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猪谷六合雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千春とともに(1950年8月27日撮影)

猪谷 六合雄(いがや くにお、1890年明治23年〉5月5日 - 1986年昭和61年〉1月10日)は、日本スキー指導者。国際オリンピック委員会(IOC)副会長・猪谷千春の父。日本スキー界の草分け的存在[1]日本職業スキー教師連盟(SIA)2代会長[1]。3回の結婚で計9人の子をもうけた[2]3人目の妻の定子は日本初の女性ジャンパーでもあった[要出典]

生涯

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1890年明治23年)5月5日、群馬県勢多郡富士見村大洞の赤城山大沼湖畔に生まれた[3][4]。実際の出生日は5月23日だったが、戸籍上は5月5日生まれとなっている[3][4]。父は赤城神社の神主をしていた[3][4]。生家は猪谷旅館を営んでおり、1904年(明治37年)には高村光太郎石井柏亭与謝野鉄幹らが訪れている[5][6]。六合雄は旧制館林中学校(現・群馬県立館林高等学校)に入学したが、1906年(明治39年)に中退[7][8]1910年(明治43年)に気球隊に入営し1913年大正2年)に除隊した[7][8]

スキーと出会ったのは1914年(大正3年)のこと[9]。宿泊客の学生が持ち込んだスキーを真似て自作し、工夫を重ねて熱中した[9]1915年(大正4年)、志賀直哉が猪谷旅館に滞在、その依頼で小屋を建てる[10]1918年(大正7年)から1920年(大正9年)までジャワ島に渡る[7][11]。渡航の動機については林倭衛小笠原に行った折、「この辺でこんなにキレイなのだから、南洋まで行ったらどんなに素晴らしいだろうと思って、ゴーガンのことなど考えながらむしょうに行ってみたくなった。」と書いている(ジャワ島へ渡ったのは六合雄1人)[12]が、根底には持ち前の放浪癖があったものとみられる[13]

1920年(大正9年)、猪谷旅館(のちにホテル赤城)の土地と建物を姉の大熊ちよに売却[2]1924年(大正13年)には北海道樺太を旅して各地でスキーをしている[14]1925年(大正14年)からジャンプを始め、シャンツェを複数自作して記録を伸ばす[15]1926年(大正15年)、サダ(定子)と再婚[16]1929年昭和4年)2月には秩父宮高松宮台覧のもとスキージャンプ大会を赤城山で開催、オラフ・ヘルセット英語版伴素彦麻生武治らとともに六合雄も参加[17]

1929年(昭和4年)、夫妻で立山へ行きスキーをした後、北海道、さらに国後島へ渡り、赤城山の宿は姉に託して古丹消に小屋を建てて定住する[18]。2年目には長谷川伝次郎が同地を訪問している[19]1931年(昭和6年)5月、長男・千春誕生[7][20]

1933年(昭和8年)には次男・千夏が生まれている[7][20]1935年(昭和10年)膝の悪化や子どもの教育の問題により、国後島を離れ赤城山に帰る[21]。しかし旅館は人手に渡っていたため小屋を建てるまでの間テント暮らしを始めたが、千夏が肺炎により死去する[21]

1938年(昭和13年)に千春の小学校入学のため、スキーに良い雪があって学校に近い候補地を探し、乗鞍山麓の番所に移住[22]1943年(昭和18年)土樽さらに浅虫へと転居、1945年(昭和20年)には要目(青森県黒石市)へ移った[7][23]1946年(昭和21年)赤城山へ戻り地蔵岳にスラロームバーンを作る[7][24]1948年(昭和23年)志賀高原に移り進駐軍専用の丸池スキー場の改善に取り組み、進駐軍の引き揚げ後も神津藤平の知遇を得て丸池に住んだ[25]1950年(昭和25年)には皇太子・明仁のスキー指導を行い、その後も皇室のスキー指導に携わった[26]

1951年(昭和26年)保険会社・AIG創業者・コーネリアス・バンダー・スター英語版と知り合い、1953年(昭和28年)に千春とともにアメリカへ渡りスキーをする[27]。1953年(昭和28年)スキー科学研究会の発足に参加[7]。研究会のメンバーであった渡辺政子とスキー指導研究に取り組む[28]高峰石の湯菅平車山、大松山と場所を移しながらスキー学校を開いていたが、1969年(昭和44年)以降は戸隠で開催し続けるようになる[29]

1961年(昭和36年)、70歳にして運転免許を取得[7][30]。以来10年間ほど自動車を家とする生活を続ける[31]1974年(昭和49年)に津久井湖のそばに家を建てて定住[31]

1969年(昭和44年)にはイタリアへ行き、標高約3000メートルでスキーを行っている[32]

1986年(昭和61年)1月10日、老衰により95歳で死去[33]

著書

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  • 雪に生きる 羽田書店、1943、岩波少年文庫 新版1980
  • 私たちのスキー 羽田書店 1948
  • スキーとともに 筑摩書房 1951(中学生全集)
  • 私たちのスキーアルバム 文藝春秋新社 1952
  • 山なみ 串田孫一ほか共著 茗渓堂 1955
  • スキーはパラレルから 朋文堂 1958
  • パラレルへの近道 猪谷千春共著 日刊スポーツ新聞社 1959
  • 初心者からのパラレルスキー 渡辺政子共著 冬樹社 1967
  • 定本 雪に生きる 実業之日本社 1971、ベースボールマガジン社(上下) 1986 
  • 雪に生きた八十年 実業之日本社 1972
  • 猪谷六合雄選集 ベースボール・マガジン社(全4巻・別巻) 1985

伝記

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脚注

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  1. ^ a b 『1945~1985 激動のスポーツ40年史11 スキー』ベースボール・マガジン社、1986年2月28日、104頁。doi:10.11501/13296688 (要無料登録要登録)
  2. ^ a b 『光太郎と赤城: その若き日の哀歓』[要ページ番号]佐藤浩美、三恵社, 2006
  3. ^ a b c 猪谷 1972, pp. 21–22.
  4. ^ a b c 高田 2001, p. 27.
  5. ^ 光太郎はこの時に描いたスケッチを1956年に『赤城画帖』として出版しており、六合雄はその解説を書いている。
  6. ^ 高田 2001, pp. 53–54.
  7. ^ a b c d e f g h i 猪谷 1972, pp. 632–637.
  8. ^ a b 高田 2001, p. 215.
  9. ^ a b 高田 2001, pp. 59–64.
  10. ^ 高田 2001, pp. 44–49.
  11. ^ 高田 2001, p. 70.
  12. ^ 猪谷 1972, pp. 46–51.
  13. ^ 高田 2001, pp. 87–99.
  14. ^ 高田 2001, p. 73.
  15. ^ 高田 2001, pp. 73–81.
  16. ^ 高田 2001, p. 75.
  17. ^ 高田 2001, pp. 81–85.
  18. ^ 高田 2001, pp. 107–111.
  19. ^ 高田 2001, pp. 111–112.
  20. ^ a b 高田 2001, p. 112.
  21. ^ a b 高田 2001, pp. 115–117.
  22. ^ 高田 2001, pp. 117–118.
  23. ^ 高田 2001, pp. 119–122.
  24. ^ 高田 2001, pp. 122–123.
  25. ^ 高田 2001, pp. 123–124.
  26. ^ 猪谷 1972, pp. 392–410.
  27. ^ 高田 2001, pp. 124–125.
  28. ^ 猪谷 1972, pp. 344–349.
  29. ^ 高田 2001, p. 182.
  30. ^ 高田 2001, p. 126.
  31. ^ a b 高田 2001, pp. 126–129.
  32. ^ 猪谷 1972, pp. 534–541.
  33. ^ 高田 2001, p. 1.

参考文献

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  • 猪谷六合雄『雪に生きた八十年』実業之日本社、1972年12月10日。doi:10.11501/12147638 (要無料登録要登録)
  • 高田宏『猪谷六合雄 人間の原型・合理主義自然人』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2001年11月10日。ISBN 4-582-76414-2 

外部リンク

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