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[[Image:BLW Bohemian Jug.jpg|thumb|200px|right|ボヘミアガラス]]
'''ボヘミアガラス'''(Bohemian glass)は、[[チェコ]]の[[伝統産業]]のひとつ。[[切子]]の技術を多用する[[ガラス工芸]]の[[地域ブランド]]である
'''ボヘミアガラス'''(Bohemian glass)は、[[ガラス]]を加工する[[チェコ]]の[[伝統産業]]のひとつ。

== 特徴 ==
緑の[[ソーダガラス]]を使った安価な日用品から、丹念なカットと掘り込みが施された高級品の[[クリスタルガラス]]まで、ボヘミアガラスには様々な種類の製品が存在する<ref>渡部、五木、弦田『ガラスの楽しみ方』、98頁</ref>。[[ボヘミア]](チェコ西部)産の木灰からとれたカリ([[炭酸カリウム]])を原料とする無色透明の[[カリガラス]]、17世紀に考案された掘り込み(エングレーヴィング、グラヴィール彫刻)がボヘミアガラスの特徴である<ref name="numa241">沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、241頁</ref>。銅製の回転盤による浮き彫り、研磨、カットに適したカリガラスによって、独特の特徴が確立されている<ref name="shinohara296">篠原「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』、296頁</ref>。

カリ分を主成分とする木灰は、ナトリウム分を主成分とするソーダ灰よりもガラスの透明度を高め、屈折率を大きくする働きがある<ref name="yoshimizu1992-50">由水『ガラス工芸』、50頁</ref>。適量の[[酸化マンガン]]を加えることで、原料に含まれる鉄分から生じる青緑色がガラスから除かれ、無色透明のガラスが作られる<ref name="yoshimizu1992-51">由水『ガラス工芸』、51頁</ref>。

ボヘミアでガラスの製造が盛んに行われた理由には、ボヘミアは[[シリカ]]の原料、[[るつぼ]]に使用する粘土や窯の素材となる岩石にも富んでいたことも挙げられる<ref name="kurokawa-gi42">黒川『ガラスの技術史』、42頁</ref>。また、[[ヴルタヴァ川]](モルダウ川)や[[エルベ川]]などのボヘミアを通る河川はガラスの材料と完成した製品の流通路となり、器具の動力となる水車の利用を助けた<ref name="kurokawa-gi42"/>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 黎明期 ===
チェコにおけるガラス産業は、[[9世紀]]頃に[[モラヴィア]](チェコ北東部)・[[ボヘミア]](チェコ西部)・[[シレジア]](チェコ北東部)の[[モラヴィア帝国]]で装身具の材料としてガラスが使われたのが始まりとされる。
ボヘミアにおけるガラス工芸の歴史は、[[13世紀]]に遡る<ref name="numa241"/><ref name="shinohara296"/>。[[12世紀]]のボヘミアでは教会で使用される[[ステンドグラス]]が作られていたが、世俗社会との関係は低く、一般向けのガラス容器が作られるのは13世紀に入ってからである<ref name="yoshimizu1992-49">由水『ガラス工芸』、49頁</ref>。


13世紀のボヘミアには[[ヴェネツィア]]からガラスの製造技術が伝えられていたが、ガラス産業の規模は小さかった<ref name="hasegawa">長谷川「ヨーロッパのガラス工芸」『ガラスの博物誌』、45-47頁</ref>。
その後そのガラス製造技術はモラヴィア帝国滅亡後に築かれた[[ボヘミア王国]]へと受け継がれていき、この頃ボヘミアガラスは[[ステンドグラス]]やガラス器などにも使用されるようになった。
中世のボヘミアで生産されたガラスは森林地帯で作られる厚手の[[ヴァルトグラス]](森林グラス)が中心で<ref name="kurokawa-gi42"/><ref name="hasegawa"/>、技法は父子相伝のものとなっていた<ref name="kurokawa-gi42"/>。[[14世紀]]に入り[[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]](ボヘミア王としてはカレル1世)の治下で[[プラハ]]がヨーロッパ文化の中心地として繁栄していた時代に、ボヘミアガラスの骨組みが出来上がる<ref name="yoshimizu1992-50"/>。カール4世の時代にボヘミアとヴェネツィアの関係が深まると、徐々に[[ヴェネツィアン・グラス]]を手本としたガラスが製造されるようになる<ref name="hasegawa"/>。しかし、当時のボヘミアガラスは工芸品としては未成熟で、優れた技術はもっぱらステンドグラスの製造に生かされていた<ref name="yoshimizu1992-50"/>。15世紀末までにチェコ・ドイツ国境の森林地帯でガラス工房が発展していき<ref name="shinohara296"/>、14世紀末には約20のガラス工房がボヘミアに存在していた<ref name="kurokawa-gi42"/><ref>由水『ガラスと文化』、221頁</ref>。


=== ボヘミアガラスの特徴の確立 ===
そのボヘミア王国も[[1306年]]に滅ぼされてボヘミアは[[神聖ローマ帝国]]傘下に入るが、ボヘミアガラスは発展を続けた。[[14世紀]]に入り神聖ローマ皇帝[[カール4世]](ボヘミア王としてはカレル1世)は[[プラハ]]に遷都、プラハは中部ヨーロッパの文化の中心となった。14世紀前半には数箇所だったガラス窯も約半世紀後の14世紀後半には20箇所に増加したという。
14世紀末から15世紀初頭のボヘミアでは、主に[[ビザンチングラス]]の様式を継承したグラスが製造されていた<ref name="yoshimizuNHK-222">由水『ガラスと文化』、222頁</ref>。15世紀半ばにビザンツ帝国([[東ローマ帝国]])が滅亡、この頃からヴェネツィアの[[ムラーノ島]]から抜け出してボヘミアに移住するガラス職人が増え始める<ref name="yoshimizuNHK-222"/>。16世紀には約90の工房がボヘミアに存在し、ビザンツ、ヴェネツィア、ドイツといった外国の様式を模したグラスが作られていた<ref>由水『ガラスと文化』、223-225頁</ref>。[[17世紀]]の[[バロック|バロック時代]]まではヴェネツィアがヨーロッパのガラス容器の生産の中心地であり、ボヘミアのガラス製品もヴェネツィアの影響を受けていた<ref name="numa241"/>。


プラハを帝国の首都とした神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]は学芸の保護者として知られ、特にガラス工芸を熱心に保護した<ref name="yoshimizu1992-50"/>。17世紀前半にプラハの宝石カッティング職人カスパル・レーマン(Caspar Lehmann)によって、[[銅]]や[[青銅|ブロンズ]]製の回転[[砥石]]で宝石をカットするエングレーヴィング技術のガラス細工への応用が考案される<ref name="numa241243">沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、241,243頁</ref>。従来のヴェネツィア式の[[エナメル]]を使用した絵柄の描画に代わってガラスに直接絵柄が掘り込まれるようになり(グラヴィール彫刻の始まり)<ref name="numa241243"/>、レーマンはルドルフ2世からグラヴィールの独占権を認められた<ref name="kurokawa-gi43">黒川『ガラスの技術史』、43頁</ref>。グラヴィール彫刻はボヘミアと[[シレジア]]に普及し、レーマンの弟子ゲオルグ・シュヴァンハルトによって[[ニュルンベルク]]に伝えられ、[[ドイツ]]、[[オーストリア]]にも技術が広まった<ref name="numa243">沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、243頁</ref>。それ以降、従来の加工法を結合させ、装飾的なバロック様式が施されたガラス細工がヨーロッパの市場で知られるようになった<ref name="shinohara296"/>。プラハの宮廷で流行したボヘミアガラスは[[ハプスブルク家]]の愛用品となり、ヨーロッパ各国の宮廷で珍重された<ref name="yoshimizu1992-51"/>。レーマンら初期のガラス職人の作品は、ガラスを面ごと削ぎ取ったとも思える大胆なカットと、緻密な掘り込みが共存しており、彼らが培った伝統は後世の最高級品の中にも根付いている<ref name="yoshimizu1992-52">由水『ガラス工芸』、52頁</ref>。
[[17世紀]]前半にプラハの宝石カッティング職人キャスパー・レーマン(Caspar Lehmann)が[[銅]]や[[青銅|ブロンズ]]製の回転[[砥石]]で宝石をカットする技術をガラスに適用することを思いつき(グラヴィール彫刻の始まり)、それ以降、[[バロック]]様式の装飾的なガラス細工が世に知られるようになった。17世紀後半には[[ソーダ灰]]の代わりに木灰を使う[[カリガラス]]が開発された。こうしてカットとグラヴィールというボヘミアガラスの特徴が確立した。ただし現在では(鉛)[[クリスタルガラス]]も用いられることがある。


1660年代から1670年代にかけての期間には、ボヘミアで[[クリスタッロ]](ヴェネツィアで開発された無色の薄いソーダガラス)よりもグラヴィール彫刻に適した、輝度の高い硬質の[[カリガラス]]が開発された<ref>中山『世界ガラス工芸史』、90-91頁</ref>。ガラスの原料の一つとなる[[ソーダ灰]]について、ボヘミアは[[ジェノヴァ]]からの輸入に依存しており、しばしば供給に不都合をきたした<ref name="yoshimizu1992-49"/>。ソーダ灰の代用品として、[[シレジア]]の山地で伐採された木材から作った石灰(ライム)が使われるようになる<ref>由水『ガラス工芸』、49-50頁</ref>。1680年代にはミヒャエル・ミューラーによって、木灰を利用した石灰カリガラスが発明される<ref name="hasegawa"/><ref name="kurokawa-gi43"/>。しかし、ミューラーのガラスは石灰の量の調節が難しいために均等な品質の維持に困難をきたし、ガラスの品質が安定するようになるのは18世紀に入ってからである<ref name="kurokawa-gi43"/>。また、カットとグラヴィールの発展と共に、窯、材料の調合の割合、除冷法にも改良が加えられていった<ref name="yoshimizu1992-51"/>。18世紀末には乳白ガラスが開発され、ドイツ製の磁器を模倣した作品が多く作られた<ref name="hasegawa"/>。
[[18世紀]]中頃から[[19世紀]]前半にかけて、戦争と保護完全、さらに鉛クリスタルガラスの広がりなどによってボヘミアガラスは一途衰退した。しかし、[[フリードリッヒ・エーゲルマン]]は斬新なデザインの作品を発表したほか技術的にも新たなものを開発、ボヘミアガラスを回生させたと評価されている。

こうしてカットとグラヴィールというボヘミアガラスの特徴と、ヨーロッパにおけるボヘミアのガラス産業の高い地位が確立し、[[18世紀]]にはヴェネツィアのガラス工芸に影響を与えるようになった<ref name="numa243"/>。18世紀のボヘミアにはグラヴィール彫刻とカットを手掛ける工房が多く稼働していたが、それでも各国からの注文に生産が追い付かず、シレジア地方やドイツの[[ベルリン]]から職人が招集された<ref>由水『ガラスと文化』、228頁</ref>。ボヘミアガラスの流行には体系された流通網も重要な役割を果たし、ボヘミアガラスはヨーロッパ、さらにはアメリカに輸出された<ref name="shinohara296"/>。ボヘミアガラスの販売店はヨーロッパだけでなく、[[イズミル]]、[[カイロ]]、[[ベイルート]]、[[ニューヨーク]]などにも置かれていた。

=== 有色ガラスの開発 ===
[[三十年戦争]]後にボヘミアが[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]に編入された後も、ボヘミアのガラス工芸は時代ごとに新たな作風が開拓されていく<ref name="numa243"/>。18世紀中頃から[[19世紀]]前半にかけて続いた戦争はボヘミアのガラス産業に大打撃を与え、ヨーロッパ各国が輸入品に高い関税をかけたためにボヘミアガラスの輸出量は激減する<ref name="yoshimizu1992-52">由水『ガラス工芸』、53頁</ref>。さらに[[古典主義|古典主義時代]]には、ボヘミアガラスは[[イギリス]]の鉛クリスタルガラスの影響を強く受けた<ref name="numa243"/>。面ごとガラスをカットするイギリス風のダイヤモンド・カットに対抗して、ボヘミアではV字形に掘り込んだ直線の溝を交差させる様式が新たに考案され、V字形の溝が交差して生まれる輝きはボヘミアガラス独自のスタイルとして定着する<ref name="hasegawa"/>。

19世紀にボヘミアガラスに訪れた危機は、有色ガラスの開発によって克服される<ref name="numa243"/><ref name="hasegawa"/>。[[1832年]]頃にはフリードリッヒ・エガーマン(ペドジフ・エゲルマン)によって、かつてステンドグラスに使われていたステイニング(酸化銀、酸化銅を使ったガラスの着色法)が再発明される<ref>黒川『ガラスの技術史』、22-23,71頁</ref>。エガーマンはステイニングを利用して、大理石や木の年輪のような多層の模様をもつリシアリンガラスを開発した。ほかにエガーマンは[[半貴石]]を模した瑪瑙ガラス、[[孔雀石]]を模したジャスパーグラスを開発し、開発した素材の上にエナメル金彩を描いてボヘミアガラスの新たな境地を開拓した<ref>由水『ガラスと文化』、231頁</ref>。エガーマンによって発明された有色ガラスの一つであるヒアリスガラスは、濃度の高い赤・黒色のガラスで、イギリスの[[ウェッジウッド]]から着想を得たと考えられている<ref name="hasegawa"/>。

19世紀半ばには、ガラス職人クラリクによって様々な色のアラバスターガラスが発明された<ref>黒川『ガラスの技術史』、71-72頁</ref>。有色ガラスを利用した技法の一つには、ガラスの生地に有色ガラスを重ね、カットやグラヴィール彫刻を施していく被せガラスがある<ref name="shinohara297">篠原「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』、297頁</ref>。19世紀には輸出用の登録商標として「ボヘミア・クリスタル」という名称が考案され、[[ブランディング|ブランド・イメージ]]の向上に大きな役割を果たした<ref>篠原「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』、295頁</ref>。

19世紀末にはボヘミアガラス独特の特徴は徐々に失われていき、作業工程の機械化が進展していく<ref name="hasegawa"/>。こうした趨勢に対して、ボヘミアガラスの伝統と技法を守ろうとする動きが起こり、各地にガラス製造のための教育機関が続々と設立される<ref name="hasegawa"/>。1890年代には、ボヘミアガラスにも[[アール・ヌーヴォー]]の影響が及んだ<ref name="numa244">沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、244頁</ref>。アール・ヌーヴォー期には、ガラスに薬品を塗って虹色の被膜を作り出す[[ラスター彩]]の技術が再生され、ラスター彩による虹彩ガラスが人気を博した<ref name="hasegawa"/>。1903年から1938年まで活動していたウィーン工房はボヘミアやモラヴィアの工房に作業を外注し、ウィーンの簡素なデザインはボヘミアガラスにも影響を与える<ref name="nakayama147">中山『世界ガラス工芸史』、147頁</ref>。

1925年にパリで開催された[[パリ万国博覧会 (1925年)|パリ万国博覧会]]([[アール・デコ]]博覧会)に出品されたヤロスラフ・ホレイックのグラヴィール彫刻は高い評価を受けた<ref name="nakayama147"/>。

=== 第二次世界大戦後の動向 ===
1948年に、ボヘミアのガラス産業は[[チェコスロバキア]]政府によって国有化される。社会主義下のチェコスロバキアでは国策として重工業が優先され、ガラス産業も他の中工業と同じように規模が縮小されようとしていた<ref name="shinohara298">篠原「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』、298頁</ref>。[[第二次世界大戦]]後に[[プラハ芸術アカデミー]]の教授職に就いた[[ヨセフ・カプリツキー]]は、教え子たちに密かに西側諸国の現代美術の知識を伝え、自由な精神と独創性を育て上げた<ref>中山『世界ガラス工芸史』、152頁</ref>。1957年に[[ミラノ]]で開催された[[1957年ミラノ・トリエンナーレ|トリエンナーレ]]に出品された作品はボヘミアガラスの国際的な評価を高め<ref name="numa244"/>、1958年の[[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万国博覧会]]にもボヘミアガラスが出展される。チェコのパビリオンにはカプリツキーの指導を受けた若手の作品が並び、彼らの作品は国際的に高い評価を受けた<ref name="shinohara298"/>。万博での成功の結果、ガラス産業はチェコスロバキアの政治的プロパガンダの広告塔とされ、手厚い国家援助を受けた<ref name="shinohara298"/>。

国家によって選抜された芸術家たちは、工場で量産されるガラス製品のデザインや素材の開発を手掛けるとともに、芸術性を追求する創作活動のために工場を利用することもできた。こうした環境は個人規模では不可能な制作活動を可能にし、チェコのガラス芸術は国際的に高い域に達する<ref name="shinohara298"/>。社会主義時代のガラス工芸の中心人物である[[スタニスラフ・リベンスキー]]は応用美術アカデミーで後進の育成にあたり、妻のヤロスラヴァ・ブリフトヴァーと共に多くの国家的プロジェクトに着手した。リベンスキーらによる作品の一つに、[[聖ヴィート大聖堂]]内の聖ヴァーツラフ礼拝堂の窓が挙げられる。


== 技法・模様 ==
== 技法・模様 ==
*ゴールドサンドウィッチ・ラス密着する相似形の大小のグラスの間に模様を彫刻した金箔や銀箔を挟み込む幻の技法この技法が使用され品は現存するものの、技途絶えてしまっている。
ボヘミアグラスの製法の一つに、18世紀に考案されたドウボイスチェンカ(複層ガラス、英語で「[[ゴールドサンドッチガラス|ゴールドサンドイッチ]]」)がある<ref name="yoshimizu1992-53">由水『ガラス工芸』、53頁</ref>。[[ヘレニズム]]期から利用されている技法で<ref name="nakayama104">中山『世界ガラス工芸史』、104頁</ref>、密着する相似形の大小のグラスの間に模様を彫刻した金箔や銀箔を挟み込む。1730年代から1750年代にかけて流行しが<ref name="nakayama104"/>19世紀初頭にドウボイスチェンカの消失す<ref name="yoshimizu1992-53"/>

*500PK:500番目に開発されたカット模様。神秘的な輝きを放つ繊細なレース模様で、現在に至るまで販売されている。
ドウボイスチェンカが流行した18世紀には、黒エナメルや金箔で文様を描くロココ・グラスも考案された<ref name="yoshimizu1992-53"/>。あらかじめ多面カットを施したグラスに単色の[[シノワズリ]]文様や[[ロココ]]文様を描く技法で、無色の素地に文様が浮き出すように見える<ref name="yoshimizu1992-53"/>。ロココ・グラスは19世紀初期まで製造されていたが、ドウボイスチェンカと同様に19世紀中に技術が失われる<ref name="yoshimizu1992-53"/>。


== 脚注 ==
== 現代科学との関係 ==
{{Reflist}}
ボヘミアのヨアヒムスタール鉱山で採れる[[ピッチブレンド]](瀝青ウラン鉱)に含まれる[[ウラン]]がボヘミアグラスの着色に使われていることを知った[[キュリー夫妻]]は大量のピッチブレンドを分析して新元素[[ラジウム]]と[[ポロニウム]]を1898年に発見した。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 黒川高明『ガラスの技術史』(アグネ技術センター, 2005年7月)
*ガラスと文化 その東西交流」由水常雄著、日本放送出版協会1997年
* 篠原まゆみ「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』収録([[薩摩秀登]]編著, エリア・スタディーズ, 明石書店, 2003年4月)
*世界ガラス工芸史」中山公男監修、美術出版社、2000
* 中山公男監修『世界ガラス工芸史』(美術出版社, 20033月)
* 沼野充義監修『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』(読んで旅する世界の歴史と文化, 新潮社, 1996年2月)
* 長谷川公之「ヨーロッパのガラス工芸」『ガラスの博物誌』収録(シリーズ・グラフ文化史, 朝日新聞社, 1986年7月)
* 由水常雄『ガラス工芸』(桜楓社, 1992年2月)
* 由水常雄『ガラスと文化』(NHKライブラリー, 日本放送出版協会, 1997年9月)
* 渡部雄吉、五木寛之、弦田平八郎『ガラスの楽しみ方』(とんぼの本, 新潮社, 1986年7月)


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2014年5月26日 (月) 02:44時点における版

ボヘミアガラス

ボヘミアガラス(Bohemian glass)は、ガラスを加工するチェコ伝統産業のひとつ。

特徴

緑のソーダガラスを使った安価な日用品から、丹念なカットと掘り込みが施された高級品のクリスタルガラスまで、ボヘミアガラスには様々な種類の製品が存在する[1]ボヘミア(チェコ西部)産の木灰からとれたカリ(炭酸カリウム)を原料とする無色透明のカリガラス、17世紀に考案された掘り込み(エングレーヴィング、グラヴィール彫刻)がボヘミアガラスの特徴である[2]。銅製の回転盤による浮き彫り、研磨、カットに適したカリガラスによって、独特の特徴が確立されている[3]

カリ分を主成分とする木灰は、ナトリウム分を主成分とするソーダ灰よりもガラスの透明度を高め、屈折率を大きくする働きがある[4]。適量の酸化マンガンを加えることで、原料に含まれる鉄分から生じる青緑色がガラスから除かれ、無色透明のガラスが作られる[5]

ボヘミアでガラスの製造が盛んに行われた理由には、ボヘミアはシリカの原料、るつぼに使用する粘土や窯の素材となる岩石にも富んでいたことも挙げられる[6]。また、ヴルタヴァ川(モルダウ川)やエルベ川などのボヘミアを通る河川はガラスの材料と完成した製品の流通路となり、器具の動力となる水車の利用を助けた[6]

歴史

黎明期

ボヘミアにおけるガラス工芸の歴史は、13世紀に遡る[2][3]12世紀のボヘミアでは教会で使用されるステンドグラスが作られていたが、世俗社会との関係は低く、一般向けのガラス容器が作られるのは13世紀に入ってからである[7]

13世紀のボヘミアにはヴェネツィアからガラスの製造技術が伝えられていたが、ガラス産業の規模は小さかった[8]。 中世のボヘミアで生産されたガラスは森林地帯で作られる厚手のヴァルトグラス(森林グラス)が中心で[6][8]、技法は父子相伝のものとなっていた[6]14世紀に入り神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王としてはカレル1世)の治下でプラハがヨーロッパ文化の中心地として繁栄していた時代に、ボヘミアガラスの骨組みが出来上がる[4]。カール4世の時代にボヘミアとヴェネツィアの関係が深まると、徐々にヴェネツィアン・グラスを手本としたガラスが製造されるようになる[8]。しかし、当時のボヘミアガラスは工芸品としては未成熟で、優れた技術はもっぱらステンドグラスの製造に生かされていた[4]。15世紀末までにチェコ・ドイツ国境の森林地帯でガラス工房が発展していき[3]、14世紀末には約20のガラス工房がボヘミアに存在していた[6][9]

ボヘミアガラスの特徴の確立

14世紀末から15世紀初頭のボヘミアでは、主にビザンチングラスの様式を継承したグラスが製造されていた[10]。15世紀半ばにビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡、この頃からヴェネツィアのムラーノ島から抜け出してボヘミアに移住するガラス職人が増え始める[10]。16世紀には約90の工房がボヘミアに存在し、ビザンツ、ヴェネツィア、ドイツといった外国の様式を模したグラスが作られていた[11]17世紀バロック時代まではヴェネツィアがヨーロッパのガラス容器の生産の中心地であり、ボヘミアのガラス製品もヴェネツィアの影響を受けていた[2]

プラハを帝国の首都とした神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は学芸の保護者として知られ、特にガラス工芸を熱心に保護した[4]。17世紀前半にプラハの宝石カッティング職人カスパル・レーマン(Caspar Lehmann)によって、ブロンズ製の回転砥石で宝石をカットするエングレーヴィング技術のガラス細工への応用が考案される[12]。従来のヴェネツィア式のエナメルを使用した絵柄の描画に代わってガラスに直接絵柄が掘り込まれるようになり(グラヴィール彫刻の始まり)[12]、レーマンはルドルフ2世からグラヴィールの独占権を認められた[13]。グラヴィール彫刻はボヘミアとシレジアに普及し、レーマンの弟子ゲオルグ・シュヴァンハルトによってニュルンベルクに伝えられ、ドイツオーストリアにも技術が広まった[14]。それ以降、従来の加工法を結合させ、装飾的なバロック様式が施されたガラス細工がヨーロッパの市場で知られるようになった[3]。プラハの宮廷で流行したボヘミアガラスはハプスブルク家の愛用品となり、ヨーロッパ各国の宮廷で珍重された[5]。レーマンら初期のガラス職人の作品は、ガラスを面ごと削ぎ取ったとも思える大胆なカットと、緻密な掘り込みが共存しており、彼らが培った伝統は後世の最高級品の中にも根付いている[15]

1660年代から1670年代にかけての期間には、ボヘミアでクリスタッロ(ヴェネツィアで開発された無色の薄いソーダガラス)よりもグラヴィール彫刻に適した、輝度の高い硬質のカリガラスが開発された[16]。ガラスの原料の一つとなるソーダ灰について、ボヘミアはジェノヴァからの輸入に依存しており、しばしば供給に不都合をきたした[7]。ソーダ灰の代用品として、シレジアの山地で伐採された木材から作った石灰(ライム)が使われるようになる[17]。1680年代にはミヒャエル・ミューラーによって、木灰を利用した石灰カリガラスが発明される[8][13]。しかし、ミューラーのガラスは石灰の量の調節が難しいために均等な品質の維持に困難をきたし、ガラスの品質が安定するようになるのは18世紀に入ってからである[13]。また、カットとグラヴィールの発展と共に、窯、材料の調合の割合、除冷法にも改良が加えられていった[5]。18世紀末には乳白ガラスが開発され、ドイツ製の磁器を模倣した作品が多く作られた[8]

こうしてカットとグラヴィールというボヘミアガラスの特徴と、ヨーロッパにおけるボヘミアのガラス産業の高い地位が確立し、18世紀にはヴェネツィアのガラス工芸に影響を与えるようになった[14]。18世紀のボヘミアにはグラヴィール彫刻とカットを手掛ける工房が多く稼働していたが、それでも各国からの注文に生産が追い付かず、シレジア地方やドイツのベルリンから職人が招集された[18]。ボヘミアガラスの流行には体系された流通網も重要な役割を果たし、ボヘミアガラスはヨーロッパ、さらにはアメリカに輸出された[3]。ボヘミアガラスの販売店はヨーロッパだけでなく、イズミルカイロベイルートニューヨークなどにも置かれていた。

有色ガラスの開発

三十年戦争後にボヘミアがハプスブルク帝国に編入された後も、ボヘミアのガラス工芸は時代ごとに新たな作風が開拓されていく[14]。18世紀中頃から19世紀前半にかけて続いた戦争はボヘミアのガラス産業に大打撃を与え、ヨーロッパ各国が輸入品に高い関税をかけたためにボヘミアガラスの輸出量は激減する[15]。さらに古典主義時代には、ボヘミアガラスはイギリスの鉛クリスタルガラスの影響を強く受けた[14]。面ごとガラスをカットするイギリス風のダイヤモンド・カットに対抗して、ボヘミアではV字形に掘り込んだ直線の溝を交差させる様式が新たに考案され、V字形の溝が交差して生まれる輝きはボヘミアガラス独自のスタイルとして定着する[8]

19世紀にボヘミアガラスに訪れた危機は、有色ガラスの開発によって克服される[14][8]1832年頃にはフリードリッヒ・エガーマン(ペドジフ・エゲルマン)によって、かつてステンドグラスに使われていたステイニング(酸化銀、酸化銅を使ったガラスの着色法)が再発明される[19]。エガーマンはステイニングを利用して、大理石や木の年輪のような多層の模様をもつリシアリンガラスを開発した。ほかにエガーマンは半貴石を模した瑪瑙ガラス、孔雀石を模したジャスパーグラスを開発し、開発した素材の上にエナメル金彩を描いてボヘミアガラスの新たな境地を開拓した[20]。エガーマンによって発明された有色ガラスの一つであるヒアリスガラスは、濃度の高い赤・黒色のガラスで、イギリスのウェッジウッドから着想を得たと考えられている[8]

19世紀半ばには、ガラス職人クラリクによって様々な色のアラバスターガラスが発明された[21]。有色ガラスを利用した技法の一つには、ガラスの生地に有色ガラスを重ね、カットやグラヴィール彫刻を施していく被せガラスがある[22]。19世紀には輸出用の登録商標として「ボヘミア・クリスタル」という名称が考案され、ブランド・イメージの向上に大きな役割を果たした[23]

19世紀末にはボヘミアガラス独特の特徴は徐々に失われていき、作業工程の機械化が進展していく[8]。こうした趨勢に対して、ボヘミアガラスの伝統と技法を守ろうとする動きが起こり、各地にガラス製造のための教育機関が続々と設立される[8]。1890年代には、ボヘミアガラスにもアール・ヌーヴォーの影響が及んだ[24]。アール・ヌーヴォー期には、ガラスに薬品を塗って虹色の被膜を作り出すラスター彩の技術が再生され、ラスター彩による虹彩ガラスが人気を博した[8]。1903年から1938年まで活動していたウィーン工房はボヘミアやモラヴィアの工房に作業を外注し、ウィーンの簡素なデザインはボヘミアガラスにも影響を与える[25]

1925年にパリで開催されたパリ万国博覧会アール・デコ博覧会)に出品されたヤロスラフ・ホレイックのグラヴィール彫刻は高い評価を受けた[25]

第二次世界大戦後の動向

1948年に、ボヘミアのガラス産業はチェコスロバキア政府によって国有化される。社会主義下のチェコスロバキアでは国策として重工業が優先され、ガラス産業も他の中工業と同じように規模が縮小されようとしていた[26]第二次世界大戦後にプラハ芸術アカデミーの教授職に就いたヨセフ・カプリツキーは、教え子たちに密かに西側諸国の現代美術の知識を伝え、自由な精神と独創性を育て上げた[27]。1957年にミラノで開催されたトリエンナーレに出品された作品はボヘミアガラスの国際的な評価を高め[24]、1958年のブリュッセル万国博覧会にもボヘミアガラスが出展される。チェコのパビリオンにはカプリツキーの指導を受けた若手の作品が並び、彼らの作品は国際的に高い評価を受けた[26]。万博での成功の結果、ガラス産業はチェコスロバキアの政治的プロパガンダの広告塔とされ、手厚い国家援助を受けた[26]

国家によって選抜された芸術家たちは、工場で量産されるガラス製品のデザインや素材の開発を手掛けるとともに、芸術性を追求する創作活動のために工場を利用することもできた。こうした環境は個人規模では不可能な制作活動を可能にし、チェコのガラス芸術は国際的に高い域に達する[26]。社会主義時代のガラス工芸の中心人物であるスタニスラフ・リベンスキーは応用美術アカデミーで後進の育成にあたり、妻のヤロスラヴァ・ブリフトヴァーと共に多くの国家的プロジェクトに着手した。リベンスキーらによる作品の一つに、聖ヴィート大聖堂内の聖ヴァーツラフ礼拝堂の窓が挙げられる。

技法・模様

ボヘミアグラスの製法の一つに、18世紀に考案されたドウボイスチェンカ(複層ガラス、英語で「ゴールド・サンドイッチ」)がある[28]ヘレニズム期から利用されている技法で[29]、密着する相似形の大小のグラスの間に模様を彫刻した金箔や銀箔を挟み込む。1730年代から1750年代にかけて流行したが[29]、19世紀初頭にドウボイスチェンカの技術は消失する[28]

ドウボイスチェンカが流行した18世紀には、黒エナメルや金箔で文様を描くロココ・グラスも考案された[28]。あらかじめ多面カットを施したグラスに単色のシノワズリ文様やロココ文様を描く技法で、無色の素地に文様が浮き出すように見える[28]。ロココ・グラスは19世紀初期まで製造されていたが、ドウボイスチェンカと同様に19世紀中に技術が失われる[28]

脚注

  1. ^ 渡部、五木、弦田『ガラスの楽しみ方』、98頁
  2. ^ a b c 沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、241頁
  3. ^ a b c d e 篠原「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』、296頁
  4. ^ a b c d 由水『ガラス工芸』、50頁
  5. ^ a b c 由水『ガラス工芸』、51頁
  6. ^ a b c d e 黒川『ガラスの技術史』、42頁
  7. ^ a b 由水『ガラス工芸』、49頁
  8. ^ a b c d e f g h i j k 長谷川「ヨーロッパのガラス工芸」『ガラスの博物誌』、45-47頁
  9. ^ 由水『ガラスと文化』、221頁
  10. ^ a b 由水『ガラスと文化』、222頁
  11. ^ 由水『ガラスと文化』、223-225頁
  12. ^ a b 沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、241,243頁
  13. ^ a b c 黒川『ガラスの技術史』、43頁
  14. ^ a b c d e 沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、243頁
  15. ^ a b 由水『ガラス工芸』、52頁 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "yoshimizu1992-52"が異なる内容で複数回定義されています
  16. ^ 中山『世界ガラス工芸史』、90-91頁
  17. ^ 由水『ガラス工芸』、49-50頁
  18. ^ 由水『ガラスと文化』、228頁
  19. ^ 黒川『ガラスの技術史』、22-23,71頁
  20. ^ 由水『ガラスと文化』、231頁
  21. ^ 黒川『ガラスの技術史』、71-72頁
  22. ^ 篠原「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』、297頁
  23. ^ 篠原「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』、295頁
  24. ^ a b 沼野『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』、244頁
  25. ^ a b 中山『世界ガラス工芸史』、147頁
  26. ^ a b c d 篠原「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』、298頁
  27. ^ 中山『世界ガラス工芸史』、152頁
  28. ^ a b c d e 由水『ガラス工芸』、53頁
  29. ^ a b 中山『世界ガラス工芸史』、104頁

参考文献

  • 黒川高明『ガラスの技術史』(アグネ技術センター, 2005年7月)
  • 篠原まゆみ「チェコのガラス」『チェコとスロヴァキアを知るための56章』収録(薩摩秀登編著, エリア・スタディーズ, 明石書店, 2003年4月)
  • 中山公男監修『世界ガラス工芸史』(美術出版社, 2003年3月)
  • 沼野充義監修『中欧 ポーランド・チェコ スロヴァキア・ハンガリー』(読んで旅する世界の歴史と文化, 新潮社, 1996年2月)
  • 長谷川公之「ヨーロッパのガラス工芸」『ガラスの博物誌』収録(シリーズ・グラフ文化史, 朝日新聞社, 1986年7月)
  • 由水常雄『ガラス工芸』(桜楓社, 1992年2月)
  • 由水常雄『ガラスと文化』(NHKライブラリー, 日本放送出版協会, 1997年9月)
  • 渡部雄吉、五木寛之、弦田平八郎『ガラスの楽しみ方』(とんぼの本, 新潮社, 1986年7月)