真田丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
心眼寺にある真田幸村出丸城跡碑
(大阪市天王寺区餌差町)

真田丸(さなだまる)は、1614年慶長19年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が豊臣期大坂城平野口の南に構築した曲輪(出丸)である。

概要[編集]

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川大和川淀川東横堀川などに守られた堅城であったが、真田丸の築かれた地続きとなる南方だけは空堀を設けたのみで、防御が手薄で大坂城の脆弱部であると思われているが、これは誤った認識で、千田嘉博によると「大坂城の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであり。ここは地形の高低差が少なく、惣堀の幅も狭い。信繁は、真田丸という突出部を築くことで、真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくした」のである。さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している[1]。この南惣構堀である空堀の東部に設けられた虎口が平野口である。

1614年慶長19年)、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。信繁は1600年(慶長5年)に、父の真田昌幸が指揮した信濃国上田城(長野県上田市)における上田合戦(第二次)において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。12月4日1615年1月3日)早朝、徳川方の前田利常井伊直孝松平忠直らの軍勢が攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功した。

冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。夏の陣の終了後に造成された小橋寺町を境に、その西側が真田山、東側が宰相山と呼ばれるようになった。江戸期の絵図では、付近に加賀築山や越前築山といった記載も見られる。

なお、1939年(昭和14年)に開園した真田山公園に、真田山町という町名が1965年(昭和40年)に付けられたが、真田丸跡を特定するものではない。

構造[編集]

大阪文化財研究所・大阪歴史博物館によって豊臣時代の上町台地周辺の地形が復元された[2]。これによると、真田丸の北側には幅200メートルの谷があることから大坂城惣構えから孤立した立地にあり、大坂城の惣構えと隣接していたとする通説が誤りであることが判明した。構造は東西180メートルほど[3]半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置。三方にを配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとして描かれる。 多くの絵図では、真田丸は大坂城に隣接した半円形の出城として描かれていることが多かった。しかし『浅野家文庫諸国古城之図』が採録した『摂津 真田丸』の絵図を調査した千田嘉博によると、真田丸は半円形ではなく不定形の形の城であったとする[4]。また『摂津 真田丸』では徳川軍の迫る南側だけでなく、大坂城に面した北側にも堀を設け北側からの攻撃にも対処した曲輪を備えて描かれていたことから、すなわち真田丸が惣構えに従属した施設だったのではなく、全方向からの攻撃に備えた独立した出城であったことが判明した[5]。真田丸を設けた目的は、大坂城の弱点補強のための簡易的な出丸ではなく、徳川軍をおびき寄せて打撃を与える、より積極的な「攻撃のための出城」であったことがと指摘されている[6]。 出入口は東西二ヶ所あり、西側の出入口は惣堀に近い場所に設置されていた。敵がここから侵入すると、惣構え内と真田丸との十字射撃を受けることになる[7]

史料[編集]

  • 『山口休庵噺』
  • 『慶元記』
  • 『摂津名所図会大成』巻3

周辺情報[編集]

三光神社境内にある大坂城へ通じていたと伝わる真田の抜け穴跡。
大阪市天王寺区玉造本町、宰相山に鎮座する神社。境内に大坂城からの抜け穴とされる跡が残っているが信ぴょう性は薄く、実際は真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとされている[8]
大阪市天王寺区空堀町に所在する高野山真言宗寺院。「摂津名所図会大成」巻3に拠れば、どんどろ大師の寺誌とともに、「真田丸」跡地の意味である「別堡(でまる)古趾 俗に大師山といふ」という記載がある。同書には、現在の大阪市天王寺区空清町に所在する円珠庵の寺誌の内に、「真田別堡古趾」(真田丸跡地)の項目を立て、その説明として、円珠庵より眺望できる、東南の一堆の丘は俗に大師山と称されており、その丘は、一説には真田幸村が籠もった出丸で、捨郭であるとされる。また、出丸は今の清水谷にあったという説があると記載されている。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 千田 2015, p.158
  2. ^ 大阪文化財研究所・大阪歴史博物館『科学研究費補助金基盤研究A 上町台地の総合的研究』(2014年)
  3. ^ 100四方(180メートル)説と南北123間×東西79間説がある。参考・一個人編集部編 『一個人 戦国武将の知略と生き様』 KKベストセラーズ 2014年第10刷(初版第1刷2011年) ISBN 978-4-584-16618-5 p.21
  4. ^ 千田 2015, pp.19-22
  5. ^ 千田 2015, pp.25-26
  6. ^ 千田 2015, p.34
  7. ^ 千田 2015, p.36
  8. ^ 千田 2015, p.40

参考文献[編集]

  • 大阪文化財研究所・大阪歴史博物館『科学研究費補助金基盤研究A 上町台地の総合的研究』(2014年)
  • 千田嘉博 『真田信繁「勝利」への条件』 三笠書房、2015年ISBN 9784837926146 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]