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'''ジョルジュ・ソレル'''(Georges Sorel、[[1847年]][[11月2日]] - [[1922年]][[8月29日]])は、[[:it:sindacalismo rivoluzionario|革命的サンディカリスム]]の[[フランス人]]の[[哲学者]]、社会理論家。
'''ジョルジュ・ソレル'''(Georges Sorel、[[1847年]][[11月2日]] - [[1922年]][[8月29日]])は、[[:it:sindacalismo rivoluzionario|革命的サンディカリスム]]の[[フランス人]]の[[哲学者]]、社会理論家。
== 来歴==
==来歴==
フランス・[[シェルブール]]のワイン商人の家に生まれる。[[エコール・ポリテクニーク]]を卒業。はじめはフランス政府の[[技監]]だった。しかし、社会問題を研究するようになり、[[1890年代]]に[[マルクス主義]]に傾倒する。[[労働組合]]の団結と闘争とを説く([[1898年]])。その反議会主義と[[直接行動]]への志向は当時の[[知識人]]と[[労働者]]に歓迎された。[[ドレフュス事件]]の際に[[反ユダヤ主義]]への反対もしている。
フランス・[[シェルブール]]のワイン商人の家に生まれる。[[エコール・ポリテクニーク]]を卒業。はじめはフランス政府の[[技監]]だった。しかし、社会問題を研究するようになり、[[1890年代]]に[[マルクス主義]]に傾倒する。[[労働組合]]の団結と闘争とを説く([[1898年]])。その反議会主義と[[直接行動]]への志向は当時の[[知識人]]と[[労働者]]に歓迎された。[[ドレフュス事件]]の際に[[反ユダヤ主義]]への反対もしている。


最初、マルクス主義理論の弱点と考えたものを補おうとしたが、最終的にはマルクス主義の修正とも言える思想を唱え、[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]の右派的な[[修正主義]]とは区別して[[史的唯物論]]と[[弁証法的唯物論]]、および[[国際主義|プロレタリア国際主義]]を拒絶した[[:it:Revisionismo del marxismo#In Italia|左派修正主義]]を主張した<ref>Zeev Sternhell: ''The Birth of Fascist Ideology: From Cultural Rebellion'', 2001, pp.92</ref><ref>[[大杉栄]]『ベルグソンとソレル』二 ソレルとセンディカリスム</ref>。さらに正統派マルクス主義の「歴史の必然」を信じず、慎重に考案された「[[神話]]」が[[大衆]]を一致した行動に導く、と考えた。したがって、ソレルの行動指針は、[[ゼネラル・ストライキ]]、[[ボイコット]]、[[労働争議#サボタージュ|サボタージュ]]によって[[資本主義]]を分裂させ、労働者による[[生産手段]]の統制をもたらすことに向けられた。さらに[[ブルジョワ民主主義]]に懐疑的な[[アナキスト]]である[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]にも理論的是認を求め、「神話」の重要性と[[科学]]的な[[唯物論]]への反対については[[アンリ・ベルクソン]]や[[エドゥアルト・フォン・ハルトマン]]に学んだといえる。また、強制力を使って変化を起こす唯一の道だとして、フランス社会でとらえられていた[[ジャコバン]]の伝統を復興させた。ブルジョワ民主主義を攻撃したことについて、ソレルは[[アクション・フランセーズ]]の[[シャルル・モーラス]]を賞賛した。さらにソレルは国家の永久戦争''the state of permanent war''も[[階級闘争]]、[[革命]]とした。
最初、マルクス主義理論の弱点と考えたものを補おうとしたが、最終的にはマルクス主義の修正とも言える思想を唱え、[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]の右派的な[[修正主義]]とは区別して[[史的唯物論]]と[[弁証法的唯物論]]、および[[国際主義|プロレタリア国際主義]]を拒絶した[[:it:Revisionismo del marxismo#In Italia|左派修正主義]]を主張した<ref>Zeev Sternhell:''The Birth of Fascist Ideology:From Cultural Rebellion'', 2001, pp.92</ref><ref>[[大杉栄]]『ベルグソンとソレル』二 ソレルとセンディカリスム</ref>。さらに正統派マルクス主義の「歴史の必然」を信じず、慎重に考案された「[[神話]]」が[[大衆]]を一致した行動に導く、と考えた。したがって、ソレルの行動指針は、[[ゼネラル・ストライキ]]、[[ボイコット]]、[[労働争議#サボタージュ|サボタージュ]]によって[[資本主義]]を分裂させ、労働者による[[生産手段]]の統制をもたらすことに向けられた。さらに[[ブルジョワ民主主義]]に懐疑的な[[アナキスト]]である[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]にも理論的是認を求め、「神話」の重要性と[[科学]]的な[[唯物論]]への反対については[[アンリ・ベルクソン]]や[[エドゥアルト・フォン・ハルトマン]]に学んだといえる。また、強制力を使って変化を起こす唯一の道だとして、フランス社会でとらえられていた[[ジャコバン]]の伝統を復興させた。ブルジョワ民主主義を攻撃したことについて、ソレルは[[アクション・フランセーズ]]の[[シャルル・モーラス]]を賞賛した。さらにソレルは国家の永久戦争''the state of permanent war''も[[階級闘争]]、[[革命]]とした。


一方、ソレル自身はあくまでマルクス主義理論家であった。ソレルは[[イタリア]]のマルクス主義の父[[アントニオ・ラブリオーラ]]と親交を持っていて、[[フランス語]]に翻訳された「歴史の唯物論概念」についてのラブリオーラの[[エッセイ]]に序文を書いている。さらには主著の『[[暴力論]](『暴力に関する考察』) Reflexions sur la Violence, [[1908年]]』第五版の付録として、《[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]のために Pour Lenine 》という題の論文を書いて憲法制定会議をボイコットして[[社会主義]]を宣言したレーニンの行為を弁護し、[[ロシア革命]]をたたえている。
一方、ソレル自身はあくまでマルクス主義理論家であった。ソレルは[[イタリア]]のマルクス主義の父[[アントニオ・ラブリオーラ]]と親交を持っていて、[[フランス語]]に翻訳された「歴史の唯物論概念」についてのラブリオーラの[[エッセイ]]に序文を書いている。さらには主著の『[[暴力論]](『暴力に関する考察』) Reflexions sur la Violence, [[1908年]]』第五版の付録として、《[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]のために Pour Lenine 》という題の論文を書いて憲法制定会議をボイコットして[[社会主義]]を宣言したレーニンの行為を弁護し、[[ロシア革命]]をたたえている。


彼の著書は[[ヴィルフレド・パレート]]及び[[ベネデット・クローチェ]]に絶賛され、彼の思想は[[カトリック教会|カトリック]]・反民主主義の政治傾向(例えば[[カール・シュミット]]など)、特に[[ファシズム]]には絶大な影響を与え、[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]は「ファシズムの精神的な父」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」と発言してる<ref>Mediterranean Fascism 1919-1945 Edited by Charles F. Delzel, Harper Rowe 1970, page 3</ref><ref>Schreiber, Emile. L’Illustration, No. 4672 (September 17, 1932). </ref><ref> Versluis, Arthur.''The New Inquistions''. Oxford University Press, 2006.</ref>。また、[[ヴァルター・ベンヤミン]]が著した『[[暴力批判論]]』はソレル『暴力論』の影響を受けている。
彼の著書は[[ヴィルフレド・パレート]]及び[[ベネデット・クローチェ]]に絶賛され、彼の思想は[[カトリック教会|カトリック]]・反民主主義の政治傾向(例えば[[カール・シュミット]]など)、特に[[ファシズム]]には絶大な影響を与え、[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]は「ファシズムの精神的な父」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」と発言してる<ref>Mediterranean Fascism 1919-1945 Edited by Charles F. Delzel, Harper Rowe 1970, page 3</ref><ref>Schreiber, Emile. L’Illustration, No. 4672 (September 17, 1932). </ref><ref> Versluis, Arthur.''The New Inquistions''. Oxford University Press, 2006.</ref>。また、[[ヴァルター・ベンヤミン]]が著した『[[暴力批判論]]』はソレル『暴力論』の影響を受けている。


==訳==
==日本語訳==
*暴力の倫理 [[小野十三郎]]訳. 金星堂, 1928. 社会科学叢書
*暴力の倫理 [[小野十三郎]]訳. 金星堂, 1928. 社会科学叢書
*暴力考 [[西川勉]]訳. 中央公論社, 1929.
*暴力考 [[西川勉]]訳. 中央公論社, 1929.
*マルクス説の崩解 [[百瀬二郎]]訳 世界大思想全集 春秋社、1930 
*マルクス説の崩解 [[百瀬二郎]]訳 世界大思想全集 春秋社、1930
*暴力論 [[木下半治]]訳 1933 岩波文庫
*暴力論 [[木下半治]]訳 1933 岩波文庫
**『暴力論』[[今村仁司]]、[[塚原史]]訳、[[岩波文庫]]、新訳,2007年
**『暴力論』[[今村仁司]]、[[塚原史]]訳、[[岩波文庫]]、新訳,2007年
*『進歩の幻想 』[[川上源太郎]]訳 1974年
*『進歩の幻想 』[[川上源太郎]]訳 1974年
*『ドレフュス革命』[[稲葉三千男]]訳、[[創風社]]、1995年
*『ドレフュス革命』[[稲葉三千男]]訳、[[創風社]]、1995年


==参考文献==
==参考文献==
*『ソレルのドレフュス事件―危険の思想家、民主主義の危険』川上源太郎 中公新書 (1996/5)
*『ソレルのドレフュス事件―危険の思想家、民主主義の危険』川上源太郎 中公新書 (1996/5)


== 参照 ==
==参照==
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2016年5月8日 (日) 10:24時点における版

ジョルジュ・ソレル
生誕 (1847-11-02) 1847年11月2日
死没 (1922-08-29) 1922年8月29日(74歳没)
時代 現代哲学
地域 西洋哲学
学派 社会主義マルクス主義
研究分野 科学哲学政治サンディカリスム直接行動主義
主な概念 革命的サンディカリスム(fr:Syndicalisme révolutionnaire)
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ジョルジュ・ソレル(Georges Sorel、1847年11月2日 - 1922年8月29日)は、革命的サンディカリスムフランス人哲学者、社会理論家。

来歴

フランス・シェルブールのワイン商人の家に生まれる。エコール・ポリテクニークを卒業。はじめはフランス政府の技監だった。しかし、社会問題を研究するようになり、1890年代マルクス主義に傾倒する。労働組合の団結と闘争とを説く(1898年)。その反議会主義と直接行動への志向は当時の知識人労働者に歓迎された。ドレフュス事件の際に反ユダヤ主義への反対もしている。

最初、マルクス主義理論の弱点と考えたものを補おうとしたが、最終的にはマルクス主義の修正とも言える思想を唱え、エドゥアルト・ベルンシュタインの右派的な修正主義とは区別して史的唯物論弁証法的唯物論、およびプロレタリア国際主義を拒絶した左派修正主義を主張した[1][2]。さらに正統派マルクス主義の「歴史の必然」を信じず、慎重に考案された「神話」が大衆を一致した行動に導く、と考えた。したがって、ソレルの行動指針は、ゼネラル・ストライキボイコットサボタージュによって資本主義を分裂させ、労働者による生産手段の統制をもたらすことに向けられた。さらにブルジョワ民主主義に懐疑的なアナキストであるプルードンにも理論的是認を求め、「神話」の重要性と科学的な唯物論への反対についてはアンリ・ベルクソンエドゥアルト・フォン・ハルトマンに学んだといえる。また、強制力を使って変化を起こす唯一の道だとして、フランス社会でとらえられていたジャコバンの伝統を復興させた。ブルジョワ民主主義を攻撃したことについて、ソレルはアクション・フランセーズシャルル・モーラスを賞賛した。さらにソレルは国家の永久戦争the state of permanent war階級闘争革命とした。

一方、ソレル自身はあくまでマルクス主義理論家であった。ソレルはイタリアのマルクス主義の父アントニオ・ラブリオーラと親交を持っていて、フランス語に翻訳された「歴史の唯物論概念」についてのラブリオーラのエッセイに序文を書いている。さらには主著の『暴力論(『暴力に関する考察』) Reflexions sur la Violence, 1908年』第五版の付録として、《レーニンのために Pour Lenine 》という題の論文を書いて憲法制定会議をボイコットして社会主義を宣言したレーニンの行為を弁護し、ロシア革命をたたえている。

彼の著書はヴィルフレド・パレート及びベネデット・クローチェに絶賛され、彼の思想はカトリック・反民主主義の政治傾向(例えばカール・シュミットなど)、特にファシズムには絶大な影響を与え、ムッソリーニは「ファシズムの精神的な父」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」と発言してる[3][4][5]。また、ヴァルター・ベンヤミンが著した『暴力批判論』はソレル『暴力論』の影響を受けている。

日本語訳

参考文献

  • 『ソレルのドレフュス事件―危険の思想家、民主主義の危険』川上源太郎 中公新書 (1996/5)

参照

  1. ^ Zeev Sternhell:The Birth of Fascist Ideology:From Cultural Rebellion, 2001, pp.92
  2. ^ 大杉栄『ベルグソンとソレル』二 ソレルとセンディカリスム
  3. ^ Mediterranean Fascism 1919-1945 Edited by Charles F. Delzel, Harper Rowe 1970, page 3
  4. ^ Schreiber, Emile. L’Illustration, No. 4672 (September 17, 1932).
  5. ^ Versluis, Arthur.The New Inquistions. Oxford University Press, 2006.

関連項目