盧植

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

盧 植(ろ しょく、? - 192年)は、中国後漢末期の政治家・将軍・学者。子幹。子は盧毓他少なくとも3人。本籍は幽州涿(たく)郡涿県(現在の河北省保定市涿州)。『後漢書』に伝がある。また、『三国志志「盧毓伝」が引く『続漢書』にも記録がある。

後漢の末期に文武の才能を見込まれ立身した。黄巾の乱の追討に功績を挙げた将軍の1人として知られる。儒学者としては『礼記』の注釈者としても知られる。三国時代蜀漢を興した劉備の師でもある。

生涯[編集]

身長は8尺2寸(約195cm)で、声は鐘のように大きくよく響いたと伝わる。

若い頃に、鄭玄とともに馬融に師事して儒学を学び、古今の学問に通じた。馬融は外戚出身の豪族の出であったため、よく多くの女人を侍らせ歌舞を楽しみながら講義をしていたが、盧植はそれには目もくれなかったため、馬融は盧植に敬意を持った。古今の書に通じ、博学で節義も高かった事から人望が厚く、剛毅で節度のある性格で、常に世の中を救う志を持っていた。辞賦は好まず、酒は一石程嗜んだ。

桓帝の没後、皇后の父である竇武霊帝を擁立し、朝政を見るようになると、封爵を与えようとする意見があった。盧植はこれを諌めたが、竇武には聞き入れられなかった。

盧植には州郡からの仕官の誘いがあったが、それをすべて辞退した。建寧年間の中期に博士となった。熹平4年(175年)に九江蛮が反乱を起こすと、文武の才能がある人物として四府から推薦され、盧植が九江太守に任命された。蛮族が降服すると、盧植は病のため官職を去った。

盧植は故郷の幽州涿郡に戻り、『尚書章句』や『礼記解詁』といった著作を著した。また学舎を主宰し、劉備や公孫瓚といった近隣の子弟に学問を教えている(『三国志』蜀志「先主伝」・魏志「公孫瓚伝」)。

太学石経を始めて立て、五経を正す事となった時、上書して儒学者としての意見を述べた。

会南夷が反乱を起こすと、かつての九江太守であった時の恩信を買われ、廬江太守に任命された。

数年して復職し議郎に任命された。東観で馬日磾蔡邕楊彪・韓説らとともに、五経の校訂や漢紀の編纂にも携わった。

後に侍中となり尚書に移った。光和元年(178年)、日食があり、上書して政治を正すよう意見を述べた。霊帝はこれに従わなかった。

中平元年(184年)、黄巾の乱が起きると、盧植は再び四府からの推挙を受け、北中郎将に任命され、節を持つ事を許された。護烏桓中郎将の宗員を副官とし、北軍五校士の将とされて、天下諸郡の兵を集めて反乱軍の指導者である張角の討伐に向かった。盧植は張角の軍を大いに破って万余人を斬る功績を立てた。張角は広宗に敗走したが、盧植はこれを包囲し、雲梯を使って攻め立てた。丁度、霊帝が左豊を軍の監察の使者として派遣して来た。左豊は盧植に賄賂を要求したが、盧植はこれを断ったため、左豊は霊帝に「盧植は戦おうとしない」と讒言した。盧植は怒った霊帝により罪人に落とされ、死一等を免じて官職剥奪で収監される事となった。

後に車騎将軍皇甫嵩が黄巾を平定したが、皇甫嵩は盧植の功績を大いに称えたため、盧植は許されて、再び尚書に任命された。

189年光熹元年)、大将軍何進は宦官皆殺しに反対する何太后に圧力をかけるため、并州董卓を呼び寄せようとした。盧植は董卓の凶悪な性格を知っていたため、それを止めさせようとしたが、何進はそれに従わなかった。

何進が暗殺されると、その部下の袁紹らが宦官誅罰のため挙兵するが、盧植もそれに参加し、皇帝らを連れて逃げる宦官の前に、大斧を持って立ち塞がっている。

董卓が実権を掌握し、皇帝を少帝から献帝に挿げ替えようとすると、董卓の暴虐さに誰もが口を噤む中で、盧植のみがこれに反対した。そのため董卓によって処刑されかけるが、海内の学者・大儒として名高く人望の厚かった盧植は、蔡邕や議郎の彭伯の取り成しで助命され、免職だけに留められた。

その後、災いを避けるために病を理由に都から逃亡した。董卓はこれに追っ手を差し向けたが、追い付けなかった。

盧植は上谷で隠遁生活を送った。後に冀州牧となった袁紹に招かれて軍師となり、初平3年(192年)に病死した。

建安年間になり、袁紹を破り河北に進出した曹操は、袁紹の子らを破り柳城まで遠征する途中、盧植の故郷である涿郡を通過した時、亡き盧植の功績を称えてその功績を顕彰し、子の盧毓らを官職に就けて報いた。

創作における盧植[編集]

小説『三国志演義』では、黄巾の乱討伐の将軍として登場。かつての教え子で義勇軍を率いる劉備と再会し、劉備が「先生」と呼んで尊敬している様子が描写されている。宦官の讒言で陥れられて、囚人車で都に護送される場面では、行き会わせた劉備らが驚き、張飛が力尽くで救おうとするのを叱咤して止めるなどの見せ場がある。後に史実通り朝臣として復帰し、董卓の専横に反対し引退。劉備三兄弟との再会を果たす事はないまま、物語から姿を消す。

参考資料[編集]

  • 『後漢書』(虞傅蓋臧列傳
  • 『三国志』
  • 『三国志演義』
  • 渡邊義浩『儒教と中国「二千年の正統思想」の起源』