王珍 (元)

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王 珍(おう ちん、? - 1276年)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。大名南楽県の出身。子は王文幹

概要[編集]

王珍は代々農家の家の出身であったが、若い頃より大志を抱いていたとされる。金末にモンゴルの侵攻によって河北が荒廃すると、南楽では楊鉄槍と呼ばれる人物が郷里の者を集めて自衛したが、モンゴルに敗れて戦死した。残された者たちは蘇椿なる人物を代わりの首領に推戴したが、南宋を主君と仰ぐ彭義斌が進出してくると蘇椿はこれに降った。王珍は彭義斌に降ることをよしとせず単身間道を通ってモンゴル軍の下に戻ったため、これを受けたアルチ・ノヤンはその誠を嘉して厚く遇し、仮子の待遇を与えたという。その後、王珍が速魯忽とともに彭義斌を討つと、蘇椿は再びモンゴルに降り、珍は妻子と再会することができた。王珍は妻子に対し「我は汝らを捨てたわけではなく、まことに私の愛が報国の心を奪えなかっただけある」と述べたという。これにより鎮国上将軍・大名路治中・軍前行元帥府事の地位を授かり、更に寧海・胙城を奪取した功績により輔国上将軍・統攝開曹滑濬等処行元帥府事、兼大名路安撫使に移った[1]

蘇椿が再びモンゴルから寝返って金朝に従おうとすると、王珍は真っ先にこれを察知し、元帥の梁仲とともに蘇椿を捕らえようとしたが南門から逃げられた。この功績により、国王オッチギン・ノヤンは梁仲に行省の地位を、王珍には驃騎衛上将軍・同知大名府事・兼兵馬都元帥の地位を授けた。その後、第二次金朝侵攻ではスブタイの軍団に入って鄭州で武仙の軍団を破り、蕭県の戦いでは敵将を斬る功績を挙げた[2]

金朝の滅亡後は南宋への進行にも加わり、光州・棗陽・廬州・寿州・滁州を破るに功績があった。五河口の戦いでは、王珍は死士20名を率いて城を奪取する功績を挙げ、この勝勢に乗じて濠州・泗州・渦口も占領するに至った[3]

1240年庚子)には太宗オゴデイ・カアンの下に入見し、総帥本路軍馬管民次官の地位を授かった。この時に王珍は皇帝に対して「大名では徴税に困り、西域商人から銀80鋌を借りて代納しております」 と上奏したため、朝廷がこれを補填した[4]。なお、王珍よりも大勢力の史天沢は銀1万3千錠、厳忠済は43万7400錠をそれぞれ代納しており、このような西域商人の跋扈を防ぐために史天沢らの進言によって高利を禁じる「一本一利」制が導入されている[5]

また、この頃モンゴル帝国ではモンゴル兵・漢人兵の混成軍(タンマチ)を南宋との国境地帯に配備する政策が実施されており、王珍も睢州への配備を命じられ、その堅固な守備から南宋兵は敢えてこれに近づこうとしなかったという[6]。同時期に河南への駐屯を命じられた著名な将軍にはテムデイタガチャルクチャ・バートルらがいる[7]

1249年己酉)には再び入朝して本路征行万戸の地位を得、南宋との国境地帯に9年鎮朮し続けた後に65歳にして亡くなった[8]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻152列伝39王珍伝,「王珍字国宝、大名南楽人、世為農家、珍慷慨有大志。金末喪乱、所在盜起、南楽人楊鉄槍鉄槍、聚衆保郷里。太祖遣兵攻破河朔、鉄槍以兵応之、行営帥按只署珍軍前都弾壓。鉄槍与金軍戦死、衆推蘇椿代領其衆。宋将彭義斌帥師侵大名、椿戦不利、降之、義斌遂拠大名。珍棄其家、間道走還軍中、按只嘉其誠、待遇益厚、以為假子。復従速魯忽擊走義斌、蘇椿以大名降、珍妻子故在、珍語之曰『吾非棄汝輩、誠不以私愛奪吾報国之心耳』。聞者称歎。授鎮国上将軍・大名路治中・軍前行元帥府事。俄以取寧海・胙城功、遷輔国上将軍、復授統攝開曹滑濬等処行元帥府事、兼大名路安撫使」
  2. ^ 『元史』巻152列伝39王珍伝,「蘇椿復欲叛帰金、珍覚之、与元帥梁仲先発兵攻椿、椿開南門而遁。国王斡真授仲行省、珍驃騎衛上将軍・同知大名府事・兼兵馬都元帥。従速不台経略河南、破金将武仙于鄭州、復与金人戦于蕭県、斬其将。頃之、仲死、国王命仲妻冉守真権行省事、珍為大名路尚書省下都元帥、将其軍。国用安拠徐・邳、珍従太赤及阿朮魯攻拔之、授同僉大名行省事」
  3. ^ 『元史』巻152列伝39王珍伝,「従軍伐宋、破光州・棗陽・廬・寿・滁州、珍常身先諸将、屢有功。宋城五河口、珍帥死士二十人奪之、宋人遁、乗勝進師、連破濠・泗・渦口」
  4. ^ 『元史』巻152列伝39王珍伝,「歳庚子、入見太宗、授総帥本路軍馬管民次官、佩金符。珍言於帝曰『大名困於賦調、貸借西域賈人銀八十鋌、及逋糧五万斛、若復徵之、民無生者矣』。詔官償所借銀、復尽蠲其逋糧」
  5. ^ 藤野2012,85-87頁
  6. ^ 『元史』巻152列伝39王珍伝,「已而朝廷議分蒙古・漢軍戍河南、以珍戍睢州、修城隍、明斥候、宋兵不敢犯」
  7. ^ 松田1987,51頁
  8. ^ 『元史』巻152列伝39王珍伝,「己酉、入朝定宗、進本路征行万戸、加金虎符。在鎮九年、卒、年六十五」

参考文献[編集]

  • 松田孝一「河南淮北蒙古軍都万戸府考」『東洋学報』68号、1987年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 元史』巻152列伝39王珍伝
  • 新元史』巻143列伝40王珍伝
  • 蒙兀児史記』巻53列伝35王珍伝