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== 来歴 ==
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[[File:Jinshotai.jpg|thumb|400px|'''[[迅衝隊]]'''(前列左から[[伴権太夫]]、[[板垣退助]](中央)、[[谷乙猪]](少年)、[[山地元治|山地忠七]]。 中列左から、[[谷重喜]]、[[谷干城]](襟巻をして刀を持つ男性)、[[山田平左衛門]](刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、[[吉本祐雄|吉本平之助祐雄]]。 後列左から、[[片岡健吉]]、[[真辺正精]]、西山 榮、[[北村重頼]]、別府彦九郎)]]
*[[1843年]](天保14年)、谷神佐衛門重昌の嫡男に生まれた。
*[[1843年]](天保14年)、谷神佐衛門重昌の嫡男に生まれた。
*明治[[戊辰戦争|戌辰の役]]では[[土佐藩]][[迅衝隊]]の四番小隊長として東征し、甲府、今市、会津と転戦し数々の功をあげた。
*明治[[戊辰戦争|戌辰の役]]では[[土佐藩]][[迅衝隊]]の四番小隊長として東征し、甲府、今市、会津と転戦し数々の功をあげた。
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* [[板垣退助]]
* [[板垣退助]]
* [[迅衝隊]]
* [[迅衝隊]]
* [[自由民権運動]]





2012年10月26日 (金) 20:38時点における版

谷 重喜(たに しげき、1843年5月23日天保14年4月24日) - 1887年)は、土佐藩士迅衝隊士、日本の陸軍軍人自由民権運動家。最終階級は陸軍大佐。通称は谷神兵衛

来歴

迅衝隊(前列左から伴権太夫板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列左から、谷重喜谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田平左衛門(刀を立てて持つ恰幅の良い男性)、吉本平之助祐雄。 後列左から、片岡健吉真辺正精、西山 榮、北村重頼、別府彦九郎)
  • 板垣退助を助け立志社に入り自由民権運動に挺身し、1877年(明治10年)立志社の副社長になった。
  • 西南の役では林有造らの挙兵計画に賛同し、禁獄1年の刑に処せられた。
  • 1881年(明治14年)10月板垣退助が自由党を結成するやその結成に尽力し、『自由新聞』の会計を司り、1882年(明治15年)~1883年(明治16年)板垣退助の外遊の不在中、自由党総理の職を依嘱され代行する。
  • 1886年(明治19年)山内家の家来となったが翌1887年(明治20年)死去。

家系

谷家は、大神姓。長曾我部氏の旧臣で、土佐藩上士の家柄。谷重喜(神兵衛)は、土佐藩上士・谷神右衛門家の第11代目の嫡流当主。戊辰戦争の際、迅衝隊に共に加わった谷干城は遠縁の親族にあたる。谷重喜は、谷神右衛門家の第4代目の谷重元(神兵衛)の嫡男谷重正(弥太郎)の直系の五世孫である。 谷重元の三男谷重遠(秦山)は別家を興し、秦山の孫谷好井(萬六)の嫡男谷好圓(丹作)が秦山家の第4代目の当主を継いだ。さらに谷好圓の弟、谷景井(萬七)が分家して一家[1]を興したのが谷干城の父にあたる。谷干城は、谷景井の四男で、三人の兄が相次いで夭逝したので、その後を継いだ。干城の後を継いだ養子の谷乙猪は、谷重喜(谷家・嫡流)の実弟にあたる。

補注

  1. ^ 谷神右衛門家の分家(秦山流)のさらに分家にあたる。

参考文献

関連項目