「アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)」の版間の差分

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'''アンドラーシュ2世'''([[ハンガリー語]]:'''II András''', [[1177年]] - [[1235年]][[10月21日]])は、[[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]の[[国王]](在位[[1205年]] - 1235年)。[[ベラ3世]]子。[[イムレ1世]]の弟。'''エンドレ2世''''''II Endre'''とも呼ばれる
'''アンドラーシュ2世'''({{lang-hu|Jeruzsálemi II András}}、[[1177年]] - [[1235年]][[9月21日]])は、[[ハンガリー王国]][[アールパード朝]]の国王(在位[[1205年]] - 1235年)。ハンガリ王位他に[[クロアチア]]王位も兼任していた在位1205年 - 1235年)。


兄[[イムレ1世]]と甥[[ラースロー3世]]の死後にハンガリー王位を継承し、支持者を獲得するために王国の領土を所領として分け与えた。[[1222年]]に国内の貴族に特権を認める[[金印勅書]]を発布、[[1231年]]には聖職者にとって有利な条項を金印勅書に追加した。
[[1196年]]、父の死後、長兄のイムレ1世が後を継いだことを不服として反乱を起こし、その結果、父の時代に最盛期を迎えた[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の国力を大きく衰退させてしまうこととなった。兄との王位継承争いには敗れたが、[[1204年]]に兄が死去して甥の[[ラースロー3世]]が即位すると、翌年にはその王位を奪って即位した。


== 生涯 ==
即位後は[[ロシア]]方面へ勢力を拡大すべく何度も遠征を行なったが、全て失敗に終わった。[[1217年]]からの[[第5回十字軍]]に参加した時は、[[ヴェネツィア共和国]]と対立して支配下にあった[[ザダル|ザラ]]市を奪われた上、彼自身の統率のまずさから軍を敗退させるという無様さであったといわれている。
=== 幼少期 ===
ハンガリー王ベーラ3世とアグネスの次子として誕生する。[[1182年]]にベーラ3世の意向によってアンドラーシュの兄イムレがハンガリーの若王の戴冠を受け、その時はアンドラーシュが王位を継ぐ可能性は低かった。


[[1188年]]に家臣によって国を追放された[[ハールィチ公国|ガリツィア公国]]の公子{{仮リンク|ウラジーミル2世ヤロスラフ|en|Vladimir II Yaroslavich|label=ウラジーミル}}が援助を求めてハンガリーに逃れた時、ベーラ3世は彼を拘束した。ガリツィアはハンガリー軍によって占領され、アンドラーシュはガリツィアの統治を命じられる。幼少のアンドラーシュは名目上のガリツィアの統治者でしかなく、実際にガリツィアに入国することも無かった。
しかも、このように連年にわたって戦争を行なった結果、ハンガリーの[[財政]]は多大な軍費による出費から大きく逼迫することとなり、アンドラーシュ2世は財政再建のために国民は勿論のこと、貴族層に対しても重税を課すことで解決しようとした。しかし貴族層がアンドラーシュ2世の政策に猛反発した結果、[[1222年]]にアンドラーシュ2世は貴族の免税特権や武力抵抗権を認可する[[金印勅書]]を発布することを余儀なくされ、かえってハンガリー王権の弱体化と貴族層の権力拡大を招く結果となってしまった。


ガリツィアの大貴族たちがハンガリーの支配に対して反乱を起こした時、[[1189年]]にハンガリー軍は一旦勝利を収めたが、ハンガリーから脱出したウラジーミルによってハンガリー軍は放逐された。
また、アンドラーシュ2世は別の財政再建政策として、[[ユダヤ教徒]]の[[銀行]]業者を重用するなどしたが、これが原因で[[1232年]]に[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]から[[破門]]されるという有様であった(以前、兄が教皇の命で異教徒討伐に向かっている最中に対して反乱を起こしていたため、以前から教皇サイドから不信を持たれていた)。


=== 兄イムレ1世への反乱 ===
ハンガリーに最盛期をもたらした父ベーラ3世と違って、あまりにも暗愚なアンドラーシュ2世がハンガリー王となったことは、ハンガリーに大きな混乱と衰退を招くこととなったのである。
[[1196年]]4月23日にベーラ3世が没したとき、ハンガリー王位はアンドラーシュの兄イムレが継承し、アンドラーシュは父が[[十字軍]]に備えて貯めていた軍費を相続した。アンドラーシュはイムレからハンガリー王位を奪う企てに遺産を使い<ref name="erv82">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、82頁</ref>、[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]][[レオポルト6世 (オーストリア公)|レオポルト6世]]に支援を求めた。[[1197年]]12月、アンドラーシュの軍はMacsek近郊でイムレの軍に勝利を収め、[[クロアチア]]と[[ダルマチア]]の支配権はアンドラーシュの元に移った。


[[1198年]]初頭、[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]は、アンドラーシュにベーラ3世の遺志を継いで十字軍に参加することを促した。しかし、アンドラーシュは十字軍に参加せず、近隣の地域に派兵して{{仮リンク|ザクルミア|en|Zachlumia}}を占領した。アンドラーシュはイムレと対立する高位の聖職者と陰謀を企てるが、計画は直前に露見する<ref name="erv82"/>。アンドラーシュの有力な支持者であった{{仮リンク|ヴァーチ|en|Vác}}司教ボレスローは逮捕され、他の支持者も特権を剥奪される。[[1199年]]夏にアンドラーシュはRádの戦いでイムレに敗れ、アンドラーシュはオーストリアに亡命した。最終的に教皇インノケンティウス3世の仲裁によってアンドラーシュとイムレは和睦し、クロアチアとダルマチアの支配権はイムレに返還された。
さらにアンドラーシュ2世の無力さを証明する逸話として、[[1213年]]に王妃ゲルトルードをハンガリーの有力貴族の1人であった[[バーンク・バーン]]に殺害されたが、アンドラーシュ2世はバーンク・バーンの勢力を恐れて、処罰することができなかったとまで言われている。


[[1200年]]ごろ、アンドラーシュは[[メラーノ]]の公女ゲルトルード([[:en:Gertrude of Merania|Gertrude of Merania]])と結婚する。
==子女==

[[1203年]]にアンドラーシュは再び反乱を起こし、ドラーヴァ河畔でイムレの軍と対陣するが、イムレが武装を解いてアンドラーシュの宿営を訪れると、アンドラーシュはただちに降伏した<ref name="erv83">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、83頁</ref>。降伏したアンドラーシュはイムレに逮捕されるが、脱走に成功する。

[[1204年]]8月にイムレの幼い息子[[ラースロー3世|ラースロー]](アンドラーシュの甥)が若王として戴冠されたが、その後にイムレは健康を害する。ハンガリー王位が無事に継承されることを願うイムレは、和解したアンドラーシュに幼いラースローを後見するように命じた。1204年秋にイムレが亡くなった後、アンドラーシュは甥ラースローの摂政としてハンガリーを統治し、イムレがラースローに遺した財産を管理した。しかし、イムレの妻[[コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ|コンスタンサ]]がラースローを連れてオーストリアに亡命したため、アンドラーシュはオーストリアとの戦争の準備を進める。

1205年5月7日にラースローが亡くなり、アンドラーシュがハンガリー王位を継承した。

=== 支持者の獲得と宮廷内の対立 ===
1205年5月29日にアンドラーシュは[[セーケシュフェヘールヴァール]]で[[カロチャ]]大司教ヨハンから戴冠される。

アンドラーシュはイムレ1世以前の王が実施していた国内政策の方針を転換し、修道院、教会、貴族に王領や城を分配した<ref name="mina">南塚信吾『図説ハンガリーの歴史』(ふくろうの本、河出書房新社、2012年3月)、16-17頁</ref><ref name="suzuki83">鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、83頁</ref>。

土地を授与された貴族には子孫への土地相続が無条件に認められ、ハンガリーに大領主層が誕生した<ref name="suzuki83"/>。村、領地、さらには州までも授与したため、国の収入が減少したため、代わりに貨幣の鋳造、鉱山の経営、課税によって収入を補おうと試みた<ref name="mina"/>。この結果、王に忠実な従者と貴族が新たな社会階層を形成し、旧来の大貴族や聖職者と争った<ref name="mina"/>。王に忠誠を誓う層の出現はアンドラーシュの地位を強固にしたが、後に彼らは王権を弱体化させる原因となった<ref name="suzuki83"/>。

また、ゲルトルードはアンドラーシュが遠征でハンガリーを留守にしている時に彼女が連れてきた親族とドイツ系の廷臣を優遇したため、ハンガリー土着の貴族は不満を抱いた<ref name="suzuki83"/>。ドイツ系の廷臣を優遇することを不満に思う貴族の一派が、[[ニカイア帝国]]の宮廷に移っていたアンドラーシュの従兄弟を新たな王に擁立する計画を立てるが、反対派が送った密使はアンドラーシュに逮捕され、計画は未然に防がれた。

アンドラーシュはハンガリーの南東部に居住する[[キプチャク|クマン人]]の襲撃に備えて、[[1211年]]に[[ドイツ騎士団]]に[[トランシルヴァニア]]の{{仮リンク|プルツェンラント|en|Burzenland}}を所領として与える。騎士団は植民活動とクマン人との戦闘に従事したが、ハンガリーの意図から外れて独立した[[領邦]]国家を形成し始める<ref name="yamauchi">山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、154-156頁</ref>。

=== ガリツィアへの軍事干渉 ===
治世の初年、アンドラーシュはガリツィアの一部を占領する。

[[1205年]]にはガリツィアの幼い公子[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダニーロ]]を即位させるため、軍隊を出動させた。派兵の後、アンドラーシュはガリツィアと{{仮リンク|ロドメリア|en|Lodomeria}}に対して「ガリツィアとロドメリアの王」を名乗った。[[1206年]]初頭にダニーロはガリツィアから追放され、アンドラーシュはダニーロと対立する公子ウラジーミルから賄賂を受け取っていたために、ダニーロへの援助を拒んだ。

同1206年にガリツィアへの軍事干渉を再開したアンドラーシュは、ウラジーミルと対立する公子ロマンを支援した。[[1208年]]にアンドラーシュはロマンとガリツィアの貴族の間に起きた争いを利用してガリツィアを占領し、自身の名のもとにガリツィアを統治するように摂政に命じるが、翌[[1209年]]にウラジーミルによってガリツィアを奪回される。

[[1211年]]にアンドラーシュはガリツィアを再占領するためにダニーロを援助し、[[1212年]]にダニーロと敵対する公子{{仮リンク|ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ|en|Mstislav Mstislavich|label=ムスチスラフ}}を攻撃する。間も無くダニーロはガリツィアから放逐され、再びハンガリー宮廷に援助を求めた。しかし、[[1213年]]にアンドラーシュがハンガリーを留守にしている間、[[バーンク・バーン]]をはじめとするハンガリーの貴族が王妃ゲルトルードを暗殺する事件が起きる。ゲルトルード殺害の報告が届くとアンドラーシュは本国に戻らざるを得なくなり、ガリツィアへの軍事干渉を中断した。

帰国後、アンドラーシュは反乱の首謀者のみを処刑して他の参加者は罰しなかったが、王子[[ベーラ4世|ベーラ]]はアンドラーシュが下した処分に不満を表した。[[1214年]]、アンドラーシュはベーラをハンガリーの若王として戴冠させる。

同1214年の夏にアンドラーシュは[[ポーランド]][[ポーランド君主一覧|大公]][[レシェク1世]]と会見し、両国間でのガリツィアの分割についての条約を締結する。ハンガリー・ポーランド連合軍はガリツィアの一部を占領し、占領地はアンドラーシュの末子カールマーンに与えられた。しかし、アンドラーシュはレシェクが公子ムスチスラフと同盟していたためポーランドに領地を割譲しようとせず、レシェクとムスチスラフはハンガリー軍をガリツィアから追放した。結局、ハンガリーはポーランドと同盟を結び直し、アンドラーシュの王子をガリツィアの公とすることが認められた。

=== 第5回十字軍 ===
[[Image:Andrew II on Holy Land.jpg|thumb|200px|right|第5回十字軍に参加するアンドラーシュ2世]]
ガリツィアへの干渉と並行して、アンドラーシュはハンガリー南部の国境地帯を巡る[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]との領土問題の解決に着手した。1214年にハンガリー軍はブルガリア領の[[ベオグラード]]と[[ブラニチェヴォ郡|ブラニチェヴォ]]を占領する。同年にローマ教皇の仲介でアンドラーシュはブルガリアと和睦し<ref>I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア 1』(寺島憲治訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1985年8月)、91頁</ref>、後年に[[ヴィディン]]でブルガリア皇帝[[ボリル]]に対する反乱が起きた時には反乱の鎮圧を支援した<ref>尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)、719頁</ref>。

[[1215年]]2月、アンドラーシュは[[ラテン帝国]]皇帝[[アンリ・ド・エノー]]の姪ヨランドと結婚した。翌[[1216年]]にアンリが没した時、アンドラーシュはラテン帝国の帝位に就こうと試み、教皇の歓心を得るために十字軍への参加を決意した<ref name="erv83"/>。

ハンガリーの兵士を[[パレスチナ]]に送るため、[[ヴェネツィア共和国]]と協定を交わし、ハンガリーが領有するザラ([[ザダル]])の支配権の譲渡と引き換えに港湾の利用権を得る<ref name="erv84">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、84頁</ref>。[[1217年]]8月23日、アンドラーシュが率いるハンガリー軍は[[スプリト]]で中東行きの船に乗り込み、10月9日に一行は[[キプロス島]]に上陸し、さらに[[アッコ|アッコン]]に向かって出航した。11月10日、[[ヨルダン川]]沿岸の[[ベツサイダ]]でハンガリー軍は[[エジプト]]の[[アイユーブ朝]]の[[スルターン]]・[[アル・アーディル]]の軍に勝利を収め、敗れたアイユーブ軍は城砦と町に退却した。しかし、[[投石器]]と弩がアンドラーシュの元に期日通りに届かず、ハンガリー軍はアイユーブ軍が立て籠もる[[レバノン]]と[[タボル山]]を攻めあぐねた。

[[1218年]]1月にアンドラーシュはハンガリーに帰国する<ref>エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』(川成洋、太田美智子、太田直也訳, 東洋書林, 2006年11月)、409頁</ref>。教皇[[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]はアンドラーシュの働きに満足せず、アンドラーシュのラテン帝位の獲得は失敗に終わる<ref>エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、83-84頁</ref>。結局、教皇はヨランドの父である{{仮リンク|ピエール・ド・クルトネー|en|Peter II of Courtenay}}をラテン皇帝に擁立した。

帰国途上で[[キリキア・アルメニア王国|アルメニア]]王{{仮リンク|レヴォン2世|en|Leo I, King of Armenia}}、[[ニカイア帝国|ニカイア]]皇帝[[テオドロス1世ラスカリス|テオドロス1世]]、ブルガリア皇帝[[イヴァン・アセン2世]]と交渉し、婚姻を取り決めた。[[ニカイア]]滞在中、アンドラーシュはニカイアの宮廷に移っていた従兄弟に命を狙われるが、暗殺は未然に防がれた。

=== 金印勅書 ===
[[Image:Aranybulla1.jpg|thumb|200px|right|1222年に出された金印勅書]]
アンドラーシュが帰国したとき、留守にしていたハンガリーは混乱に陥っていた<ref name="erv84"/>。摂政として国政を監督していたエステルゴム大司教ジョンはハンガリーから離れており、国庫の蓄えは底をついていた。

1219年8月、ガリツィアのカールマーンは[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド]]公となったガリツィアのムスチスラフによって領地から追放される。ハンガリーはやむなくノヴゴロドと和解し、アンドラーシュはムスチスラフの娘を末子アンドラーシュの妻に迎え入れた。

アンドラーシュは外征による浪費を埋め合わせるため、性急な財政改革を実施したが、中小貴族と一部の大貴族の不満が高まった<ref name="chuko">井上浩一、栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』(世界の歴史11、中央公論社、1998年2月)、371頁</ref>。収入を増やすために臨時の税を制定し、金の支払いと引き換えにユダヤ人とイスラム教徒に貨幣の鋳造・税の徴収・鉱山の経営を認めたが、アンドラーシュの支持はより低下する<ref name="erv85">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、85頁</ref>。また、財政改革の中で悪貨が鋳造され、アンドラーシュと敵対する貴族は[[スラヴォニア]]の統治を命じられていた王子ベーラを擁立して反乱を起こす動きを見せていた<ref name="suzuki83"/>。

[[1222年]]初頭、アンドラーシュに不満を抱く廷臣と貴族は大挙して宮廷に押し寄せ、アンドラーシュは彼らの求めに応じて金印勅書(アラニュ・ブラ)を発布した<ref name="erv85">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、85頁</ref>。金印勅書によって廷臣と大貴族の権利が拡張され、教会の利益が制限された<ref name="erv85"/>。この金印勅書は、しばしば同時代の[[イングランド王国]]で制定された[[マグナ・カルタ]]のハンガリー版と例えられる<ref name="mina"/><ref name="chuko"/>。しかし、ハンガリーの王たちが勅書の条項を遵守することは無かった<ref>鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、84頁</ref>

[[1224年]]には[[トランシルヴァニア・ザクセン人]]に特権を保証する自治法(Diploma Andreanum)を施行した。同年、ドイツ騎士団長{{仮リンク|ヘルマン・フォン・ザルツァ|en|Hermann von Salza}}は教皇ホノリウス3世からプルツェンラントを教皇の直轄領とする許可を得た。騎士団の自立はハンガリーにとって無視できないものとなり、アンドラーシュは騎士団から特権を剥奪してハンガリーからの撤退を迫った<ref name="yamauchi"/>。[[1225年]]にドイツ騎士団はプルツェンラントから撤退し、同年の冬に[[ポーランド]]に移動した。

=== 息子との不和 ===
ハンガリーの若王に戴冠されたベーラは、教皇ホノリウス3世の認可の元で、アンドラーシュが支持者に与えた王領の回収にとりかかろうとした。アンドラーシュはベーラの方針に反対し、ベーラを[[トランシルヴァニア]]に移してカールマーンにベーラの旧領を与えた。

[[1226年]]の半ばにアンドラーシュはガリツィアの君主に据えていた末子アンドラーシュの要請に応じて、軍隊を進める。ハンガリー軍はムスチスラフに敗れるが、最終的にムスチスラフはガリツィアの支配権をハンガリーに譲渡した。[[1228年]]、アンドラーシュの2人の息子は王領の回復を試み、ゲルトルードの暗殺に参加した貴族から土地を没収するようアンドラーシュを説得した。

[[1229年]]に末子のアンドラーシュはダニーロによってガリツィアを追放され、[[1230年]]からオーストリア公[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]がハンガリー西部への攻撃を開始する。

=== ベレグ協定 ===
1215年の[[第4ラテラン公会議]]で取り決められた教令とは逆に、アンドラーシュは宮廷で多くのイスラム教徒とユダヤ人の金融業者を雇用した。そのため、教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]は彼らの解雇をアンドラーシュに要求した。[[1231年]]にアンドラーシュは金印勅書の改訂を実施し、教会に不利な条文が削除され、エステルゴム大司教には協定を破った国王を[[破門]]する権限が付与された
<ref name="erv86">エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、86頁</ref>。アンドラーシュはなおも異教徒の金融業者の雇用を続け、教会の塩の専売権を制限したため、[[1232年]]初頭にエステルゴム大司教ロベルトによって破門される<ref name="erv86"/>。アンドラーシュは教会の要求を受け入れなければならず、やむなくベレグ協定を締結した<ref name="erv86"/>。

=== 晩年 ===
1234年5月、既にヨランドを亡くしていたアンドラーシュは、イタリアの[[エステ家]]から30歳年下のベアトリーチェを妃に迎え入れた。ベアトリーチェとの再婚は、彼と息子たちの関係を悪化させる。

1234年夏、ベレグ協定を遵守しないアンドラーシュはボスニア司教ジョンから破門を宣告され、アンドラーシュは破門が越権行為にあたると教皇に訴えた。

同年秋にアンドラーシュ王子の居城がダニーロに包囲され、アンドラーシュ王子は包囲中に陣没する。そのため、ガリツィアにおけるハンガリーの支配権は失われた。1235年初頭にアンドラーシュはオーストリアへの攻撃を計画するが、やむなくフリードリヒ2世と和約を結んだ。

アンドラーシュは死の直前に教皇から破門を解除され、さらにハンガリー王とその一族には教皇の許可なくして破門を宣告できないと約束された。1235年4月23日にアンドラーシュは没する。

== 子女 ==
[[Image:Budapest Heroes square II Anras.jpg|thumb|200px|right|[[ブダペスト]]の[[英雄広場]]のアンドラーシュ2世像]]
アンドラーシュ2世は最初の妃、[[メラーノ]]公女ゲルトルードとの間に3男2女をもうけた。
アンドラーシュ2世は最初の妃、[[メラーノ]]公女ゲルトルードとの間に3男2女をもうけた。
* マーリア(1203年 - 1221年) - [[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア]]皇帝[[イヴァン・アセン2世]]の妃。
* マーリア(1203年 - 1221年) - [[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア]]皇帝[[イヴァン・アセン2世]]の妃。
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第2の妃、[[ラテン帝国|ラテン皇帝]][[ピエール・ド・クルトネー]]の娘ヨランドとの間には1女をもうけた。
第2の妃、[[ラテン帝国|ラテン皇帝]][[ピエール・ド・クルトネー]]の娘ヨランドとの間には1女をもうけた。
* [[ビオランテ・デ・ウングリア|ヨラーン]](1215年 - 1251年) - [[アラゴン王国|アラゴン]]王[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]の妃
* [[ビオランテ・デ・ウングリア|ヨラーン]](1215年 - 1251年) - [[アラゴン王国|アラゴン]]王[[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]の妃
第3の妃、[[エステ家]]の[[フェラーラ]]公アルドブランディーノ1世の娘ベアトリーチェは、ンド2世の死後に1男を生んだ。
第3の妃、[[エステ家]]の[[フェラーラ]]公アルドブランディーノ1世の娘ベアトリーチェは、ンドラーシュ2世の死後に1男を生んだ。
* イシュトヴァーン(1236年 - 1271年) - [[スラヴォニア]]公。[[アンドラーシュ3世]]の父。
* イシュトヴァーン(1236年 - 1271年) - [[スラヴォニア]]公。[[アンドラーシュ3世]]の父。

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== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* 鈴木広和「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』収録(岩波講座世界歴史8、岩波書店、1998年3月)
* 山内進『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社選書メチエ, 講談社, 1997年9月)、154-156頁
* パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史 1』増補版(田代文雄、鹿島正裕訳、恒文社、1990年2月)
* Kristó, Gyula – Makk, Ferenc: ''Az Árpád-ház uralkodói'' (IPC Könyvek, 1996)
* ''Korai Magyar Történeti Lexikon (9–14. század)'', főszerkesztő: Kristó, Gyula, szerkesztők: Engel, Pál és Makk, Ferenc (Akadémiai Kiadó, Budapest, 1994)
* ''Magyarország Történeti Kronológiája I. – A kezdetektől 1526-ig'', főszerkesztő: Benda, Kálmán (Akadémiai Kiadó, Budapest, 1981)
* {{1911}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Andrew II of Hungary}}
* [[ドイツ騎士団]]
* [[ドイツ騎士団]]
* [[ライモンダ]]
* [[ライモンダ]]

2013年5月19日 (日) 11:20時点における版

アンドラーシュ2世
II András
ハンガリー王
アンドラーシュ2世の肖像画(14世紀)
在位 1205年5月7日 - 1235年4月23日
戴冠式 1205年5月29日セーケシュフェヘールヴァール

出生 1177年
死去 1235年10月21日
配偶者 ゲルトルード・ディ・メラニア
  ヨランド・ド・クルトネー
  ベアトリーチェ・デステ
子女 後述
家名 アールパード家
王朝 アールパード朝
父親 ベーラ3世
母親 アニェス・ド・シャティヨン
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アンドラーシュ2世ハンガリー語: Jeruzsálemi II András1177年 - 1235年9月21日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位1205年 - 1235年)。ハンガリー王位の他にクロアチア王位も兼任していた(在位1205年 - 1235年)。

イムレ1世と甥ラースロー3世の死後にハンガリー王位を継承し、支持者を獲得するために王国の領土を所領として分け与えた。1222年に国内の貴族に特権を認める金印勅書を発布、1231年には聖職者にとって有利な条項を金印勅書に追加した。

生涯

幼少期

ハンガリー王ベーラ3世とアグネスの次子として誕生する。1182年にベーラ3世の意向によってアンドラーシュの兄イムレがハンガリーの若王の戴冠を受け、その時はアンドラーシュが王位を継ぐ可能性は低かった。

1188年に家臣によって国を追放されたガリツィア公国の公子ウラジーミル英語版が援助を求めてハンガリーに逃れた時、ベーラ3世は彼を拘束した。ガリツィアはハンガリー軍によって占領され、アンドラーシュはガリツィアの統治を命じられる。幼少のアンドラーシュは名目上のガリツィアの統治者でしかなく、実際にガリツィアに入国することも無かった。

ガリツィアの大貴族たちがハンガリーの支配に対して反乱を起こした時、1189年にハンガリー軍は一旦勝利を収めたが、ハンガリーから脱出したウラジーミルによってハンガリー軍は放逐された。

兄イムレ1世への反乱

1196年4月23日にベーラ3世が没したとき、ハンガリー王位はアンドラーシュの兄イムレが継承し、アンドラーシュは父が十字軍に備えて貯めていた軍費を相続した。アンドラーシュはイムレからハンガリー王位を奪う企てに遺産を使い[1]オーストリア公レオポルト6世に支援を求めた。1197年12月、アンドラーシュの軍はMacsek近郊でイムレの軍に勝利を収め、クロアチアダルマチアの支配権はアンドラーシュの元に移った。

1198年初頭、ローマ教皇インノケンティウス3世は、アンドラーシュにベーラ3世の遺志を継いで十字軍に参加することを促した。しかし、アンドラーシュは十字軍に参加せず、近隣の地域に派兵してザクルミア英語版を占領した。アンドラーシュはイムレと対立する高位の聖職者と陰謀を企てるが、計画は直前に露見する[1]。アンドラーシュの有力な支持者であったヴァーチ司教ボレスローは逮捕され、他の支持者も特権を剥奪される。1199年夏にアンドラーシュはRádの戦いでイムレに敗れ、アンドラーシュはオーストリアに亡命した。最終的に教皇インノケンティウス3世の仲裁によってアンドラーシュとイムレは和睦し、クロアチアとダルマチアの支配権はイムレに返還された。

1200年ごろ、アンドラーシュはメラーノの公女ゲルトルード(Gertrude of Merania)と結婚する。

1203年にアンドラーシュは再び反乱を起こし、ドラーヴァ河畔でイムレの軍と対陣するが、イムレが武装を解いてアンドラーシュの宿営を訪れると、アンドラーシュはただちに降伏した[2]。降伏したアンドラーシュはイムレに逮捕されるが、脱走に成功する。

1204年8月にイムレの幼い息子ラースロー(アンドラーシュの甥)が若王として戴冠されたが、その後にイムレは健康を害する。ハンガリー王位が無事に継承されることを願うイムレは、和解したアンドラーシュに幼いラースローを後見するように命じた。1204年秋にイムレが亡くなった後、アンドラーシュは甥ラースローの摂政としてハンガリーを統治し、イムレがラースローに遺した財産を管理した。しかし、イムレの妻コンスタンサがラースローを連れてオーストリアに亡命したため、アンドラーシュはオーストリアとの戦争の準備を進める。

1205年5月7日にラースローが亡くなり、アンドラーシュがハンガリー王位を継承した。

支持者の獲得と宮廷内の対立

1205年5月29日にアンドラーシュはセーケシュフェヘールヴァールカロチャ大司教ヨハンから戴冠される。

アンドラーシュはイムレ1世以前の王が実施していた国内政策の方針を転換し、修道院、教会、貴族に王領や城を分配した[3][4]

土地を授与された貴族には子孫への土地相続が無条件に認められ、ハンガリーに大領主層が誕生した[4]。村、領地、さらには州までも授与したため、国の収入が減少したため、代わりに貨幣の鋳造、鉱山の経営、課税によって収入を補おうと試みた[3]。この結果、王に忠実な従者と貴族が新たな社会階層を形成し、旧来の大貴族や聖職者と争った[3]。王に忠誠を誓う層の出現はアンドラーシュの地位を強固にしたが、後に彼らは王権を弱体化させる原因となった[4]

また、ゲルトルードはアンドラーシュが遠征でハンガリーを留守にしている時に彼女が連れてきた親族とドイツ系の廷臣を優遇したため、ハンガリー土着の貴族は不満を抱いた[4]。ドイツ系の廷臣を優遇することを不満に思う貴族の一派が、ニカイア帝国の宮廷に移っていたアンドラーシュの従兄弟を新たな王に擁立する計画を立てるが、反対派が送った密使はアンドラーシュに逮捕され、計画は未然に防がれた。

アンドラーシュはハンガリーの南東部に居住するクマン人の襲撃に備えて、1211年ドイツ騎士団トランシルヴァニアプルツェンラント英語版を所領として与える。騎士団は植民活動とクマン人との戦闘に従事したが、ハンガリーの意図から外れて独立した領邦国家を形成し始める[5]

ガリツィアへの軍事干渉

治世の初年、アンドラーシュはガリツィアの一部を占領する。

1205年にはガリツィアの幼い公子ダニーロを即位させるため、軍隊を出動させた。派兵の後、アンドラーシュはガリツィアとロドメリアに対して「ガリツィアとロドメリアの王」を名乗った。1206年初頭にダニーロはガリツィアから追放され、アンドラーシュはダニーロと対立する公子ウラジーミルから賄賂を受け取っていたために、ダニーロへの援助を拒んだ。

同1206年にガリツィアへの軍事干渉を再開したアンドラーシュは、ウラジーミルと対立する公子ロマンを支援した。1208年にアンドラーシュはロマンとガリツィアの貴族の間に起きた争いを利用してガリツィアを占領し、自身の名のもとにガリツィアを統治するように摂政に命じるが、翌1209年にウラジーミルによってガリツィアを奪回される。

1211年にアンドラーシュはガリツィアを再占領するためにダニーロを援助し、1212年にダニーロと敵対する公子ムスチスラフを攻撃する。間も無くダニーロはガリツィアから放逐され、再びハンガリー宮廷に援助を求めた。しかし、1213年にアンドラーシュがハンガリーを留守にしている間、バーンク・バーンをはじめとするハンガリーの貴族が王妃ゲルトルードを暗殺する事件が起きる。ゲルトルード殺害の報告が届くとアンドラーシュは本国に戻らざるを得なくなり、ガリツィアへの軍事干渉を中断した。

帰国後、アンドラーシュは反乱の首謀者のみを処刑して他の参加者は罰しなかったが、王子ベーラはアンドラーシュが下した処分に不満を表した。1214年、アンドラーシュはベーラをハンガリーの若王として戴冠させる。

同1214年の夏にアンドラーシュはポーランド大公レシェク1世と会見し、両国間でのガリツィアの分割についての条約を締結する。ハンガリー・ポーランド連合軍はガリツィアの一部を占領し、占領地はアンドラーシュの末子カールマーンに与えられた。しかし、アンドラーシュはレシェクが公子ムスチスラフと同盟していたためポーランドに領地を割譲しようとせず、レシェクとムスチスラフはハンガリー軍をガリツィアから追放した。結局、ハンガリーはポーランドと同盟を結び直し、アンドラーシュの王子をガリツィアの公とすることが認められた。

第5回十字軍

第5回十字軍に参加するアンドラーシュ2世

ガリツィアへの干渉と並行して、アンドラーシュはハンガリー南部の国境地帯を巡るブルガリア帝国との領土問題の解決に着手した。1214年にハンガリー軍はブルガリア領のベオグラードブラニチェヴォを占領する。同年にローマ教皇の仲介でアンドラーシュはブルガリアと和睦し[6]、後年にヴィディンでブルガリア皇帝ボリルに対する反乱が起きた時には反乱の鎮圧を支援した[7]

1215年2月、アンドラーシュはラテン帝国皇帝アンリ・ド・エノーの姪ヨランドと結婚した。翌1216年にアンリが没した時、アンドラーシュはラテン帝国の帝位に就こうと試み、教皇の歓心を得るために十字軍への参加を決意した[2]

ハンガリーの兵士をパレスチナに送るため、ヴェネツィア共和国と協定を交わし、ハンガリーが領有するザラ(ザダル)の支配権の譲渡と引き換えに港湾の利用権を得る[8]1217年8月23日、アンドラーシュが率いるハンガリー軍はスプリトで中東行きの船に乗り込み、10月9日に一行はキプロス島に上陸し、さらにアッコンに向かって出航した。11月10日、ヨルダン川沿岸のベツサイダでハンガリー軍はエジプトアイユーブ朝スルターンアル・アーディルの軍に勝利を収め、敗れたアイユーブ軍は城砦と町に退却した。しかし、投石器と弩がアンドラーシュの元に期日通りに届かず、ハンガリー軍はアイユーブ軍が立て籠もるレバノンタボル山を攻めあぐねた。

1218年1月にアンドラーシュはハンガリーに帰国する[9]。教皇ホノリウス3世はアンドラーシュの働きに満足せず、アンドラーシュのラテン帝位の獲得は失敗に終わる[10]。結局、教皇はヨランドの父であるピエール・ド・クルトネーをラテン皇帝に擁立した。

帰国途上でアルメニアレヴォン2世英語版ニカイア皇帝テオドロス1世、ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世と交渉し、婚姻を取り決めた。ニカイア滞在中、アンドラーシュはニカイアの宮廷に移っていた従兄弟に命を狙われるが、暗殺は未然に防がれた。

金印勅書

1222年に出された金印勅書

アンドラーシュが帰国したとき、留守にしていたハンガリーは混乱に陥っていた[8]。摂政として国政を監督していたエステルゴム大司教ジョンはハンガリーから離れており、国庫の蓄えは底をついていた。

1219年8月、ガリツィアのカールマーンはノヴゴロド公となったガリツィアのムスチスラフによって領地から追放される。ハンガリーはやむなくノヴゴロドと和解し、アンドラーシュはムスチスラフの娘を末子アンドラーシュの妻に迎え入れた。

アンドラーシュは外征による浪費を埋め合わせるため、性急な財政改革を実施したが、中小貴族と一部の大貴族の不満が高まった[11]。収入を増やすために臨時の税を制定し、金の支払いと引き換えにユダヤ人とイスラム教徒に貨幣の鋳造・税の徴収・鉱山の経営を認めたが、アンドラーシュの支持はより低下する[12]。また、財政改革の中で悪貨が鋳造され、アンドラーシュと敵対する貴族はスラヴォニアの統治を命じられていた王子ベーラを擁立して反乱を起こす動きを見せていた[4]

1222年初頭、アンドラーシュに不満を抱く廷臣と貴族は大挙して宮廷に押し寄せ、アンドラーシュは彼らの求めに応じて金印勅書(アラニュ・ブラ)を発布した[12]。金印勅書によって廷臣と大貴族の権利が拡張され、教会の利益が制限された[12]。この金印勅書は、しばしば同時代のイングランド王国で制定されたマグナ・カルタのハンガリー版と例えられる[3][11]。しかし、ハンガリーの王たちが勅書の条項を遵守することは無かった[13]

1224年にはトランシルヴァニア・ザクセン人に特権を保証する自治法(Diploma Andreanum)を施行した。同年、ドイツ騎士団長ヘルマン・フォン・ザルツァは教皇ホノリウス3世からプルツェンラントを教皇の直轄領とする許可を得た。騎士団の自立はハンガリーにとって無視できないものとなり、アンドラーシュは騎士団から特権を剥奪してハンガリーからの撤退を迫った[5]1225年にドイツ騎士団はプルツェンラントから撤退し、同年の冬にポーランドに移動した。

息子との不和

ハンガリーの若王に戴冠されたベーラは、教皇ホノリウス3世の認可の元で、アンドラーシュが支持者に与えた王領の回収にとりかかろうとした。アンドラーシュはベーラの方針に反対し、ベーラをトランシルヴァニアに移してカールマーンにベーラの旧領を与えた。

1226年の半ばにアンドラーシュはガリツィアの君主に据えていた末子アンドラーシュの要請に応じて、軍隊を進める。ハンガリー軍はムスチスラフに敗れるが、最終的にムスチスラフはガリツィアの支配権をハンガリーに譲渡した。1228年、アンドラーシュの2人の息子は王領の回復を試み、ゲルトルードの暗殺に参加した貴族から土地を没収するようアンドラーシュを説得した。

1229年に末子のアンドラーシュはダニーロによってガリツィアを追放され、1230年からオーストリア公フリードリヒ2世がハンガリー西部への攻撃を開始する。

ベレグ協定

1215年の第4ラテラン公会議で取り決められた教令とは逆に、アンドラーシュは宮廷で多くのイスラム教徒とユダヤ人の金融業者を雇用した。そのため、教皇グレゴリウス9世は彼らの解雇をアンドラーシュに要求した。1231年にアンドラーシュは金印勅書の改訂を実施し、教会に不利な条文が削除され、エステルゴム大司教には協定を破った国王を破門する権限が付与された [14]。アンドラーシュはなおも異教徒の金融業者の雇用を続け、教会の塩の専売権を制限したため、1232年初頭にエステルゴム大司教ロベルトによって破門される[14]。アンドラーシュは教会の要求を受け入れなければならず、やむなくベレグ協定を締結した[14]

晩年

1234年5月、既にヨランドを亡くしていたアンドラーシュは、イタリアのエステ家から30歳年下のベアトリーチェを妃に迎え入れた。ベアトリーチェとの再婚は、彼と息子たちの関係を悪化させる。

1234年夏、ベレグ協定を遵守しないアンドラーシュはボスニア司教ジョンから破門を宣告され、アンドラーシュは破門が越権行為にあたると教皇に訴えた。

同年秋にアンドラーシュ王子の居城がダニーロに包囲され、アンドラーシュ王子は包囲中に陣没する。そのため、ガリツィアにおけるハンガリーの支配権は失われた。1235年初頭にアンドラーシュはオーストリアへの攻撃を計画するが、やむなくフリードリヒ2世と和約を結んだ。

アンドラーシュは死の直前に教皇から破門を解除され、さらにハンガリー王とその一族には教皇の許可なくして破門を宣告できないと約束された。1235年4月23日にアンドラーシュは没する。

子女

ブダペスト英雄広場のアンドラーシュ2世像

アンドラーシュ2世は最初の妃、メラーノ公女ゲルトルードとの間に3男2女をもうけた。

第2の妃、ラテン皇帝ピエール・ド・クルトネーの娘ヨランドとの間には1女をもうけた。

第3の妃、エステ家フェラーラ公アルドブランディーノ1世の娘ベアトリーチェは、アンドラーシュ2世の死後に1男を生んだ。

脚注

  1. ^ a b エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、82頁
  2. ^ a b エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、83頁
  3. ^ a b c d 南塚信吾『図説ハンガリーの歴史』(ふくろうの本、河出書房新社、2012年3月)、16-17頁
  4. ^ a b c d e 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、83頁
  5. ^ a b 山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、154-156頁
  6. ^ I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア 1』(寺島憲治訳, 世界の教科書=歴史, ほるぷ出版, 1985年8月)、91頁
  7. ^ 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)、719頁
  8. ^ a b エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、84頁
  9. ^ エリザベス・ハラム『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』(川成洋、太田美智子、太田直也訳, 東洋書林, 2006年11月)、409頁
  10. ^ エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、83-84頁
  11. ^ a b 井上浩一、栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』(世界の歴史11、中央公論社、1998年2月)、371頁
  12. ^ a b c エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、85頁
  13. ^ 鈴木「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』、84頁
  14. ^ a b c エルヴィン『ハンガリー史 1』増補版、86頁

参考文献

  • 鈴木広和「ハンガリー王国の再編」『ヨーロッパの成長 11-15世紀』収録(岩波講座世界歴史8、岩波書店、1998年3月)
  • 山内進『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社選書メチエ, 講談社, 1997年9月)、154-156頁
  • パムレーニ・エルヴィン編『ハンガリー史 1』増補版(田代文雄、鹿島正裕訳、恒文社、1990年2月)
  • Kristó, Gyula – Makk, Ferenc: Az Árpád-ház uralkodói (IPC Könyvek, 1996)
  • Korai Magyar Történeti Lexikon (9–14. század), főszerkesztő: Kristó, Gyula, szerkesztők: Engel, Pál és Makk, Ferenc (Akadémiai Kiadó, Budapest, 1994)
  • Magyarország Történeti Kronológiája I. – A kezdetektől 1526-ig, főszerkesztő: Benda, Kálmán (Akadémiai Kiadó, Budapest, 1981)
  • パブリックドメイン この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)

関連項目

先代
ラースロー3世
ハンガリー王
1205年 - 1235年
次代
ベーラ4世