は、武昌の第1師師長に任ぜられた。1913年民国2年)、中将。1915年民国4年)12月、袁世凱が皇帝に即位すると、石星川は二等男爵の位を授けられている。

1917年(民国6年)11月、石星川は護法運動に呼応し、黎天才率いる湖北靖国軍で副総司令兼第1軍軍長となった。しかし翌年1月、湖北督軍王占元に敗北して、四川省との境に逃れ、しばらくここに割拠する。1921年(民国10年)、四川軍の攻撃に敗れ、地盤を追われた。1923年(民国12年)2月、北京政府から平威将軍の地位を授与されている。同じく名ばかりの将軍7人と「将軍団」を結成し、以降実業家として漢口の日本租界で寓居した[1]

1938年(民国27年)10月、武漢が日本により陥落する。日本の支持を受けた石星川は、中華民国維新政府において武漢市参議府副議長に任ぜられた。年末には議長に昇進した。1939年4月、兼政務訓練院院長[1]

汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府が成立した後の1940年(民国29年)5月、石星川は中江実業銀行董事長、総裁となる。また同月、何佩瑢が結成した共和党に加入し、副総裁に任命されている。しかし同年12月、共和党は解散された。翌年、石は中国国民党中央執行委員、全国経済委員会委員、豫鄂贛三省財政整理委員会主任委員に任ぜられた。1943年(民国32年)10月、漢口特別市市長に任ぜられている。何佩瑢、張仁蠡雷寿栄と湖北省“四大漢奸”と称された[1]

日本敗北後、蔣介石の国民政府により漢奸として逮捕された。1946年(民国35年)4月7日、湖北省高等法院より死刑判決を下される。商震によって1948年(民国37年)に無期懲役に減刑されたが、精神に異常をきたし錯乱状態のまま同年7月22日に獄死した[1]。享年69。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 武昌区志 第二十六篇 人物 一、人物传略”. 武汉地方志网站. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月4日閲覧。

参考文献[編集]

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
張仁蠡
漢口特別市長
1943年10月 - 1945年8月
次代
(廃止)