「有馬氏久」の版間の差分
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[[元禄]]12年([[1699年]])、[[紀州藩]]士・[[渡辺恭綱|渡辺泰綱]]の子として[[紀伊国]]和歌山で誕生した。同藩士・[[有馬氏倫]]<ref>のちに[[伊勢西条藩|西条藩]]初代藩主。</ref>の養子となる。父・恭綱は、[[徳川家康]]の孫で[[西条藩#松平家(紀州徳川分家)|伊予西条松平家]]初代・[[松平頼純]]の長男であるので、氏久は家康の玄孫に当たる。 |
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[[享保]]2年([[1717年]])6月12日、8代将軍・[[徳川吉宗]]に初謁する。享保8年([[1723年]])3月晦日に[[小納戸|御小納戸役]]となる。享保19年([[1735年]])12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年([[1726年]])、養父・氏倫は加増によって大名に列している。 |
[[享保]]2年([[1717年]])6月12日、8代将軍・[[徳川吉宗]]に初謁する。享保8年([[1723年]])3月晦日に[[小納戸|御小納戸役]]となる。享保19年([[1735年]])12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年([[1726年]])、養父・氏倫は加増によって大名に列している。 |
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享保20年([[1735年]])1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。[[元文]]元年([[1736年]])2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、[[伺候席]]を[[伺候席#菊間広縁詰|菊間広縁]]に定められた。元文5年([[1740年]])6月20日には[[番頭#江戸幕府の番頭|大番頭]]となる。[[宝暦]]8年([[1758年]])6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年([[1759年]])6月2日に家督を養嗣子・[[有馬氏恒|氏恒]]に譲って隠居した。 |
享保20年([[1735年]])1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。[[元文]]元年([[1736年]])2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、[[伺候席]]を[[伺候席#菊間広縁詰|菊間広縁]]に定められた。元文5年([[1740年]])6月20日には[[番頭#江戸幕府の番頭|大番頭]]となる。[[宝暦]]8年([[1758年]])6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年([[1759年]])6月2日に家督を養嗣子・[[有馬氏恒|氏恒]]に譲って隠居した。 |
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[[明和]]8年([[1771年]])2月26日、死去。享年73。 |
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2018年12月27日 (木) 20:21時点における版
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄12年(1699年) |
死没 | 明和8年2月26日(1771年4月10日) |
別名 | 六左衛門 |
戒名 | 賢道義英覚源院 |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従五位下、備後守 |
主君 | 徳川吉宗→家重 |
藩 | 伊勢西条藩主 |
氏族 | 三河渡辺氏→摂津有馬氏 |
父母 | 父:渡辺恭綱、養父:有馬氏倫 |
兄弟 |
渡辺豊綱、渡辺則綱、氏久、 戸田清勝室、中川忠和室、山高信房室、宮地周武室 養兄弟:淡輪重賢室 |
妻 | 正室:堀親賢娘 |
子 |
為子(有馬光隆正室→黒田直亨正室)、倉橋久知室、氏房(次男) 養子:光隆(建部政周十一男)、 氏恒(堀親蔵四男) |
有馬 氏久(ありま うじひさ)は、江戸時代中期の大名。伊勢国西条藩2代藩主。氏倫系有馬家2代。
生涯
元禄12年(1699年)、紀州藩士・渡辺泰綱の子として紀伊国和歌山で誕生した。同藩士・有馬氏倫[1]の養子となる。父・恭綱は、徳川家康の孫で伊予西条松平家初代・松平頼純の長男であるので、氏久は家康の玄孫に当たる。
享保2年(1717年)6月12日、8代将軍・徳川吉宗に初謁する。享保8年(1723年)3月晦日に御小納戸役となる。享保19年(1735年)12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年(1726年)、養父・氏倫は加増によって大名に列している。
享保20年(1735年)1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。元文元年(1736年)2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、伺候席を菊間広縁に定められた。元文5年(1740年)6月20日には大番頭となる。宝暦8年(1758年)6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年(1759年)6月2日に家督を養嗣子・氏恒に譲って隠居した。
系譜
正室は飯田藩4代藩主・堀親賢の娘。『寛政重修諸家譜』には実子として、正室所生の女子2人、側室所生の女子2名と男子2名(幸次郎、氏房)を記載している。
延享2年(1745年)、播磨国林田藩4代藩主・建部政周の子・光隆を養嗣子とし、正室所生の長女を娶せたが、寛延2年(1749年)に廃嫡している。養子縁組解消後、長女は上総国久留里藩2代藩主・黒田直亨に再嫁した。
光隆に代わり、寛延2年(1749年)に正室の兄で信濃飯田藩6代藩主・堀親蔵の子・氏恒を養嗣子に迎えている。堀家と有馬家との関係は深く、正室所生の次女は外祖母・春台院[2]の養女となっている[3]。
宝暦7年(1757年)に実子の氏房が生まれている。氏房はのちに氏恒の養子として家督を継ぎ、4代藩主となっている。
脚注
出典
- 『寛政重修諸家譜』巻第四百七十