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番組制作会社

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番組制作会社(ばんぐみせいさくがいしゃ、production company, TV production company)は、放送局からの依頼でテレビ番組ラジオ番組制作をする会社

世界各地に番組制作会社がある。

アメリカ合衆国の番組制作会社

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アメリカ合衆国には11,500社以上のテレビ番組制作会社がある[1]

歴史

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Encyclopedia of Televisionの「Independent Production Companies」の章でアメリカの独立系のテレビ番組制作会社の歴史について説明されている[2]

それによると、米国の独立系テレビ番組制作会社は、1950年代半ばに、テレビ放送網とスポンサーとの番組制作・番組編成をめぐる争いが原因で登場した[2]。当時、スポンサーは番組の大部分を所有・制作し、さらに自分たちの番組が放送されるテレビ放送網の放送時間枠も所有していた[2]。一方、テレビ放送網はテレビ広告主の増加によって力を増した[2]。同時期、テレビ放送網は、高価な生放送への依存を減らし、フィルム撮影された映画を使い、テレビ映画(telefilm)として放送するようになった[2]。そして独立系番組制作会社がテレビ映画の主要な供給源になった[2]。1953年にHal Roach Jr.パイロット番組の制作資金を含む最初のテレビ映画契約を結んだ[2]

Frederick W. Ziv1948年にテレビへ進出し、The Cisco KidHighway PatrolSea Huntなどの初回放送向けシンジケーション番組[注 1]を制作し、米国各地の地方テレビ局へ供給した[2]。1950年代半ばになるとテレビ放送網が自らのプライムタイム番組を地方市場へ再販売するようになり、Zivの初回放送向けシンジケーション番組は競争に負け、1956年から1964年にかけて、Zivの初回放送向けシンジケーション番組は29本から1本に減少した[2]。Zivはその後、テレビ放送網向け番組の制作へ方向転換し、1960年に会社をユナイテッド・アーティスツ社(United Artists)へ売却した[2]

デシル・プロダクション(Desilu Productions)は、1951年にLucille BallとDesi Arnazによって設立され、『アイ・ラブ・ルーシー』(I Love Lucy)が成功。Television Academy FoundationのウェブサイトのI Love Lucyのページは具体的な数字でデシルプロダクションの成長ぶりを書いており、1951年の投資額は5,000ドルだったが、わずか6年間でスタッフが12人から800人へ増加した(a process of expansion that began with an investment of $5,000 in 1951 and saw the staff grow from twelve to eight hundred in just six years.)、といい[3]、 1950年代末には最大級の映画スタジオに匹敵する規模と制作量を持つ番組制作会社になった[2]

Ziv Televisionおよびデシル・プロダクションで番組の脚本執筆・制作の経験を積んだクイン・マーチン(Quinn Martin)は1960年に、自分の番組制作会社QM Productionsを設立した。QM Productionsが制作したThe F.B.I(『FBIアメリカ連邦警察』)は1965~1974年にABCで放送され、QM Productionsの最も長く続いたシリーズとなった。

その後の動きについて、The Economics of a Technology-Based Service Sector[4]は、Columbia、Walt Disney、MGMなどの既存映画会社がテレビ映画制作子会社を設立した、としている[4]。その結果、1963年までに、プライムタイムのテレビ番組のほぼ70パーセントがハリウッドの地で制作される状態になっていたという[4](既存の映画会社はハリウッドに集中していたため)。

1970年連邦通信委員会(FCC)がFinancial Interest and Syndication Rules(Fin-Syn)、およびPrime Time Access Rule(PTAR)を制定した。 米国議会図書館のサイトに Jennifer Gonzálezが寄せた資料Syndication Regulation and TV’s Big Three: Broadcasting Regulations and 1970s Television[5](「シンジケーション規制とテレビの三大勢力[注 2] ―― 放送規制と1970年代のテレビ」)によると、前者のFin-Syn(フィン・シン)は、テレビ放送網が放送した番組について初回放送以後の経済的利益を持つことや自らの番組をシンジケーション市場で配給することを制限するルールである[5]。同資料は、規則の実施後にテレビ放送網は番組に対する所有持分を手放し独立系番組制作会社が制作した番組を採用するようになった、としており[5]、具体例としてノーマン・リア(Norman Lear)とバド・ヨーキン(Bud Yorkin)のTandem Productions、メアリ・タイラー・ムーア(Mary Tyler Moore)とグラント・ティンカー(Grant Tinker)のMTM Enterprisesを挙げている[5]

日本の番組制作会社

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日本の番組制作会社の概説

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総務省の情報通信白書の2021年版(令和3年版)では、「放送番組制作業の企業数」という表現で番組制作会社の数が示されており、それによると、2012年 377社、2013年 439社、2014年 405社、2015年 372社、2016年 339社、2017年 316社...となっており[6]、毎年のように会社数に変化がある。

同白書では売上高の総計の推移も示されており、2012年 3257億円、2013年 3901億円、2014年 4255億円、2015年 3070億円、2016年 3460億円、2017年 3247億円...となっており[6]、毎年変動がある。2015年は売上総額が前年の4255億円から3070億円へと、約28パーセントも減少した。

歴史

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日本のラジオ業界においては、民放AMラジオ局の開局が相次いだ1950年代には番組制作会社がすでに存在しており、番組販売が盛んに行われていた。当時は民放ラジオ局の黎明期であり、またラジオ局が急増したことから、経験者も番組制作能力も不足していたからである。この時期に創業した、現存する制作会社としては桑の実プロ[7]太平洋放送協会(ともに1960年昭和35年〉創業)などがある。

テレビ放送のほうは、1940年の実験放送でテレビドラマが始まったが、当初のテレビドラマというのは、生ドラマ(生放送ドラマ)であり、テレビ局のスタジオで俳優が演技しているところをリアルタイムでカメラで撮影しそのまま生放送する、というものであった。つまり演技を録画・編集してから放送するのではなく、スタジオでの演技をそのまま生放送するものだった。[注 3] 1953年のテレビ本放送開始から1957年までは生ドラマの全盛期だった。生ドラマは、テレビ局の社員自身やテレビ局が雇った脚本家や演出家などで編成されたチームで作っていた。たとえば1955年のNHKのテレビドラマ『追跡』(第10回芸術祭賞を受賞作品)も、全部、生放送による生ドラマであり、録画は一切使っていなかった[8]。テレビドラマの状況が変化しはじめたのは1958年である。1958年にラジオ東京テレビ(現・TBS)が『私は貝になりたい』でVTR(テープ録画)を初めて一部使用した[8]。そして録画の割合が次第に増えていった。

放送局による番組製作会社の設立

1950年代なかばから、下に示すように、放送局みずから出資して自社傘下の制作会社を設立するようになった[9]

  • 1955年 ラジオ東京(現在のTBS)が東京テレビ映画株式会社を設立[9]。(その後社名は何度か変遷し、TBSビジョンとなった)
  • 1958年 フジテレビが共同テレビジョンニュース社を設立[9](その後社名は共同テレビジョンとなった)
  • 1958年 テレビ朝日が朝日テレビニュース社を設立[9](その後、テレビ朝日映像となった)
  • 1970年 日本テレビ放送網が日本テレビAアンドVを設立[9](その後社名は日本テレビビデオとなった)
  • 1985年 NHKがNHKエンタープライズ21を設立[9]。(その後社名はNHKエンタープライズとなった)

1955年3月、ラジオ東京テレビ(KRT)のテレビ放送開始にともない、東京テレビ映画株式会社が設立された。そして、1957年11月11日、TBS傘下の番組制作会社である東京テレビ映画が制作した『ぽんぽこ物語』が放送開始された。TBSホールディングスの資料はこの作品を「日本の放送史において、はじめて自前でフィルム収録し制作したドラマ番組」としている。

なお、放送局が過半を出資していれば番組制作会社は放送局の子会社であり[注 4]、出資した放送局に従属しており、放送局の支配下にある。放送局の社員が出向して役員(番組制作会社の幹部)となることも多い[注 5]

「創」によると、1960年代から映画会社ニュース映画制作に携わった新聞社がテレビ番組制作に関わり、またニュース映像やドラマの制作プロダクションが誕生した[10]が、1970年(昭和45年)以前は基本的にはテレビ番組はテレビ局の社員のみで制作することが基本であった。

独立系制作会社の誕生

1970年(昭和45年)にTBS局内の労働闘争であったTBS闘争を機に、萩元晴彦、村木良彦を含めた十数名を中心とするメンバーでTBSを退社しテレビマンユニオンを創立。これが日本のテレビ業界初の独立系番組制作会社[注 6]とされている。

1982年(昭和57年)には任意団体として、全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)が設立される。主に、番組制作会社が制作するテレビ番組の著作権の扱いにおいて、その帰属に関してテレビ局との間で交わされる不平等な契約を是正する目的で立ち上げられた。

2015年10月時点では、日本の全てのテレビ局の殆どのテレビ番組ジャンルが、番組制作会社によって制作されている[要出典]

全日本テレビ番組製作社連盟の加盟社数の推移

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  • 1982年 - 21社。フィルム系13社+ビデオ系8社、計21社で発足
  • 1986年(社団法人認可時) - 32社
  • 2007年 - 100社を超えた
  • 2013年 - 「約120社」と表現されるようになる
  • 2018年 - 131社(政府の平成27年度フォローアップ調査における「ATP対象社」数)
  • 2025年 - 120社(ATP正会員社数)

課題

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労働環境が劣悪で「3K職場」の典型であり、現場のADディレクターが「きつい・帰れない・給料安い」ので人材の入れ替わりが激しい(離職率が高い)[11]

放送局とプロダクションの歪んだ関係で局が出す番組制作費が著しく安く、特にドラマ系の場合が厳しく「番組制作原価が、放送局の払う制作費(制作会社にとっての収益)の8~9割に達する事もザラで、残りの1~2割から経費等を支出したら、手元に殆ど何も残らない事が多い」「十年、二十年と自転車操業でやってきて、資本の蓄積が何もない」がプロダクション社長の決まり文句である。

2008年はリーマンショックがあり、これがその直接の原因かどうか不明だが、テレビ局で始まった「制作コストの削減」という動きが背景にあることは事実で、いつから始まったかと制作会社に聞くと「2007年後半」「2008年初頭や春頃から」と、回答がややばらけたが「1~2年の間」と言う回答が多かった。放送局も番組も異なるが、2008年4月以降に前年度比で10%超のコストダウンを求められた制作会社があり制作費カットを通告されたが、数%カットで済んだ制作会社もあった。コストダウンと同時に発注回数が減らされ、同じ番組からの受注額がほぼ半減してしまったという制作会社もあった[11]
天才!志村どうぶつ園』(日本テレビ)の番組制作会社社長が自殺した際、「借金が5000万円前後で、自殺の前日に弁護士さんと会って、自己破産の手続きをする話」を同業者にしており、自身の日記にそれが原因と言う記述があった」と報道された[12]

極端な例では、2008年春頃、フジテレビが『ザ・ノンフィクション』の制作費用を大幅削減を制作会社に打診してきたケースとして、新規の撮影を減らす一方で過去のアーカイブを流用したシリーズ化を図る等の手法の変更と、番組一本あたりのコスト削減を組み合わせて全体で75%カットを求めてきたが、全日本テレビ番組製作社連盟(ATP)が仲介交渉に乗り出し、「内容が同じで買い値だけを下げる『買いたたき』ではないか」と指摘したため、結局、50%カットの譲歩案が示され、番組1本当たり削減も撤回されたとされる[13]。 賞取りの常連とか有力タレントを抱えた一部のプロダクションを除けば、完全に買い手市場のマーケットなので、局の提示する金額や納期、著作権の帰属などの条件を拒否出来ず、拒否すれば契約が打ち切られてしまい、それまでとなる。

放送局がコンプライアンス導入する以前は、局と制作会社との番組委託制作において口約束をして、書面契約を交わさないケースが多々存在した。当時、ATPの理事だった澤田は「契約書を必ず交わすと約束してからも、局にはそれをちゃんと実行しないズボラなプロデューサーやディレクターが2割~3割は存在していた」[11]と吐露している。
しかし、『発掘!あるある大事典』(関西テレビ)2007年1月7日放送分のやらせ問題以降、日本映像事業協会が2008年に当時の団体加盟百数十社に対しアンケートを行ったら、書面を交わさない委託契約が0と言う結果になった[11]。その理由は、放送局内の契約管理システムにて契約書データを投入していないとアラートが上がる仕様を採用しており、規定通りに契約書類を交わすこともそうだが、番組パッケージVTRの納品期限厳守、局側のチェック担当社員の増員等番組制作会社に対するチェック体制の強化に乗り出した事が要因となっている。

脚注

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  1. シンジケーション番組とは、特定の巨大な全国放送網に頼らず、個別のテレビ局や放送局に対して番組の放送権を個別に販売・流通させる仕組み(シンジケーション)で作られ、放送される番組のこと。
  2. 1970年代の米国テレビ放送におけるTV’s Big Threeとは三大テレビ放送網のABCCBSNBCを指している。
  3. なお、黒柳徹子が日本のテレビ局専属女優の第一号であり、東京音楽大学声楽科を卒業しNHK放送劇団に入り、1953年のテレビ放送開始を前にテレビ女優第一号となり、上述の生ドラマで演技をしていた、ということは日本のテレビ史で繰り返し語られてきた、有名な話である。本人が徹子の部屋で何度も語ったことでもある。
  4. 出資率が40%以上50%以下であっても、役員の派遣や緊密な関係などにより実質的に経営を支配している場合は法規上、実質的な子会社と見なされる。
  5. 古くは元朝日放送澤田隆治2015年(平成27年)時点では元フジテレビ堤康一港浩一等の場合がある
  6. 「独立系」というのは、テレビ局による出資ではない、資本が独立の、テレビ番組制作会社という意味。
出典
  1. Strategies Br ategies Broadcast T oadcast Television Pr vision Producers Use t oducers Use to Retain o Retain Subscribers: 33.
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 Encyclopedia of Television”. 2026年8月9日閲覧。
  3. I Love Lucy”. 2026年8月9日閲覧。
  4. 1 2 3 David P. Leech, Albert N. Link, John T. Scott, Leon S. Reed (1998年1月). The Economics of a Technology-Based Service Sector”. TASC, Inc., for National Institute of Standards and Technology, U.S. Department of Commerce. 2026年8月9日閲覧。
  5. 1 2 3 4 Syndication Regulation and TV’s Big Three: Broadcasting Regulations and 1970s Television (2023年1月). 2026年8月9日閲覧。
  6. 1 2 令和3年版情報通信白書”. 2026年8月9日閲覧。
  7. 「ラジオと歩んで45年 未経験で挑んだ番組制作会社「桑の実プロ」元会長・難波智恵子さん」『わたしの流儀 ひたむきに生きる女性たち』 産経新聞出版、2006年3月 ISBN 4-902970-30-9
  8. 1 2 廣谷鏡子、広谷鏡子(NHK放送文化研究所) (2013年). テレビドラマ史における『生ドラマ』時代の意味を探る.
  9. 1 2 3 4 5 6 産業技術の実用化と市場に関する調査研究”. 財団法人 日本情報処理開発協会(JIPDEC). p. 82. 2026年8月9日閲覧。
  10. 「創」1993年06月号
  11. 1 2 3 4 「GALAC」2009年3月号特集「プロダクション非常事態!」
  12. 「志村けん悲痛! 日テレ『天才!志村どうぶつ園』制作会社社長が『リストラ自殺』と『恨みの日記』」 週刊ポスト2008年10月17日号
  13. 「新聞・テレビ複合不況 崖っ縁に立つマスメディアの王者」 「週刊ダイヤモンド」2008年12月6日号

関連項目

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