コンテンツにスキップ

畑山隆則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。新進党=自由民主党 (会話 | 投稿記録) による 2007年4月3日 (火) 03:08個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎人物)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

畑山隆則
基本情報
本名 畑山隆則
階級 ライト級
国籍 日本の旗 日本
誕生日 1975年7月28日
出身地 日本国青森県青森市
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 26
勝ち 24
KO勝ち 19
敗け 1
引き分け 2
テンプレートを表示

畑山 隆則(はたけやま たかのり、1975年7月28日 - )は青森県青森市出身の元プロボクサーで、WBA世界スーパーフェザー級、同世界ライト級チャンピオン。日本人4人目の世界2階級制覇を達成。現在は太田プロダクション所属のタレント俳優として芸能界で活躍していて、K-1 WORLD MAXの解説も務めている。血液型はA型。青森山田高等学校を一度中退するも、再入学し卒業。現在、青森大学経営学部に在学中。真言宗智山派信徒である。また、プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスファンクラブ名誉創立会員の一人でもある。身長172.5㎝。

現役時代、十字架のネックレスをつけて入場をしたり、ラウンド開始ごとに手で十字を切っていたことから、畑山=クリスチャンという噂も流れたが、畑山は洗礼を受けていないため、クリスチャンではない。本人曰く「試合前で神経がピリピリしていた時、何となく入った教会の雰囲気に凄く癒された」ので、以来試合のゲン担ぎとして、教会通いや十字を切る行為などをするようになったようである。また、氷室京介の大ファンであり、現役時代は彼の曲(「STAY」「Re-Born」「NATIVE STRANGER」等)を入場曲として使用した。

2006年6月17日にフリーアナウンサー清原久美子と都内のホテルで挙式。畑山は再婚、清原は初婚となる。同年9月28日に待望の第1子となる男児を出産。畑山には前妻との間に1996年生まれの男児がいる。


人物

元々、プロ野球選手志望

中学時代までは野球を経験。"エースで4番"という主力中の主力として活躍し、将来はプロ野球選手志望だった。学校では番長だった。スポーツ推薦で青森山田高校に入学し、ここでも野球部に入るが、先輩部員と対立し、わずか1ヵ月で退部。中学3年の頃、青森出身のレパード玉熊の世界戦を観てボクシングに目覚めた

その後、辰吉丈一郎WBC世界バンタム級王座を獲得した試合をテレビで観戦したのを機に、プロボクサーになることを決意。高校を中退し、単身で上京する。

"野球少年"から"ボクサー"への転身

最初、ヨネクラジムに入門するが、大人数の選手・練習生を抱える環境に馴染むことが出来ず、程なくして京浜川崎ジムに移る。柳和龍トレーナーと出会い、その後、アマチュアでの試合を経験することなく、1993年6月、17歳でプロデビュー。

1994年2月、全日本スーパーフェザー級新人王獲得。

1995年タレント片岡鶴太郎をマネージャーに迎える。プロボクサーライセンスを持つ鶴太郎は前年まで元WBA世界スーパーフライ級王者鬼塚勝也のマネージャーを務めていた。

1996年3月、東洋太平洋スーパーフェザー級王座獲得。

1996年11月、所属する京浜川崎ジムの会長が不祥事で逮捕されたのを機に、柳トレーナーとともに横浜光ジムへ移籍。

1997年10月、世界初挑戦。WBA世界スーパーフェザー級王者崔龍洙韓国)に挑むも、引き分けで惜しくも王座奪取ならず。

1998年3月両国国技館で日本スーパーフェザー級王者コウジ有沢と対戦し、9RTKO勝ちで日本王座を獲得。この試合で世界挑戦権を掴んだ畑山は、世界再挑戦準備に専念するため、すぐさま日本王座を返上。

同年9月5日、崔に再挑戦。前回同様、フルラウンドにわたる死闘を展開し、12回判定勝ち。WBA世界スーパーフェザー級王座獲得。

引き分けで初防衛成功後の1999年6月27日、2度目の防衛戦でラクバ・シンモンゴル)に5回TKO負けを喫し、王座陥落。試合後、引退を表明。その後、鶴太郎マネージャーの計らいで芸能界入りし、タレント活動を開始。しかし、現役復帰への思いが日増しに強まってきていたようで、2000年早々に引退を撤回。現役復帰を表明し、ルディ・エルナンデストレーナーの下でプロボクサーとして再始動する。

2000年6月11日、復帰第1戦でいきなりの世界再挑戦。ヒルベルト・セラノベネズエラ)を8回KOに降し、WBA世界ライト級王座獲得。日本人2人目の世界ライト級王者、日本人4人目の世界2階級制覇を達成。試合後のインタビューで、元東洋太平洋ライト級王者で3度の世界挑戦経験を持つ"平成のKOキング"こと坂本博之(角海老宝石ジム)を初防衛戦の相手に指名。4ヵ月後の10月に両者の対戦が実現し、畑山が10回KO勝ち。初防衛に成功した。

2001年2月、2度目の防衛戦。日本ライト級王座22度防衛を果たしたリック吉村(石川ジム/米国出身)と対戦し、大苦戦の末、引き分け(リックに減点があったため、実質はリックの勝利)で辛くも王座防衛に成功。試合後のインタビューでは「すいません」の一言だけを残し、早々と打ち切った。

2001年7月1日、3度目の防衛戦で元王者のジュリアン・ロルシーフランス)と対戦。再三ロープに押し込みながら、ことごとく有効打を浴びてしまい、結局12回判定負け。王座転落した。試合後、畑山は「完敗です」「でも素人のファンが、僕の勝ちだと言ってくれたから、それでいい」とコメントを残し、ロルシー戦を最後に引退。最後の最後まで、畑山の現役引退を惜しむ声が絶えなかった。

引退後はマルチな方面で活躍中

芸能界でのタレント活動を中心に、様々な方面で活躍。中退していた青森山田高へ通信制課程の方で再入学し、無事卒業。卒業後は青森大へ進学し、大学生としてキャンパスライフを送っている。また、元WBA世界ミドル級王者竹原慎二と共同でアマチュア専用のボクシングジムを開設するなど、実業家としても活動している。

関西方面でも活動しており、京都では、女性専用ボクシング&フィットネスジムのスペシャルスタッフとして、月に1~2回ほど直接指導も行っている。

獲得タイトル

  • 東日本ジュニア・ライト級新人王
  • 全日本ジュニア・ライト級新人王
  • OPBF東洋太平洋ジュニア・ライト級王座(防衛3=返上)
  • 日本ジュニア・ライト級王座(防衛0=返上)
  • WBA世界スーパー・フェザー級王座(防衛1)
  • WBA世界ライト級王座(防衛2,世界タイトル2階級制覇)

関連項目