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「チャド・リビア紛争」の版間の差分

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en:Chadian–Libyan conflict at 00:59, 22 October 2021 oldid=1051182238」Libyan escalation節を訳出、ほか。
en:Chadian–Libyan conflict at 00:59, 22 October 2021 oldid=1051182238」Libyan difficulties節を訳出、ほか。
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*{{仮リンク|人民軍 (チャド)|label=人民軍|en|People's Armed Forces}}(FAP)
*{{仮リンク|人民軍 (チャド)|label=人民軍|en|People's Armed Forces}}(FAP)
*{{flagicon image|Flag of Frolinat.svg}}{{仮リンク|チャド民族解放戦線|en|FROLINAT}}(FROLINAT)
*{{flagicon image|Flag of Frolinat.svg}}{{仮リンク|チャド民族解放戦線|en|FROLINAT}}(FROLINAT)
*国民統合のための暫定政府(GUNT)(1979-1986)
*国民統暫定政府(GUNT)(1979-1986)
*{{仮リンク|Codos|en|Codos}}(1983-1986)
*{{仮リンク|Codos|en|Codos}}(1983-1986)
{{flagicon image|Flag of Palestine.svg}}[[パレスチナ解放戦線]](PLO)(1987)<ref>{{cite news |title=قصة من تاريخ النشاط العسكري الفلسطيني ... عندما حاربت منظمة التحرير مع القذافي ضد تشاد |url=https://raseef22.net/article/173109-%D9%82%D8%B5%D8%A9-%D9%85%D9%86-%D8%AA%D8%A7%D8%B1%D9%8A%D8%AE-%D8%A7%D9%84%D9%86%D8%B4%D8%A7%D8%B7-%D8%A7%D9%84%D8%B9%D8%B3%D9%83%D8%B1%D9%8A-%D8%A7%D9%84%D9%81%D9%84%D8%B3%D8%B7%D9%8A%D9%86%D9%8A |accessdate=2021-05-16 |publisher={{仮リンク|Raseef22|en|Raseef22}}|date=2018-12-04 |language=ar }}</ref><ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=n8LsPA3mTBYC&q=PLO+Aouzou&pg=PA98 |title=Palestinian Refugees: Pawns to Political Actors |first=Ghada Hashem |last=Talhami |date=2003 |accessdate=2021-12-01 |publisher=Nova Publishers |isbn=9781590336496 |page=98 |language=en }}</ref>
{{flagicon image|Flag of Palestine.svg}}[[パレスチナ解放戦線]](PLO)(1987)<ref>{{cite news |title=قصة من تاريخ النشاط العسكري الفلسطيني ... عندما حاربت منظمة التحرير مع القذافي ضد تشاد |url=https://raseef22.net/article/173109-%D9%82%D8%B5%D8%A9-%D9%85%D9%86-%D8%AA%D8%A7%D8%B1%D9%8A%D8%AE-%D8%A7%D9%84%D9%86%D8%B4%D8%A7%D8%B7-%D8%A7%D9%84%D8%B9%D8%B3%D9%83%D8%B1%D9%8A-%D8%A7%D9%84%D9%81%D9%84%D8%B3%D8%B7%D9%8A%D9%86%D9%8A |accessdate=2021-05-16 |publisher={{仮リンク|Raseef22|en|Raseef22}}|date=2018-12-04 |language=ar }}</ref><ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=n8LsPA3mTBYC&q=PLO+Aouzou&pg=PA98 |title=Palestinian Refugees: Pawns to Political Actors |first=Ghada Hashem |last=Talhami |date=2003 |accessdate=2021-12-01 |publisher=Nova Publishers |isbn=9781590336496 |page=98 |language=en }}</ref>
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*{{仮リンク|北部軍 (チャド)|label=北部軍|en|Armed Forces of the North}}(FAN)(1978–1983)
*{{仮リンク|北部軍 (チャド)|label=北部軍|en|Armed Forces of the North}}(FAN)(1978–1983)
*{{仮リンク|チャド軍 (1983年 - 1990年)|en|Chadian National Armed Forces}}(FANT)(1983–1987)
*{{仮リンク|チャド軍 (1983年 - 1990年)|en|Chadian National Armed Forces}}(FANT)(1983–1987)
*{{仮リンク|国民統合のための暫定政府|en|Transitional Government of National Unity}}(GUNT)(1986–1987)
*{{仮リンク|国民統暫定政府|en|Transitional Government of National Unity}}(GUNT)(1986–1987)
{{FRA}}<br />
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アフリカ連合軍
アフリカ連合軍
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チャド民族解放戦線(FROLINAT)より分裂した最強派閥・{{仮リンク|北部軍軍事司令評議会|en|Command Council of the Armed Forces of the North}}(CCFAN)にとって、リビアの積極的な活動は懸念になり始めた。1976年10月、リビアからの支援問題で分裂、一部の者が離反し、反リビアの[[イッセン・ハブレ]]が率いる{{仮リンク|北部軍 (チャド)|label=北部軍|en|Armed Forces of the North}}(FAN)を結成した。一方、カーザーフィーとの同盟を受け入れる多数派は[[グクーニ・ウェディ]]の指揮下にあった。この多数派はほどなくして{{仮リンク|人民軍 (チャド)|label=人民軍|en|People's Armed Forces}}(FAP)と改称した{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=19 }}。
チャド民族解放戦線(FROLINAT)より分裂した最強派閥・{{仮リンク|北部軍軍事司令評議会|en|Command Council of the Armed Forces of the North}}(CCFAN)にとって、リビアの積極的な活動は懸念になり始めた。1976年10月、リビアからの支援問題で分裂、一部の者が離反し、反リビアの[[イッセン・ハブレ]]が率いる{{仮リンク|北部軍 (チャド)|label=北部軍|en|Armed Forces of the North}}(FAN)を結成した。一方、カーザーフィーとの同盟を受け入れる多数派は[[グクーニ・ウェディ]]の指揮下にあった。この多数派はほどなくして{{仮リンク|人民軍 (チャド)|label=人民軍|en|People's Armed Forces}}(FAP)と改称した{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=19 }}。


その当時、カーザーフィーからの支援は道義的に問題のない物資が中心で、武器類の供給はごく限定的であった。1977年2月になると、リビアはウェディ率いる人民軍(FAP)に[[AK-47|AK-47アサルトライフル]]数百丁、[[RPG|RPG (兵器)]]数十丁、81mmおよび82mmの[[迫撃砲]]、[[無反動砲]]を供給し、状況は変わり始めた。同年6月、これらの武器で武装した人民軍(FAP)は、ティベスティ(Tibesti)地方の[[バルダイ]]、{{仮リンク|ズアール|en|Zouar, Chad}}、ボルク(Borkou)地方の{{仮リンク|ウニアンガ・ケビル|en|Ounianga Kébir (town)}}にある[[チャド軍 (1960年 - 1979年)|チャド軍]](FAT)の拠点を攻撃した。6月22日以来包囲されていたバルダイは7月4日に陥落、またチャド軍(FAT)はズアールからも撤退し、ウェディはティベスティ地方を完全に掌握した。チャド軍(FAT)は兵士300人を失い、多量の軍事物資が人民軍(FAP)側に渡った{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |pp=16-17 }}<ref>{{cite web |date=1993 |title=Public sitting held on Friday 2 July 1993, at 10 a.m., at the Peace Palace, President Sir Robert Jennings presiding |url=https://www.icj-cij.org/public/files/case-related/83/083-19930702-ORA-01-00-BI.pdf |format=PDF |website=[https://www.icj-cij.org/en/case/83/oral-proceedings INTERNATIONAL COURT OF JUSTICE > Territorial Dispute (Libyan Arab Jamahiriya/Chad) > ORAL PROCEEDINGS] |publisher=国際司法裁判所 |language=en |accessdate=2021-12-08 |page=18 }}</ref>。一方、ウニアンガ・ケビルは6月20日に攻撃を受けるが、当地在留のフランス軍事顧問団により救われた{{sfn |Clayton |1998 |p=99 }}。
その当時、カーザーフィーからの支援は道義的に問題のない物資が中心で、武器類の供給はごく限定的であった。1977年2月になると、リビアはグクーニ率いる人民軍(FAP)に[[AK-47|AK-47アサルトライフル]]数百丁、[[RPG|RPG (兵器)]]数十丁、81mmおよび82mmの[[迫撃砲]]、[[無反動砲]]を供給し、状況は変わり始めた。同年6月、これらの武器で武装した人民軍(FAP)は、ティベスティ(Tibesti)地方の[[バルダイ]]、{{仮リンク|ズアール|en|Zouar, Chad}}、ボルク(Borkou)地方の{{仮リンク|ウニアンガ・ケビル|en|Ounianga Kébir (town)}}にある[[チャド軍 (1960年 - 1979年)|チャド軍]](FAT)の拠点を攻撃した。6月22日以来包囲されていたバルダイは7月4日に陥落、またチャド軍(FAT)はズアールからも撤退し、グクーニはティベスティ地方を完全に掌握した。チャド軍(FAT)は兵士300人を失い、多量の軍事物資が人民軍(FAP)側に渡った{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |pp=16-17 }}<ref>{{cite web |date=1993 |title=Public sitting held on Friday 2 July 1993, at 10 a.m., at the Peace Palace, President Sir Robert Jennings presiding |url=https://www.icj-cij.org/public/files/case-related/83/083-19930702-ORA-01-00-BI.pdf |format=PDF |website=[https://www.icj-cij.org/en/case/83/oral-proceedings INTERNATIONAL COURT OF JUSTICE > Territorial Dispute (Libyan Arab Jamahiriya/Chad) > ORAL PROCEEDINGS] |publisher=国際司法裁判所 |language=en |accessdate=2021-12-08 |page=18 }}</ref>。一方、ウニアンガ・ケビルは6月20日に攻撃を受けるが、当地在留のフランス軍事顧問団により救われた{{sfn |Clayton |1998 |p=99 }}。


[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]がチャドへの関与をより深めるための拠点として[[アオゾウ地帯]]を利用していることが明らかになってきたため、[[フェリックス・マルーム|マルーム]]は、リビアによるアオゾウ地帯の占領問題について[[国際連合]]および[[アフリカ統一機構]]に提起することにした{{sfn |Wright |1989 |pp=130-131 }}。また、マルームは新たな同盟を結ぶ必要があると判断し、1977年9月、[[イッセン・ハブレ|ハブレ]]と正式な同盟関係締結を交渉し、「ハルツーム合意」に双方合意した。この合意は1978年1月22日に行われた基本綱領の署名までは秘匿され、その後、1978年8月29日にはハブレを首相とする国民統一政府(National Union Government)が発足した{{sfn |Macedo |2003 |pp=132-133 }}{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=27 }}。マルームとハブレによるこの合意は、「カーザーフィーが支配する過激なチャド」を危惧する[[スーダン]]と[[サウジアラビア]]が積極的に後押しした。両国とも、ハブレを敬虔な[[イスラム]]教徒、反植民地主義者と見ており、カーザーフィーの計画を阻む唯一の好機と考えた{{sfn |Gérard |1984 |p=119 }}。
[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]がチャドへの関与をより深めるための拠点として[[アオゾウ地帯]]を利用していることが明らかになってきたため、[[フェリックス・マルーム|マルーム]]は、リビアによるアオゾウ地帯の占領問題について[[国際連合]]および[[アフリカ統一機構]]に提起することにした{{sfn |Wright |1989 |pp=130-131 }}。また、マルームは新たな同盟を結ぶ必要があると判断し、1977年9月、[[イッセン・ハブレ|ハブレ]]と正式な同盟関係締結を交渉し、「ハルツーム合意」に双方合意した。この合意は1978年1月22日に行われた基本綱領の署名までは秘匿され、その後、1978年8月29日にはハブレを首相とする国民統一政府(National Union Government)が発足した{{sfn |Macedo |2003 |pp=132-133 }}{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=27 }}。マルームとハブレによるこの合意は、「カーザーフィーが支配する過激なチャド」を危惧する[[スーダン]]と[[サウジアラビア]]が積極的に後押しした。両国とも、ハブレを敬虔な[[イスラム]]教徒、反植民地主義者と見ており、カーザーフィーの計画を阻む唯一の好機と考えた{{sfn |Gérard |1984 |p=119 }}。
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[[File:LARAF MiG-23MS rolling along the runway at Faya Largeau AB,.jpg |thumb |left |1980年代中頃、{{仮リンク|ファヤ・ラルジョー空港|label=ファヤ・ラルジョー基地|en|Faya-Largeau Airport}}を滑走する[[MiG-23 (航空機)|MiG-23 M's]]]]
[[File:LARAF MiG-23MS rolling along the runway at Faya Largeau AB,.jpg |thumb |left |1980年代中頃、{{仮リンク|ファヤ・ラルジョー空港|label=ファヤ・ラルジョー基地|en|Faya-Largeau Airport}}を滑走する[[MiG-23 (航空機)|MiG-23 M's]]]]


カーザーフィーは「マルーム・ハブレ合意はチャドにおける自身の影響力に対して深刻な脅威である」と認識し、チャドに対するリビアの関与度合いを高めることとなった。リビア地上部隊の積極的な参加を得ると{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}、ウェディ率いる人民軍(FAP)は、1978年1月29日に初めて、政府軍のチャド北部最後の前哨基地[[ファヤ・ラルジョー]]、[[ファダ (チャド)|ファダ]]、ウニアンガ・ケビルに対し「イブラヒム・アバッチャ攻撃(the Ibrahim Abatcha offensive)」を仕掛けた。攻撃は成功し、ウェディおよびリビア軍は[[ボルク・エネディ・ティベスティ県]](BET県)の支配権を手に入れた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=26 }}。
カーザーフィーは「マルーム・ハブレ合意はチャドにおける自身の影響力に対して深刻な脅威である」と認識し、チャドに対するリビアの関与度合いを高めることとなった。リビア地上部隊の積極的な参加を得ると{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}、グクーニ率いる人民軍(FAP)は、1978年1月29日に初めて、政府軍のチャド北部最後の前哨基地[[ファヤ・ラルジョー]]、[[ファダ (チャド)|ファダ]]、ウニアンガ・ケビルに対し「イブラヒム・アバッチャ攻撃(the Ibrahim Abatcha offensive)」を仕掛けた。攻撃は成功し、グクーニおよびリビア軍は[[ボルク・エネディ・ティベスティ県]](BET県)の支配権を手に入れた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=26 }}。


リビア軍・人民軍(FAP)連合とチャド政府軍との間の決定的な衝突は、BET県の県都ファヤ・ラルジョーで発生した。守備側のチャド政府軍5000人と、人民軍(FAP)軍2500人+リビア軍支援約4000人とで激しい戦闘が行われたのち、1978年2月18日、ファヤ・ラルジョーは陥落した。リビア軍は戦闘に直接携わらず、機甲部隊・砲兵部隊及び航空支援を担当し、この役割分担はこれ以降繰り返されることとなった{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}。また、人民軍(FAP)の武装も、[[9K32|9K32ストレラ-2地対空ミサイル]]を誇示するなど、以前と比べ格段に強化されていた{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=18 }}。
リビア軍・人民軍(FAP)連合とチャド政府軍との間の決定的な衝突は、BET県の県都ファヤ・ラルジョーで発生した。守備側のチャド政府軍5000人と、人民軍(FAP)軍2500人+リビア軍支援約4000人とで激しい戦闘が行われたのち、1978年2月18日、ファヤ・ラルジョーは陥落した。リビア軍は戦闘に直接携わらず、機甲部隊・砲兵部隊及び航空支援を担当し、この役割分担はこれ以降繰り返されることとなった{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}。また、人民軍(FAP)の武装も、[[9K32|9K32ストレラ-2地対空ミサイル]]を誇示するなど、以前と比べ格段に強化されていた{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=18 }}。


人民軍(FAP)は1977年から1978年にかけて約2500人を捕虜とし、その結果、チャド政府軍は少なくとも20%の兵員を失った{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=26 }}。特に「{{日本語版にない記事リンク|国家・遊牧民警備隊|en|National and Nomadic Guard}}(GNN)」は、ファダ、ファヤ・ラルジョーの陥落で壊滅的な損害を被った{{sfn |United States |1982 |p=32}}。ウェディはこの勝利により、チャド民族解放戦線(FROLINAT)内での地位を高めることとなった。1978年3月にファヤ・ラルジョーにおいて、主要な反体制勢力を集めた会議がリビア主催で開催され、各派閥がチャド民族解放戦線(FROLINAT)として再結集、その事務局長にウェディが指名された{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=21 }}。
人民軍(FAP)は1977年から1978年にかけて約2500人を捕虜とし、その結果、チャド政府軍は少なくとも20%の兵員を失った{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=26 }}。特に「{{日本語版にない記事リンク|国家・遊牧民警備隊|en|National and Nomadic Guard}}(GNN)」は、ファダ、ファヤ・ラルジョーの陥落で壊滅的な損害を被った{{sfn |United States |1982 |p=32}}。グクーニはこの勝利により、チャド民族解放戦線(FROLINAT)内での地位を高めることとなった。1978年3月にファヤ・ラルジョーにおいて、主要な反体制勢力を集めた会議がリビア主催で開催され、各派閥がチャド民族解放戦線(FROLINAT)として再結集、その事務局長にグクーニが指名された{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=21 }}。


人民軍(FAP)・リビア軍の攻勢に対し、マムールは、1978年2月6日に[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]との外交関係を断絶、リビアの関与に関して[[国際連合安全保障理事会]]に提起というかたちで応じた。リビアによるアオゾウ地帯の占領問題に関しても再度提起を行ったが、ファヤ・ラルジョー陥落後の1978年2月19日、停戦受け入れと提起撤回を余儀なくされた。一方、リビア側は、兵器の重要な供給元であったフランスからの圧力により、チャドへの進軍を停止させた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}。
人民軍(FAP)・リビア軍の攻勢に対し、マルームは、1978年2月6日に[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]との外交関係を断絶、リビアの関与に関して[[国際連合安全保障理事会]]に提起というかたちで応じた。リビアによるアオゾウ地帯の占領問題に関しても再度提起を行ったが、ファヤ・ラルジョー陥落後の1978年2月19日、停戦受け入れと提起撤回を余儀なくされた。一方、リビア側は、兵器の重要な供給元であったフランスからの圧力により、チャドへの進軍を停止させた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}。


1978年2月24日、[[ニジェール]]大統領[[セイニ・クンチェ]]、[[スーダン]]副大統領アブ・アルガシム・モハメド・イブラハム(Abu al-Gasim Mohamed Ibrahim)を仲介者とする国際和平会議がリビアの[[セブハ]]で開かれ、チャドとリビアは外交関係を回復した。フランス、スーダン、ザイールからの強い圧力を受けて{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}、1978年3月27日、マムールは、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の承認」「新たな停戦の合意」を旨とするベンガジ合意への署名を余儀なくされた。この合意では、合意事項を履行するためのリビア・ニジェール合同軍事委員会の創設が求められており、この委員会を通じて、リビアのチャド領内への介入は合法化されることとなった。また、合意事項にはリビアにとって重要な条件「チャド駐留フランス軍の完全撤収」も含まれていた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}。初めから履行が覚束ないこの合意は、カーザーフィーにとっては、「子分」であるウェディの立場を強固にするための戦略以上の何物でもなかった。また、この合意におけるマルームの譲歩を「指導者としての力量が足りない証である」と見たチャド南部の人々の間では、マルームの威信は大きく低下した{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}。
1978年2月24日、[[ニジェール]]大統領[[セイニ・クンチェ]]、[[スーダン]]副大統領アブ・アルガシム・モハメド・イブラハム(Abu al-Gasim Mohamed Ibrahim)を仲介者とする国際和平会議がリビアの[[セブハ]]で開かれ、チャドとリビアは外交関係を回復した。フランス、スーダン、ザイールからの強い圧力を受けて{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}、1978年3月27日、マルームは、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の承認」「新たな停戦の合意」を旨とするベンガジ合意への署名を余儀なくされた。この合意では、合意事項を履行するためのリビア・ニジェール合同軍事委員会の創設が求められており、この委員会を通じて、リビアのチャド領内への介入は合法化されることとなった。また、合意事項にはリビアにとって重要な条件「チャド駐留フランス軍の完全撤収」も含まれていた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}。初めから履行が覚束ないこの合意は、カーザーフィーにとっては、「子分」であるグクーニの立場を強固にするための戦略以上の何物でもなかった。また、この合意におけるマルームの譲歩を「指導者としての力量が足りない証である」と見たチャド南部の人々の間では、マルームの威信は大きく低下した{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}。


1978年4月15日、停戦合意からほどなくして、リビアの駐留軍800人をファヤ・ラルジョーに残したまま、ウェディは同地を離れた。リビアの機甲部隊と航空戦力を後ろ盾に、ウェディ率いる反政府軍は、小規模なチャド軍(FAT)駐屯地を制圧し、[[ンジャメナ]]へ向かった{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}。
1978年4月15日、停戦合意からほどなくして、リビアの駐留軍800人をファヤ・ラルジョーに残したまま、グクーニは同地を離れた。リビアの機甲部隊と航空戦力を後ろ盾に、グクーニ率いる反政府軍は、小規模なチャド軍(FAT)駐屯地を制圧し、[[ンジャメナ]]へ向かった{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}。


ウェディの進軍に対し、新たにチャドに投入されたフランス軍が立ちはだかった。ウェディ側からの最初の攻勢の後の1977年には既に、マルームはフランス軍のチャド再派兵を要請していたが、フランス大統領[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]は、[[1978年フランス議会総選挙]]を控える中、再派兵には当初は消極的であった。また、フランスは、利益を生むリビアとの通商及び外交関係を損なうことを恐れていた。しかしながら、チャド情勢の急速な悪化をうけて、1978年2月20日にデスタン大統領は「{{日本語版にない記事リンク|オペレーション・タコー|fr|Opération Tacaud}}」を決定、4月までにチャドへ2500人を派兵し首都ンジャメナの防衛を行うこととなった{{sfn |De Lespinois |2005 |pp=70-71 }}。
グクーニの進軍に対し、新たにチャドに投入されたフランス軍が立ちはだかった。グクーニ側からの最初の攻勢の後の1977年には既に、マルームはフランス軍のチャド再派兵を要請していたが、フランス大統領[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]は、[[1978年フランス議会総選挙]]を控える中、再派兵には当初は消極的であった。また、フランスは、利益を生むリビアとの通商及び外交関係を損なうことを恐れていた。しかしながら、チャド情勢の急速な悪化をうけて、1978年2月20日にデスタン大統領は「{{日本語版にない記事リンク|オペレーション・タコー|fr|Opération Tacaud}}」を決定、4月までにチャドへ2500人を派兵し首都ンジャメナの防衛を行うこととなった{{sfn |De Lespinois |2005 |pp=70-71 }}。


ンジャメナ北東430kmの[[アティ (チャド)|アティ]]が決戦の場となった。1978年5月19日、アティ駐屯の政府軍1500人に対し、火砲や現代兵器を装備したチャド民族解放戦線(FROLINAT)が攻撃を仕掛けた。機甲部隊にサポートされたチャド機動部隊、さらには[[フランス外人部隊]]、[[第3海兵歩兵連隊 (フランス軍)|フランス第3海兵歩兵連隊]]が支援に到着し、アティ駐屯の政府軍は救い出された。2日にわたる戦闘でチャド民族解放戦線(FROLINAT)は甚大な被害を出して撃退され、また1978年6月の[[ジェッダ (チャド)|ジェッダ]]での戦闘においても政府軍側が勝利した。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は兵士2000人を失い敗北、持ち込んでいた「最先端の装備品」を残したまま北へ逃走した。一連の戦闘で決定的だったのは、リビア空軍のパイロットが戦闘を拒否したため、フランス側が完全な[[制空権]]を確保できたことであった{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}{{sfn |Pollack |2002 |pp=376-377 }}{{sfn |Simpson |1999 |p=55 }}。
ンジャメナ北東430kmの[[アティ (チャド)|アティ]]が決戦の場となった。1978年5月19日、アティ駐屯の政府軍1500人に対し、火砲や現代兵器を装備したチャド民族解放戦線(FROLINAT)が攻撃を仕掛けた。機甲部隊にサポートされたチャド機動部隊、さらには[[フランス外人部隊]]、[[第3海兵歩兵連隊 (フランス軍)|フランス第3海兵歩兵連隊]]が支援に到着し、アティ駐屯の政府軍は救い出された。2日にわたる戦闘でチャド民族解放戦線(FROLINAT)は甚大な被害を出して撃退され、また1978年6月の[[ジェッダ (チャド)|ジェッダ]]での戦闘においても政府軍側が勝利した。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は兵士2000人を失い敗北、持ち込んでいた「最先端の装備品」を残したまま北へ逃走した。一連の戦闘で決定的だったのは、リビア空軍のパイロットが戦闘を拒否したため、フランス側が完全な[[制空権]]を確保できたことであった{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}{{sfn |Pollack |2002 |pp=376-377 }}{{sfn |Simpson |1999 |p=55 }}。

=== リビアの苦境 ===
首都ンジャメナに対する攻撃が失敗したわずか数か月後、チャド民族解放戦線(FROLINAT)では内部対立の激化により所属各勢力の結束は打ち砕かれ、チャドにおけるリビアの影響力はひどく弱体化した。1978年8月27日夜、{{仮リンク|火山軍|en|VolcanArmy}}の指導者{{仮リンク|アーマット・アシル|en|Ahmat Acyl}}は、リビア軍の支援のもとファヤ・ラルジョーを攻撃した。これは明らかにカーザーフィーの「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の指導者をグクーニからアシルへとすげ替える」という試みであった。この試みは裏目に出ることになり、グクーニは、チャドにいるリビア軍事顧問を全て追放することで応じ、フランスとの和解を探り始めることとなった{{sfn |Brandily |1984 |p=59 }}{{sfn |Mouric |1984 |p=99 }}。

カーザーフィーとグクーニの衝突には、民族的要因と政治的要因の二つの要因があった。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は、アシルのような[[アラブ人]]と、グクーニやハブレといった{{仮リンク|トゥブ族|en|Toubou people}}に分かれていた。また、人種・民族の違いは、カーザーフィーやその思想「[[緑の書]]」に対する姿勢の相違にも表れていた。特に、グクーニおよびその配下は、「『緑の書』をチャド民族解放戦線(FROLINAT)の公式政策に」というカーザーフィーの要請に対し消極的であり、時間をかけたうえで、チャド民族解放戦線(FROLINAT)の活動が完全に再統合されるまでは、この問題を先延ばししようとしていた。再統合がなされ、カーザーフィーが「緑の書」採用を再び要請すると、チャド民族解放戦線(FROLINAT)の革命評議会(the Revolution's Council)では意見の相違が明らかになった。すなわち、多くの者は、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)が発足し、{{仮リンク|イブラヒム ・アバチャ|en|Ibrahim Abatcha}}が初代事務総長に就任した1966年当時の活動方針」に従うと明言する一方、アシルほかの一部の者は、カーザーフィーの考えを完全に受け入れるという状況であった{{sfn |Brandily |1984 |pp58-61 }}。

首都ンジャメナでは、ハブレ首相の北部軍(FAN)とマルーム大統領のチャド政府軍(FAT)の2つの軍隊が同時に存在し、国家の崩壊と北部指導者の台頭をもたらすことになる{{仮リンク|ンジャメナの戦い (1979年)|laber=ンジャメナの戦い|en|battle of N'Djamena (1979)}}の舞台が整っていた。1979年2月12日、小規模な偶発的事件が北部軍(FAN)とチャド政府軍(FAT)の激しい戦闘に発展、2月19日にはグクーニ配下の人民軍(FAP)が北部軍(FAN)側としてンジャメナ入りすると、戦闘はさらに激化することとなった。最初の国際和平会議が開催された3月16日までで、死者は推定2千-5千人、避難民は推定6万-7万人に上った。消耗が激しいチャド政府軍(FAT)は、首都を対立する勢力の手に委ね、{{仮リンク|ワデル・アブデルカデル・カモウゲ|en|Wadel Abdelkader Kamougué}}の指導のもと、チャド南部にて再編成を行うこととなった。この戦いの間、フランス駐留軍は積極的な関与を行わず傍観していたが、{{仮リンク|チャド空軍|en|Chadian Air Force}}に空爆中止を要請するなど、状況によっては、ハブレ側を助けることすらあった{{sfn |Azevedo |1998 |pp=104–105,119,135 }}。

1979年3月、国際和平会議が[[ナイジェリア]]の[[カノ]]で開催され、マルーム、ハブレ、グクーニのほか、チャドと国境を接する各国が参加した。3月16日に全ての出席者が{{仮リンク|カノ協定|en|Kano Accord}}に署名、マルーム大統領は辞任し、グクーニが議長を務める国家評議会が大統領職に取って代わることになった{{sfn |Azevedo |1998 |p=106 }}。これは、ナイジェリアとフランスが、グクーニとハブレに対し、権力を共有するように圧力をかけた結果であり{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=88 }}、 特にフランスは、「グクーニとカーザーフィーとの関係を完全に断ち切らせる」ための戦略の一つと考えていた{{sfn |Mouric |1984 |p=100 }}。数週間後、同じ枠組みの各勢力は、{{仮リンク|国民統一暫定政府|en|Transitional Government of National Unity}}(GUNT)を結成、「リビアをチャドから追い出したい」という共通の思いのもと、かなりの程度までまとまっていた{{sfn |Pollack |2002 |p=377 }}。

リビアは、カノ協定に署名したにもかかわらず{{sfn |Mays |2002 |p=43 }}、火山軍の指導者たちが国民統一暫定政府(GUNT)に参画できず、アオゾウ地帯についてのリビアの主張が認められていないことに激怒していた。1979年4月13日以降、チャド北部ではリビアによる小規模な軍事活動がいくつか発生し、またチャド南部では分離独立運動への支援が行われていた。一方で、リビアが大きく動くのは、「より包括的な新たな統一政府の構築を」との近隣諸国からの最終的な要請が6月25日に回答期限を迎えてからであった。6月26日、リビア軍2500人がチャドに侵攻、ファヤ・ラルジョーに向かった。チャド政府はフランスに救援を要請。リビア軍は、はじめはグクーニ配下の民兵によって窮地に立たされ、その後、フランスの[[偵察機]]・[[爆撃機]]によって撤退を余儀なくされた。同月、国民統一暫定政府(GUNT)より締め出された各勢力は、対抗政府組織「暫定共同行動戦線(the Front for Joint Provisional Action、FACP)」を創設した{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=88 }}{{sfn |Pollack |2002 |p=377 }}{{sfn |Mays |2002 |p=39 }}。

リビアとの戦い、ナイジェリアによる[[経済的ボイコット]]、国際的な圧力がかかる状況下、1979年8月、新たな国際和平会議がナイジェリア・[[ラゴス]]で開催され、チャドで活動する政治勢力11グループのすべてが参加した。8月21日、新たな協定「{{仮リンク|ラゴス協定|en|Lagos Accord}}」が署名・締結され、全ての政治勢力が参加する新しい国民統一暫定政府(GUNT)が結成されることとなった。またフランス軍はチャドから引き揚げ、アフリカ諸国による平和維持軍が派遣されることとなった{{sfn |Mays |2002 |pp=45-46 }}。新しい国民統一暫定政府(GUNT)は1979年11月に発足し、グクーニ大統領、カモウゲ副大統領、ハブレ国防相{{sfn |Nolutshungu |1996 |p=133 }}、アシル外相が就任した{{sfn |Azevedo |1998 |p=147 }}。反リビアのハブレはいるものの、新しい国民統一暫定政府(GUNT)の構成メンバーには、カーザーフィーを満足させるのに十分な親リビア人材が揃っていた{{sfn |Wright |1989 |p=131 }}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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* {{cite journal |last=Gérard |first=Alain |title=Nimeiry face aux crises tchadiennes |journal=[http://www.politique-africaine.com/numeros/016_SOM.HTM Politique Africaine] |issue=16 |pages=118–124 |date=1984-12 |url=http://www.politique-africaine.com/numeros/pdf/016118.pdf |format=PDF |accessdate=2009-06-25 |language=fr |ref=harv }}
* {{cite journal |last=Gérard |first=Alain |title=Nimeiry face aux crises tchadiennes |journal=[http://www.politique-africaine.com/numeros/016_SOM.HTM Politique Africaine] |issue=16 |pages=118–124 |date=1984-12 |url=http://www.politique-africaine.com/numeros/pdf/016118.pdf |format=PDF |accessdate=2009-06-25 |language=fr |ref=harv }}
* {{Cite book |author=United States |title=Libya-Sudan-Chad triangle: dilemma for United States policy: hearings before the Subcommittee on Africa of the Committee on Foreign Affairs, House of Representatives, Ninety-seventh Congress, first session, October 29 and November 4, 1981 |date=1982 |publisher=U.S. G.P.O. |language=en |url=https://hdl.handle.net/2027/uc1.31210024748632 |accessdate=2021-12-10 |ref=harv }}
* {{Cite book |author=United States |title=Libya-Sudan-Chad triangle: dilemma for United States policy: hearings before the Subcommittee on Africa of the Committee on Foreign Affairs, House of Representatives, Ninety-seventh Congress, first session, October 29 and November 4, 1981 |date=1982 |publisher=U.S. G.P.O. |language=en |url=https://hdl.handle.net/2027/uc1.31210024748632 |accessdate=2021-12-10 |ref=harv }}
*{{cite journal |last=De Lespinois |first=Jérôme |title=L'emploi de la force aérienne au Tchad (1967–1987) |journal=Penser les Ailes Françaises |issue=6 |pages=65–74 |date=2005-06 |issn=1771-0022 |publisher=Centre d'enseignement supérieur aérien |language=fr |url=http://www.cesa.air.defense.gouv.fr/DPESA/PLAF/PLAF_N_6.pdf |accessdate=2009-06-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090305170836/http://www.cesa.air.defense.gouv.fr/DPESA/PLAF/PLAF_N_6.pdf |archivedate=2009-03-05 |ref=harv }}
* {{cite journal |last=De Lespinois |first=Jérôme |title=L'emploi de la force aérienne au Tchad (1967–1987) |journal=Penser les Ailes Françaises |issue=6 |pages=65–74 |date=2005-06 |issn=1771-0022 |publisher=Centre d'enseignement supérieur aérien |language=fr |url=http://www.cesa.air.defense.gouv.fr/DPESA/PLAF/PLAF_N_6.pdf |accessdate=2009-06-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090305170836/http://www.cesa.air.defense.gouv.fr/DPESA/PLAF/PLAF_N_6.pdf |archivedate=2009-03-05 |ref=harv }}
*{{cite book |last=Simpson |first=Howard R. |title=The Paratroopers of the French Foreign Legion: From Vietnam to Bosnia |publisher=Brassey's |date=1999-11-01 |isbn=1-57488-226-0 |language=en |ref=harv }}
* {{cite book |last=Simpson |first=Howard R. |title=The Paratroopers of the French Foreign Legion: From Vietnam to Bosnia |publisher=Brassey's |date=1999-11-01 |isbn=1-57488-226-0 |language=en |ref=harv }}
* {{cite journal |last=Brandily |first=Monique |title=Le Tchad face nord 1978–1979 |journal=[http://www.politique-africaine.com/numeros/016_SOM.HTM Politique Africaine] |issue=16 |pages=45–65 |date=1984-12 |url=http://www.politique-africaine.com/numeros/pdf/016045.pdf |format=PDF |accessdate=2009-06-25 |language=fr |ref=harv }}
* {{cite journal |last=Mouric |first=Nelly |title= La politique tchadienne de la France sous Valéry Giscard d'Estaing: Vers la prise en compte de la rébellion |journal=[http://www.politique-africaine.com/numeros/016_SOM.HTM Politique Africaine] |issue=16 |pages=86–101 |date=1984-12 |url=http://www.politique-africaine.com/numeros/pdf/016086.pdf |format=PDF |accessdate=2009-06-25 |language=fr |ref=harv }}
* {{cite book |last=Mays |first=Terry M. |title=Africa's First Peacekeeping operation: The OAU in Chad |publisher=Greenwood |date=2002-05-30 |isbn=978-0-275-97606-4 |language=en |ref=harv }}


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2021年12月13日 (月) 05:34時点における版

チャド・リビア紛争
LocationChad
チャドの位置
1978年1月29日 - 1987年9月11日
場所チャド
結果 反リビア派チャド勢力とフランスの勝利
領土の
変化
アオゾウ地帯の支配権を維持した
衝突した勢力

チャド(反リビア勢力)

フランスの旗 フランス
アフリカ連合軍

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗 リビア

チャド(親リビア勢力)

パレスチナ解放戦線(PLO)(1987)[6][7]

指揮官
チャドの旗イッセン・ハブレ
チャドの旗ハサン・ジャモス: Hassan Djamous
チャドの旗イドリス・デビ
フランスの旗ヴァレリー・ジスカール・デスタン
フランスの旗フランソワ・ミッテラン

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗ムアンマル・アル=カッザーフィー

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗マスド・アブドゥルハフィーズ: Massoud Abdelhafid
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗ハリファ・ハフタル
リビアの旗アブドゥッラー・セヌーシー: Abdullah Senussi
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗アフメッド・オウン: Ahmed Oun
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗アブ・バクリ・ユネス・ジョブ: Abu-Bakr Yunis Jabr
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の旗アブドゥル・ファター・ユネス: Abdul Fatah Younis
リビアの旗ラドワン・サーレヘ・ラドワン[8][9]
ククニ・オーイディ: Goukouni Oueddei
マハムード・A・マルズーク(PLO)
被害者数
死者:1000人以上 死者:7500人以上
捕虜:1000人以上
走行車両800両以上
航空機:28機以上

チャド・リビア紛争とは、1978年から1987年にかけてチャドで行われた一連の軍事作戦で、リビア軍とチャド連合軍が、フランスの支援を受けたチャド人グループと戦い、時には他の外国や勢力が関与することもあった。リビアによるチャド内政への関与は、チャド内戦英語版が1968年にチャド北部に拡大したことに端を発しており、1978年の本紛争以前、もとよりムアンマル・アル=カッザーフィー1969年リビア革命英語版で権力を掌握する以前より行われていた[10]。リビアによるこの紛争への介入は、1978年、1979年、1980年から1981年、1983年から1987年の4次にも亘ったことに特色があり、カッザーフィーはこの4次のいずれにおいてもチャド内戦参加勢力の多くから支持されていた。一方、フランスは1978年、1983年、1986年にチャド政府支援のために軍事介入しており、反リビア勢力もフランスの支援を受けていた。

リビア側の戦闘の役割分担は1978年当初より、リビアが機甲部隊砲兵部隊及び航空支援を担当し、親リビア派チャド勢力の歩兵部隊が偵察と戦闘の大部分を担うというものであった[11]。このリビア側の役割分担は、リビアによるチャド北部占領に対して、かつてないほどの団結を見せたチャド軍によって、紛争末期の1986年には大きく変容[12]、すなわちリビア側の熟練歩兵は消耗することとなった。また時を合わせて、アメリカザイール、フランス供給の対戦車・対空ミサイルをふんだんに装備する遊撃軍と対峙することとなり、火力面でのリビア側の優位性は失われることとなった。その後、トヨタ戦争が起こり、リビア軍はチャドから潰走・撤退し、紛争は終結した。

カーザーフィーは当初、「チャド最北端・アオゾウ地帯のチャド帰属は、植民地時代の未批准の条約よるもので、本来はリビアの一部である」と主張し、同地の併合を企てていた[10]。歴史学者マリオ・アゼベド: Mario Azevedoの考察によると、その後の1972年当時のカーザーフィーの目論見は、リビアの「急所」に彼自身が唱える「ジャマーヒリーヤ」を模したイスラム共和制従属国家を打ち立て、緊密な関係を維持し、アオゾウ地帯の支配権を確保すること、この地域からフランスを追放すること、そしてチャドを中部アフリカにおける影響力を拡大させる拠点とすることであった[13]

背景

アオゾウ地帯の占領

リビアのチャドへの干渉は、チャド民族解放戦線英語版(FROLINAT)が、キリスト教徒のフランソワ・トンバルバイ大統領に対するゲリラ戦を、北方のボルク・エネディ・ティベスティ県(BET県)に展開していたチャド内戦英語版さなかの1968年に始まったとされる[14]。リビア国王イドリース1世は、チャド-リビア国境英語版を挟んだ双方地域の長期間の強い結びつきにより、チャド民族解放戦線(FROLINAT)を支援せざるを得ないと考えていた。一方で、かつてチャドを植民地とし独立後もチャドを庇護するフランスとの関係を維持する為、イドリース1世のチャド民族解放戦線(FROLINAT)支援は、リビア領内での保護と、武器以外の物資の提供に限定された[10]

1969年9月1日のリビア革命にて国王イドリース1世は廃位となり、ムアンマル・アル=カッザーフィーが実権を掌握すると、この状況は一変した。カッザーフィーは、1935年にイタリアフランス(当時のリビアとチャドの宗主国)間で署名されながらも未批准となった条約を引き合いに出し、チャド北部のアオゾウ地帯に対する主権を主張した[10]。このような主張は、1954年にイドリース1世がアオゾウ地帯に侵攻(そしてフランス植民地軍英語版により撃退された)した際にも行われていた[15]

赤く塗られたところがアオゾウ地帯

カーザーフィーは当初、チャド民族解放戦線(FROLINAT)を警戒していたが、1970年までには「自身の役に立ちそうだ」と見るようになった。東側諸国、とりわけ東ドイツの支援の下、カーザーフィーはチャド民族解放戦線(FROLINAT)に訓練を施し、武器と資金を与え武装させた[10][16]。1971年8月27日、チャドのフランソワ・トンバルバイ大統領に対するクーデターが発生(失敗に終わる)、チャドは、クーデターを支援したとして、エジプトおよびリビアとの外交関係を断ち切った[17][18]。加えて、リビアの反体制派勢力に対しチャドに拠点を置くように申し入れ、また「歴史的正当性」を理由にリビア領土となっているフェザーンの領有を主張し始めた。一方、カーザーフィーは、9月17日にチャド民族解放戦線(FROLINAT)をチャドにおける唯一の正当な政府として正式に承認し、これに応酬した。10月には、チャド外相のババ・ハッサンは国連において、リビアの「領土拡張主義的な考え」を激しく非難した[19]

リビアに対するフランスの圧力とニジェールの大統領アマニ・ディオリの仲介により、1972年4月17日に両国は外交関係を回復した。その直後、トンバルバイはイスラエルと外交関係を断絶。また、11月28日にはアオゾウ地帯のリビアへの割譲について密約を交わしたと言われている。引き換えにカーザーフィーは、チャドに4000万ポンドの提供を約束し[20]、1972年12月に両国は友好条約を締結した。カーザーフィはチャド民族解放戦線(FROLINAT)への公式支援を撤回し、その指導者アバ・シディック英語版に申しつけ、本部をトリポリからアルジェに移転させた[21][22]。1974年3月にはカーザーフィーがチャドの首都ンジャメナを訪れ[23]、また、同月にはチャドへの投資資金提供のための合同銀行が設立され、数年間は良好な関係が続いた[19]

1972年の条約締結から6カ月後、リビア軍はアオゾウ地帯に進駐。また、アオゾウ地帯のすぐ北側に、地対空ミサイルで守られた空軍基地を設置した。アオゾウ地帯を管轄する民政局がクフラ英語版に設置され、数千人におよぶアオゾウ地帯の住民にリビアの市民権が与えられた。以降、リビアの地図ではアオゾウ地帯をリビアの一部として表記するようになった[22]

リビアがアオゾウ地帯を手に入れた条件の詳細は一部不明のままであり、議論が続いている。トンバルバイ・カーザーフィー間の密約は、1988年にリビア大統領が「トンバルバイはリビアの主張を承認している」とされる書簡の写しを提示したことにより、初めて明るみに出た。これに対し、例えばベルナール・ランネといった学者達は、「正式な合意は、いかなる類のものも存在しない」、「トンバイルはこの占領に言及しない方が好都合と考えていた」と論じている。アオゾウ地帯問題が1993年に国際司法裁判所(ICJ)に提起された際には、リビアは密約の原本を提示することが出来なかった[22][24]

反政府活動の拡大

1975年4月13日に発生したクーデター英語版にて、トンバルバイ大統領は死亡し、フェリックス・マルーム将軍が政治の実権を握った為、リビア・チャド間の友好的な関係は長続きしなかった。クーデターの背景には、トンバルバイ大統領のリビアに対する宥和政策への反発もあったことから、カーザーフィーはこれを自身の影響力に対する脅威と考え、チャド民族解放戦線(FROLINAT)への供給を再開することにした[10]。1976年4月にはカーザーフィー支援によるマルーム暗殺未遂が発生[21]、また同年、リビア軍はチャド民族解放戦線(FROLINAT)とともにチャド中心部に向けて侵攻を開始した[11]

チャド民族解放戦線(FROLINAT)より分裂した最強派閥・北部軍軍事司令評議会英語版(CCFAN)にとって、リビアの積極的な活動は懸念になり始めた。1976年10月、リビアからの支援問題で分裂、一部の者が離反し、反リビアのイッセン・ハブレが率いる北部軍英語版(FAN)を結成した。一方、カーザーフィーとの同盟を受け入れる多数派はグクーニ・ウェディの指揮下にあった。この多数派はほどなくして人民軍英語版(FAP)と改称した[25]

その当時、カーザーフィーからの支援は道義的に問題のない物資が中心で、武器類の供給はごく限定的であった。1977年2月になると、リビアはグクーニ率いる人民軍(FAP)にAK-47アサルトライフル数百丁、RPG (兵器)数十丁、81mmおよび82mmの迫撃砲無反動砲を供給し、状況は変わり始めた。同年6月、これらの武器で武装した人民軍(FAP)は、ティベスティ(Tibesti)地方のバルダイズアール英語版、ボルク(Borkou)地方のウニアンガ・ケビル英語版にあるチャド軍(FAT)の拠点を攻撃した。6月22日以来包囲されていたバルダイは7月4日に陥落、またチャド軍(FAT)はズアールからも撤退し、グクーニはティベスティ地方を完全に掌握した。チャド軍(FAT)は兵士300人を失い、多量の軍事物資が人民軍(FAP)側に渡った[26][27]。一方、ウニアンガ・ケビルは6月20日に攻撃を受けるが、当地在留のフランス軍事顧問団により救われた[28]

リビアがチャドへの関与をより深めるための拠点としてアオゾウ地帯を利用していることが明らかになってきたため、マルームは、リビアによるアオゾウ地帯の占領問題について国際連合およびアフリカ統一機構に提起することにした[29]。また、マルームは新たな同盟を結ぶ必要があると判断し、1977年9月、ハブレと正式な同盟関係締結を交渉し、「ハルツーム合意」に双方合意した。この合意は1978年1月22日に行われた基本綱領の署名までは秘匿され、その後、1978年8月29日にはハブレを首相とする国民統一政府(National Union Government)が発足した[30][31]。マルームとハブレによるこの合意は、「カーザーフィーが支配する過激なチャド」を危惧するスーダンサウジアラビアが積極的に後押しした。両国とも、ハブレを敬虔なイスラム教徒、反植民地主義者と見ており、カーザーフィーの計画を阻む唯一の好機と考えた[32]

紛争の経過

リビア関与の拡大

1980年代中頃、ファヤ・ラルジョー基地英語版を滑走するMiG-23 M's

カーザーフィーは「マルーム・ハブレ合意はチャドにおける自身の影響力に対して深刻な脅威である」と認識し、チャドに対するリビアの関与度合いを高めることとなった。リビア地上部隊の積極的な参加を得ると[11]、グクーニ率いる人民軍(FAP)は、1978年1月29日に初めて、政府軍のチャド北部最後の前哨基地ファヤ・ラルジョーファダ、ウニアンガ・ケビルに対し「イブラヒム・アバッチャ攻撃(the Ibrahim Abatcha offensive)」を仕掛けた。攻撃は成功し、グクーニおよびリビア軍はボルク・エネディ・ティベスティ県(BET県)の支配権を手に入れた[33][34]

リビア軍・人民軍(FAP)連合とチャド政府軍との間の決定的な衝突は、BET県の県都ファヤ・ラルジョーで発生した。守備側のチャド政府軍5000人と、人民軍(FAP)軍2500人+リビア軍支援約4000人とで激しい戦闘が行われたのち、1978年2月18日、ファヤ・ラルジョーは陥落した。リビア軍は戦闘に直接携わらず、機甲部隊・砲兵部隊及び航空支援を担当し、この役割分担はこれ以降繰り返されることとなった[11]。また、人民軍(FAP)の武装も、9K32ストレラ-2地対空ミサイルを誇示するなど、以前と比べ格段に強化されていた[35]

人民軍(FAP)は1977年から1978年にかけて約2500人を捕虜とし、その結果、チャド政府軍は少なくとも20%の兵員を失った[34]。特に「国家・遊牧民警備隊英語: National and Nomadic Guard(GNN)」は、ファダ、ファヤ・ラルジョーの陥落で壊滅的な損害を被った[36]。グクーニはこの勝利により、チャド民族解放戦線(FROLINAT)内での地位を高めることとなった。1978年3月にファヤ・ラルジョーにおいて、主要な反体制勢力を集めた会議がリビア主催で開催され、各派閥がチャド民族解放戦線(FROLINAT)として再結集、その事務局長にグクーニが指名された[37]

人民軍(FAP)・リビア軍の攻勢に対し、マルームは、1978年2月6日にリビアとの外交関係を断絶、リビアの関与に関して国際連合安全保障理事会に提起というかたちで応じた。リビアによるアオゾウ地帯の占領問題に関しても再度提起を行ったが、ファヤ・ラルジョー陥落後の1978年2月19日、停戦受け入れと提起撤回を余儀なくされた。一方、リビア側は、兵器の重要な供給元であったフランスからの圧力により、チャドへの進軍を停止させた[33]

1978年2月24日、ニジェール大統領セイニ・クンチェスーダン副大統領アブ・アルガシム・モハメド・イブラハム(Abu al-Gasim Mohamed Ibrahim)を仲介者とする国際和平会議がリビアのセブハで開かれ、チャドとリビアは外交関係を回復した。フランス、スーダン、ザイールからの強い圧力を受けて[38]、1978年3月27日、マルームは、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の承認」「新たな停戦の合意」を旨とするベンガジ合意への署名を余儀なくされた。この合意では、合意事項を履行するためのリビア・ニジェール合同軍事委員会の創設が求められており、この委員会を通じて、リビアのチャド領内への介入は合法化されることとなった。また、合意事項にはリビアにとって重要な条件「チャド駐留フランス軍の完全撤収」も含まれていた[33]。初めから履行が覚束ないこの合意は、カーザーフィーにとっては、「子分」であるグクーニの立場を強固にするための戦略以上の何物でもなかった。また、この合意におけるマルームの譲歩を「指導者としての力量が足りない証である」と見たチャド南部の人々の間では、マルームの威信は大きく低下した[38]

1978年4月15日、停戦合意からほどなくして、リビアの駐留軍800人をファヤ・ラルジョーに残したまま、グクーニは同地を離れた。リビアの機甲部隊と航空戦力を後ろ盾に、グクーニ率いる反政府軍は、小規模なチャド軍(FAT)駐屯地を制圧し、ンジャメナへ向かった[11][38]

グクーニの進軍に対し、新たにチャドに投入されたフランス軍が立ちはだかった。グクーニ側からの最初の攻勢の後の1977年には既に、マルームはフランス軍のチャド再派兵を要請していたが、フランス大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンは、1978年フランス議会総選挙を控える中、再派兵には当初は消極的であった。また、フランスは、利益を生むリビアとの通商及び外交関係を損なうことを恐れていた。しかしながら、チャド情勢の急速な悪化をうけて、1978年2月20日にデスタン大統領は「オペレーション・タコーフランス語: Opération Tacaud」を決定、4月までにチャドへ2500人を派兵し首都ンジャメナの防衛を行うこととなった[39]

ンジャメナ北東430kmのアティが決戦の場となった。1978年5月19日、アティ駐屯の政府軍1500人に対し、火砲や現代兵器を装備したチャド民族解放戦線(FROLINAT)が攻撃を仕掛けた。機甲部隊にサポートされたチャド機動部隊、さらにはフランス外人部隊フランス第3海兵歩兵連隊が支援に到着し、アティ駐屯の政府軍は救い出された。2日にわたる戦闘でチャド民族解放戦線(FROLINAT)は甚大な被害を出して撃退され、また1978年6月のジェッダでの戦闘においても政府軍側が勝利した。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は兵士2000人を失い敗北、持ち込んでいた「最先端の装備品」を残したまま北へ逃走した。一連の戦闘で決定的だったのは、リビア空軍のパイロットが戦闘を拒否したため、フランス側が完全な制空権を確保できたことであった[38][40][41]

リビアの苦境

首都ンジャメナに対する攻撃が失敗したわずか数か月後、チャド民族解放戦線(FROLINAT)では内部対立の激化により所属各勢力の結束は打ち砕かれ、チャドにおけるリビアの影響力はひどく弱体化した。1978年8月27日夜、火山軍英語版の指導者アーマット・アシル英語版は、リビア軍の支援のもとファヤ・ラルジョーを攻撃した。これは明らかにカーザーフィーの「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の指導者をグクーニからアシルへとすげ替える」という試みであった。この試みは裏目に出ることになり、グクーニは、チャドにいるリビア軍事顧問を全て追放することで応じ、フランスとの和解を探り始めることとなった[42][43]

カーザーフィーとグクーニの衝突には、民族的要因と政治的要因の二つの要因があった。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は、アシルのようなアラブ人と、グクーニやハブレといったトゥブ族英語版に分かれていた。また、人種・民族の違いは、カーザーフィーやその思想「緑の書」に対する姿勢の相違にも表れていた。特に、グクーニおよびその配下は、「『緑の書』をチャド民族解放戦線(FROLINAT)の公式政策に」というカーザーフィーの要請に対し消極的であり、時間をかけたうえで、チャド民族解放戦線(FROLINAT)の活動が完全に再統合されるまでは、この問題を先延ばししようとしていた。再統合がなされ、カーザーフィーが「緑の書」採用を再び要請すると、チャド民族解放戦線(FROLINAT)の革命評議会(the Revolution's Council)では意見の相違が明らかになった。すなわち、多くの者は、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)が発足し、イブラヒム ・アバチャ英語版が初代事務総長に就任した1966年当時の活動方針」に従うと明言する一方、アシルほかの一部の者は、カーザーフィーの考えを完全に受け入れるという状況であった[44]

首都ンジャメナでは、ハブレ首相の北部軍(FAN)とマルーム大統領のチャド政府軍(FAT)の2つの軍隊が同時に存在し、国家の崩壊と北部指導者の台頭をもたらすことになるンジャメナの戦い (1979年)英語版の舞台が整っていた。1979年2月12日、小規模な偶発的事件が北部軍(FAN)とチャド政府軍(FAT)の激しい戦闘に発展、2月19日にはグクーニ配下の人民軍(FAP)が北部軍(FAN)側としてンジャメナ入りすると、戦闘はさらに激化することとなった。最初の国際和平会議が開催された3月16日までで、死者は推定2千-5千人、避難民は推定6万-7万人に上った。消耗が激しいチャド政府軍(FAT)は、首都を対立する勢力の手に委ね、ワデル・アブデルカデル・カモウゲ英語版の指導のもと、チャド南部にて再編成を行うこととなった。この戦いの間、フランス駐留軍は積極的な関与を行わず傍観していたが、チャド空軍英語版に空爆中止を要請するなど、状況によっては、ハブレ側を助けることすらあった[45]

1979年3月、国際和平会議がナイジェリアカノで開催され、マルーム、ハブレ、グクーニのほか、チャドと国境を接する各国が参加した。3月16日に全ての出席者がカノ協定英語版に署名、マルーム大統領は辞任し、グクーニが議長を務める国家評議会が大統領職に取って代わることになった[46]。これは、ナイジェリアとフランスが、グクーニとハブレに対し、権力を共有するように圧力をかけた結果であり[47]、 特にフランスは、「グクーニとカーザーフィーとの関係を完全に断ち切らせる」ための戦略の一つと考えていた[48]。数週間後、同じ枠組みの各勢力は、国民統一暫定政府英語版(GUNT)を結成、「リビアをチャドから追い出したい」という共通の思いのもと、かなりの程度までまとまっていた[49]

リビアは、カノ協定に署名したにもかかわらず[50]、火山軍の指導者たちが国民統一暫定政府(GUNT)に参画できず、アオゾウ地帯についてのリビアの主張が認められていないことに激怒していた。1979年4月13日以降、チャド北部ではリビアによる小規模な軍事活動がいくつか発生し、またチャド南部では分離独立運動への支援が行われていた。一方で、リビアが大きく動くのは、「より包括的な新たな統一政府の構築を」との近隣諸国からの最終的な要請が6月25日に回答期限を迎えてからであった。6月26日、リビア軍2500人がチャドに侵攻、ファヤ・ラルジョーに向かった。チャド政府はフランスに救援を要請。リビア軍は、はじめはグクーニ配下の民兵によって窮地に立たされ、その後、フランスの偵察機爆撃機によって撤退を余儀なくされた。同月、国民統一暫定政府(GUNT)より締め出された各勢力は、対抗政府組織「暫定共同行動戦線(the Front for Joint Provisional Action、FACP)」を創設した[47][49][51]

リビアとの戦い、ナイジェリアによる経済的ボイコット、国際的な圧力がかかる状況下、1979年8月、新たな国際和平会議がナイジェリア・ラゴスで開催され、チャドで活動する政治勢力11グループのすべてが参加した。8月21日、新たな協定「ラゴス協定英語版」が署名・締結され、全ての政治勢力が参加する新しい国民統一暫定政府(GUNT)が結成されることとなった。またフランス軍はチャドから引き揚げ、アフリカ諸国による平和維持軍が派遣されることとなった[52]。新しい国民統一暫定政府(GUNT)は1979年11月に発足し、グクーニ大統領、カモウゲ副大統領、ハブレ国防相[53]、アシル外相が就任した[54]。反リビアのハブレはいるものの、新しい国民統一暫定政府(GUNT)の構成メンバーには、カーザーフィーを満足させるのに十分な親リビア人材が揃っていた[55]

脚注

  1. ^ a b Nolutshungu 1996, p. 164.
  2. ^ a b c Simons 2003, p. 57.
  3. ^ Les liaisons dangereuses de Habré : Israël pactise avec le diable (4/5)” (フランス語). Jeune Afrique (2015年7月20日). 2021年12月1日閲覧。
  4. ^ Les liaisons dangereuses de Habré : l'Irak fait valser les valises (3/5)” (フランス語). Jeune Afrique (2015年7月20日). 2021年12月1日閲覧。
  5. ^ Simons 2003, pp. 57–58.
  6. ^ “قصة من تاريخ النشاط العسكري الفلسطيني ... عندما حاربت منظمة التحرير مع القذافي ضد تشاد” (アラビア語). Raseef22英語版. (2018年12月4日). https://raseef22.net/article/173109-%D9%82%D8%B5%D8%A9-%D9%85%D9%86-%D8%AA%D8%A7%D8%B1%D9%8A%D8%AE-%D8%A7%D9%84%D9%86%D8%B4%D8%A7%D8%B7-%D8%A7%D9%84%D8%B9%D8%B3%D9%83%D8%B1%D9%8A-%D8%A7%D9%84%D9%81%D9%84%D8%B3%D8%B7%D9%8A%D9%86%D9%8A 2021年5月16日閲覧。 
  7. ^ Talhami, Ghada Hashem (2003) (英語). Palestinian Refugees: Pawns to Political Actors. Nova Publishers. p. 98. ISBN 9781590336496. https://books.google.com/books?id=n8LsPA3mTBYC&q=PLO+Aouzou&pg=PA98 2021年12月1日閲覧。 
  8. ^ Cowell, Alan (1981年11月15日). “Libyan withdrawal from Chad is continuing” (英語). The New York Times: p. 4. https://www.nytimes.com/1981/11/15/world/libyan-withdrawal-from-chad-is-continuing.html 2021年1月3日閲覧。 
  9. ^ Cowell, Alan (1981年11月13日). “For Chad, the Libyan pullout is creating a perilous vacuum” (英語). The New York Times: p. 6. https://www.nytimes.com/1981/11/14/world/for-chad-the-libyan-pullout-is-creating-a-perilous-vacuum.html 2021年1月3日閲覧。 
  10. ^ a b c d e f Pollack 2002, p. 375.
  11. ^ a b c d e Pollack 2002, p. 376.
  12. ^ Nolutshungu 1996, p. 230.
  13. ^ Azevedo 1998, p. 151.
  14. ^ Clayton 1998, p. 98.
  15. ^ Brecher & Wilkenfeld 1997, p. 84.
  16. ^ Ferguson 2002, p. 267.
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  19. ^ a b Simons 2003, p. 56.
  20. ^ Nolutshungu 1996, p. 327.
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  28. ^ Clayton 1998, p. 99.
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  53. ^ Nolutshungu 1996, p. 133.
  54. ^ Azevedo 1998, p. 147.
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参考文献