「有馬氏久」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
29行目: 29行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[元禄]]12年([[1699年]])、[[紀州藩]]士・[[渡辺恭綱|渡辺泰綱]]の子として[[紀伊国]]和歌山で誕生。同藩士・[[有馬氏倫]]<ref>のちに[[伊勢西条藩|西条藩]]初代藩主。</ref>の養子となる。父・恭綱は、[[徳川家康]]の孫で[[西条藩#松平家(紀州徳川分家)|伊予西条松平家]]初代・[[松平頼純]]の長男であるので、氏久は家康の玄孫に当たる。
[[元禄]]12年([[1699年]])、[[紀州藩]]士・[[渡辺恭綱|渡辺泰綱]]の子として[[紀伊国]]和歌山で誕生した。同藩士・[[有馬氏倫]]<ref>のちに[[伊勢西条藩|西条藩]]初代藩主。</ref>の養子となる。父・恭綱は、[[徳川家康]]の孫で[[西条藩#松平家(紀州徳川分家)|伊予西条松平家]]初代・[[松平頼純]]の長男であるので、氏久は家康の玄孫に当たる。


[[享保]]2年([[1717年]])6月12日、8代将軍・[[徳川吉宗]]に初謁する。享保8年([[1723年]])3月晦日に[[小納戸|御小納戸役]]となる。享保19年([[1735年]])12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年([[1726年]])、養父・氏倫は加増によって大名に列している。
[[享保]]2年([[1717年]])6月12日、8代将軍・[[徳川吉宗]]に初謁する。享保8年([[1723年]])3月晦日に[[小納戸|御小納戸役]]となる。享保19年([[1735年]])12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年([[1726年]])、養父・氏倫は加増によって大名に列している。
35行目: 35行目:
享保20年([[1735年]])1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。[[元文]]元年([[1736年]])2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、[[伺候席]]を[[伺候席#菊間広縁詰|菊間広縁]]に定められた。元文5年([[1740年]])6月20日には[[番頭#江戸幕府の番頭|大番頭]]となる。[[宝暦]]8年([[1758年]])6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年([[1759年]])6月2日に家督を養嗣子・[[有馬氏恒|氏恒]]に譲って隠居した。
享保20年([[1735年]])1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。[[元文]]元年([[1736年]])2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、[[伺候席]]を[[伺候席#菊間広縁詰|菊間広縁]]に定められた。元文5年([[1740年]])6月20日には[[番頭#江戸幕府の番頭|大番頭]]となる。[[宝暦]]8年([[1758年]])6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年([[1759年]])6月2日に家督を養嗣子・[[有馬氏恒|氏恒]]に譲って隠居した。


[[明和]]8年([[1771年]])2月26日、死去。享年73。
[[明和]]8年([[1771年]])2月26日、死去した。享年73。


== 系譜 ==
== 系譜 ==
53行目: 53行目:


{{伊勢西条藩主|2代|1735年 - 1759年}}
{{伊勢西条藩主|2代|1735年 - 1759年}}

{{DEFAULTSORT:ありま うしひさ}}
{{DEFAULTSORT:ありま うしひさ}}
[[Category:摂津有馬|うしひさ]]
[[Category:三河渡辺氏]]
[[Category:伊勢西条藩主|*02]]
[[Category:伊勢西条藩主|*02]]
[[Category:紀州藩士]]
[[Category:紀州藩士]]
[[Category:吹上有馬|うしひさ]]
[[Category:三河渡辺氏]]
[[Category:1699年生]]
[[Category:1699年生]]
[[Category:1771年没]]
[[Category:1771年没]]

2018年12月27日 (木) 20:21時点における版

 
有馬氏久
時代 江戸時代中期
生誕 元禄12年(1699年
死没 明和8年2月26日1771年4月10日
別名 六左衛門
戒名 賢道義英覚源院
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺
官位 従五位下備後守
主君 徳川吉宗家重
伊勢西条藩
氏族 三河渡辺氏摂津有馬氏
父母 父:渡辺恭綱、養父:有馬氏倫
兄弟 渡辺豊綱渡辺則綱氏久
戸田清勝室、中川忠和室、山高信房室、宮地周武
養兄弟:淡輪重賢
正室:堀親賢
為子(有馬光隆正室→黒田直亨正室)、倉橋久知室、氏房(次男)
養子:光隆建部政周十一男)、
氏恒堀親蔵四男)
テンプレートを表示

有馬 氏久(ありま うじひさ)は、江戸時代中期の大名伊勢国西条藩2代藩主。氏倫系有馬家2代。

生涯

元禄12年(1699年)、紀州藩士・渡辺泰綱の子として紀伊国和歌山で誕生した。同藩士・有馬氏倫[1]の養子となる。父・恭綱は、徳川家康の孫で伊予西条松平家初代・松平頼純の長男であるので、氏久は家康の玄孫に当たる。

享保2年(1717年)6月12日、8代将軍・徳川吉宗に初謁する。享保8年(1723年)3月晦日に御小納戸役となる。享保19年(1735年)12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年(1726年)、養父・氏倫は加増によって大名に列している。

享保20年(1735年)1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。元文元年(1736年)2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、伺候席菊間広縁に定められた。元文5年(1740年)6月20日には大番頭となる。宝暦8年(1758年)6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年(1759年)6月2日に家督を養嗣子・氏恒に譲って隠居した。

明和8年(1771年)2月26日、死去した。享年73。

系譜

正室は飯田藩4代藩主・堀親賢の娘。『寛政重修諸家譜』には実子として、正室所生の女子2人、側室所生の女子2名と男子2名(幸次郎氏房)を記載している。

延享2年(1745年)、播磨国林田藩4代藩主・建部政周の子・光隆を養嗣子とし、正室所生の長女を娶せたが、寛延2年(1749年)に廃嫡している。養子縁組解消後、長女は上総国久留里藩2代藩主・黒田直亨に再嫁した。

光隆に代わり、寛延2年(1749年)に正室の兄で信濃飯田藩6代藩主・堀親蔵の子・氏恒を養嗣子に迎えている。堀家と有馬家との関係は深く、正室所生の次女は外祖母・春台院[2]の養女となっている[3]

宝暦7年(1757年)に実子の氏房が生まれている。氏房はのちに氏恒の養子として家督を継ぎ、4代藩主となっている。

脚注

  1. ^ のちに西条藩初代藩主。
  2. ^ 津軽信政の娘、堀親賢の正室。
  3. ^ 後の倉橋内匠助久知の室となった。

出典