トヨタ戦争
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トヨタ戦争 | |||||||
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チャド内戦中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
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指揮官 | |||||||
ムアンマル・アル=カッザーフィー | イッセン・ハブレ | ||||||
戦力 | |||||||
リビア軍 90,000 CDR 1,000 |
チャド軍 28,000 FAP 1,500~2,000 | ||||||
被害者数 | |||||||
戦死:7,500 捕虜:1,000 軍用車両:800 空軍機:28 | 戦死:1,000 |
トヨタ戦争(トヨタせんそう)は、チャド内戦の後期の戦闘のことである。
戦争の名称[編集]
この戦争では、チャド軍と反政府勢力の両者が、トヨタ自動車のピックアップトラックを戦場で使用した。(主にランドクルーザー・ピックアップをテクニカルに改造したもの。)
その車両の荷台後部に大きく表示された「TOYOTA」のロゴタイプが報道によってたびたび放映され目立ったため、「トヨタ戦争」と呼ばれるようになった[1]。
解説[編集]
1987年、北部チャド、リビアとの国境付近でチャド政府軍と反政府勢力、反政府勢力を支援するリビア軍の間で行われた。この戦争ではリビアは多くの損害を出し、7500人が死亡、およそ15億ドルの兵器を損失した。
チャド内戦は1983年に、リビアの最高指導者カダフィがチャドのイッセン・ハブレ大統領を認めずにチャドの反政府暫定国民政府(GUNT)に軍事協力したことから始まっている。リビアのこの行為はフランスの介入を招き、マンタ計画、エペルヴィア計画によってリビア軍の軍事行動は16度線の北部、人口の少ない砂漠地帯に限られるようになった。
1986年に入ると、チャドの重要拠点を失ったGUNTはカダフィに反旗を翻した。これを知ったハブレ大統領は、チャド北部を奪回し、リビアのチベスチ近辺で戦っているGUNT離脱者と合流するために、12月16日から軍を16度線を越えて進軍させた。政府軍は、3か月に渡ってゲリラ戦と正規戦を駆使して北部チャドを奪回した。また、1987年9月に停戦条約に合意するまでの間リビア軍と戦闘を続け、大きな被害を与えた。停戦条約ではアオゾウ地帯の帰属について話し合われ、1994年、国際司法裁判所はこの地域をチャド領と裁定した。
関連項目[編集]
- 第5次ヴァル・ファジュル作戦-日本の民生品(例としてコマツの建設機械)がそのまま使われた例
- ISIL - トヨタ製のピックアップトラックを多用して巡回している。また凱旋する映像でもトヨタ製のピックアップが頻繁にみられる。
脚注[編集]
- ^ ラビ・ソマイヤ (2010年11月19日). “世界の武装ゲリラがトヨタを愛する理由” (日本語). ニューズウィーク日本版 2017年5月14日閲覧。