「川本大輔」の版間の差分
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|選手名 = 川本 大輔 |
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三原中央シニア時代は全日本にエースとして出場、[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高等学校]]時代は3年春に[[選抜高等学校野球大会|センバツ]]出場、夏に広島県大会ベスト8入りを果たす。[[2000年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2000年のドラフト]]5位で[[読売ジャイアンツ]]入団。 |
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2015年2月3日 (火) 09:52時点における版
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県三原市 |
生年月日 | 1982年5月18日(41歳) |
身長 体重 |
180 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2000年 ドラフト5位 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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川本 大輔(かわもと だいすけ、1982年5月18日 - )は、広島県三原市出身の元プロ野球選手。血液型はA型。
経歴
三原中央シニア時代は全日本にエースとして出場、広陵高等学校時代は3年春にセンバツ出場、夏に広島県大会ベスト8入りを果たす。2000年のドラフト5位で読売ジャイアンツ入団。
サイドスローから最速142km/hのストレートとカーブ・スライダー・チェンジアップなど多彩な変化球を繰り出す本格派だったことから、斎藤雅樹2世と言われた。
ルーキーだった2001年、プロの厳しさを痛感、自信を失ってしまい、2002年3月19日の教育リーグ・日本ハム戦に先発したが、8連続を含む11四死球を与え2死しかとれず降板。参考記録ながら1イニング11四死球という不名誉な記録を打ち立てた。いわゆる投球恐怖症である。川本は入団した当時からその症状があり、オーバースローに変更したがストライクが入らず、サイドスローに戻しても結果は同じだったという。
そんな川本を支えたのが広陵の中井哲之監督であり、何度も電話して励ましを受けたのに加え、同年10月13日にも修学旅行で上京していた恩師と会食。「自信を持ってやれ」と激励され、16日の好投で本来の自分をアピールし投球恐怖症を克服。
だが、一軍登板がないまま2004年10月7日に戦力外通告を受けた。合同トライアウトを受けたがどの球団からも声がかからなかった。台湾移籍も視野に入れていたが断念した。
詳細情報
年度別投手成績
- 一軍公式戦出場なし
背番号
- 92 (2001年 - 2004年)