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== 来歴 ==
== 来歴 ==
高校と[[コミュニティ・カレッジ]]ではバスケットボールの選手だった。
Mercyhurst University出身。[[1981年]]5月31日、プロデビュー。

[[1981年]]5月31日、21歳でプロボクシングデビュー。


[[1987年]]5月30日、空位の[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界[[ヘビー級]]王座を[[トニー・タッカー]]と争い、10回TKO負け。
[[1987年]]5月30日、空位の[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界[[ヘビー級]]王座を[[トニー・タッカー]]と争い、10回TKO負け。
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[[1990年]]2月11日、[[マイク・タイソン]]の持つ[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]・IBF世界ヘビー級王座に挑戦し、10回KO勝ちで王座を獲得。[[リングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤー]]に選出された。強打で恐れられたタイソンに勇気を持って立ち向かい、タイソンを初めて破った選手となった。しかしこの試合はダグラスがダウンした際に実質13秒のロングカウントが為されたとされ、試合後に法廷闘争に発展。「疑惑のロングカウント」によりダグラス自身もボクサーとして正当な評価を得られなかった。タイソン戦を巡っての法廷闘争は後に1度目の引退後に至るまで深刻な精神的ダメージを与えた。ダグラスは当時を「私はチャンピオンになったが、それは悪夢だった」と振り返っている<ref name="ダグラスの栄光と苦闘" /><ref>{{Cite web|url=https://spaia.jp/column/boxing/10249|title=マイク・タイソンがリング復帰?波乱万丈のボクシング人生|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2020-05-02|accessdate=2020-11-16}}</ref>。
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1990年2月23日、プロレス団体の[[WWE]](当時WWF)に特別レフェリーとして出演。試合を裁いた。元々はタイソンが特別レフェリーを務める予定だったが、KO負けしたことでダグラスが代わりを務めることになった。
1990年10月25日、[[イベンダー・ホリフィールド]]に3回KO負けし、王座から陥落。1度目の引退を表明する。番狂わせで世界チャンピオンに上り詰めたことで環境が激変し、コンディション調整の失敗も理由であった。この敗戦でダグラスの評価は一段と下がり、メディアでは「まぐれでタイソンに勝った男」と評されるようになった。因みにタイソン、ホリフィールド戦で日本円にして計30億円以上もの富を得たという<ref name="ダグラスの栄光と苦闘" />

タイソンとプロモーターのドン・キングが再戦を要求したが、ダグラスはその要求を断ってイベンダー・ホリフィールドと対戦することを選択した。

1990年10月25日、[[イベンダー・ホリフィールド]]に3回KO負けし、王座から陥落。試合後に1度目の引退を表明する。ダグラスはこの試合で2460万ドルのファイトマネーを稼いだ<ref name="ダグラスの栄光と苦闘" />。番狂わせで世界チャンピオンに上り詰めたことで環境が激変し、コンディション調整の失敗も理由であった。この敗戦でダグラスの評価は一段と下がり、メディアでは「まぐれでタイソンに勝った男」と評されるようになった。

引退後体重が400ポンド(約180キロ)近くに達し、うつ病を発症。これに加えアルコール依存症となり糖尿病も併発した。一時は生死をさまようほど病状が悪化し、ダグラスは当時を「人生に無関心だった」と振り返ってい<ref name="ダグラスの栄光と苦闘" />。このためトレーニングを再開


[[1996年]]6月22日、6年ぶりに現役復帰し、復帰戦から6連勝を記録。
[[1996年]]6月22日、6年ぶり現役復帰し、復帰戦から6連勝を記録。6年のブランクの間にうつ病を発症。これに加えアルコール依存症となり糖尿病も併発する中で再開たボクシングであった。1度目の引退後、一時は生死をさまようほど病状が悪化し、ダグラスは当時を「人生に無関心だった」と振り返ってい<ref name="ダグラスの栄光と苦闘" />。


[[1998年]]6月25日、[[ルー・サバリース]]とのマイナータイトルの[[国際ボクシング協会|IBA]]ヘビー王座決定戦で、3度のダウンを奪われ初回KO負け。
[[1998年]]6月25日、[[ルー・サバリース]]とのマイナータイトルの[[国際ボクシング協会|IBA]]ヘビー王座決定戦で、3度のダウンを奪われ初回KO負け。
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2021年6月12日 (土) 17:24時点における版

ジェームス・ダグラス
基本情報
本名 ジェームス・ダグラス
通称 バスター(Buster)
階級 ヘビー級
身長 192cm
リーチ 211cm
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
誕生日 (1960-04-07) 1960年4月7日(64歳)
出身地 オハイオ州コロンバス
スタイル オーソドックス
プロボクシング戦績
総試合数 46
勝ち 38
KO勝ち 25
敗け 6
引き分け 1
無効試合 1
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ジェームス・ダグラスJames Douglas1960年4月7日 - )は、アメリカ合衆国男性プロボクサーオハイオ州コロンバス出身。“バスター”(破壊者)のニックネームで呼ばれる。

父:ビル・ダグラス(Billy Douglas)もミドル級の元世界ランカーで来日経験のある親子ボクサーでもあった。

1990年2月11日、東京ドームで当時無敗のWBAWBCIBF世界ヘビー級王者マイク・タイソンからKO勝ちで王座を奪取した[1]

来歴

高校とコミュニティ・カレッジではバスケットボールの選手だった。

1981年5月31日、21歳でプロボクシングデビュー。

1987年5月30日、空位のIBF世界ヘビー級王座をトニー・タッカーと争い、10回TKO負け。

1990年2月11日、マイク・タイソンの持つWBAWBC・IBF世界ヘビー級王座に挑戦し、10回KO勝ちで王座を獲得。リングマガジン アップセット・オブ・ザ・イヤーに選出された。強打で恐れられたタイソンに勇気を持って立ち向かい、タイソンを初めて破った選手となった。しかしこの試合はダグラスがダウンした際に実質13秒のロングカウントが為されたとされ、試合後に法廷闘争に発展。「疑惑のロングカウント」によりダグラス自身もボクサーとして正当な評価を得られなかった。タイソン戦を巡っての法廷闘争は後に1度目の引退後に至るまで深刻な精神的ダメージを与えた。ダグラスは当時を「私はチャンピオンになったが、それは悪夢だった」と振り返っている[2][3]

1990年2月23日、プロレス団体のWWE(当時WWF)に特別レフェリーとして出演。試合を裁いた。元々はタイソンが特別レフェリーを務める予定だったが、KO負けしたことでダグラスが代わりを務めることになった。

タイソンとプロモーターのドン・キングが再戦を要求したが、ダグラスはその要求を断ってイベンダー・ホリフィールドと対戦することを選択した。

1990年10月25日、イベンダー・ホリフィールドに3回KO負けし、王座から陥落。試合後に1度目の引退を表明する。ダグラスはこの試合で2460万ドルのファイトマネーを稼いだ[2]。番狂わせで世界チャンピオンに上り詰めたことで環境が激変し、コンディション調整の失敗も理由であった。この敗戦でダグラスの評価は一段と下がり、メディアでは「まぐれでタイソンに勝った男」と評されるようになった。

引退後に体重が400ポンド(約180キロ)近くに達し、うつ病を発症。これに加えアルコール依存症となり糖尿病も併発した。一時は生死をさまようほど病状が悪化し、ダグラスは当時を「人生に無関心だった」と振り返っている[2]。このためトレーニングを再開。

1996年6月22日、6年ぶりに現役復帰し、復帰戦から6連勝を記録。

1998年6月25日、ルー・サバリースとのマイナータイトルのIBAヘビー王座決定戦で、3度のダウンを奪われ初回KO負け。

1999年、2度目の引退。

現在は現役時代に患った糖尿病と向き合いながら、出身地のオハイオ州コロンバスのコミュニティーセンターでボクシングのインストラクターをしている[2]

戦績

  • プロボクシング: 46戦 38勝(25KO) 6敗 1分 1NC

獲得タイトル

脚注

関連項目

外部リンク

前王者
マイク・タイソン
WBA世界ヘビー級王者

1990年2月11日 - 1990年10月25日

次王者
イベンダー・ホリフィールド
前王者
マイク・タイソン
WBC世界ヘビー級王者

1990年2月11日 - 1990年10月25日

次王者
イベンダー・ホリフィールド
前王者
マイク・タイソン
IBF世界ヘビー級王者

1990年2月11日 - 1990年10月25日

次王者
イベンダー・ホリフィールド