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{{Otheruses||[[横溝正史]]の同名小説|金田一耕助}}
{{Otheruses||[[横溝正史]]の同名小説|金田一耕助}}{{Portal|文学}}
[[File:Пушкинская 74 Пушкин Дама граффити.JPG|thumb|300px|プーシキンとスペードの女王(建物に直接描かれている ハリコフ)]]
{{Portal|文学}}
『'''スペードの女王'''』([[ロシア語]]:''{{lang|ru|Пиковая дама}}'')は、[[ロシア]]の国民的作家[[アレクサンドル・プーシキン]]の[[短編小説]]。[[1834年]]に雑誌「読書文庫」に発表され、すぐさま大変な人気を博した{{#tag:ref|執筆は1833年の終わりごろとされる<ref>笠間 1982年 pp..6-7</ref>|group="n"}}。『大尉の娘』とも比せられるプーシキンの代表的な[[散文]]作品であり{{#tag:ref|しかし発表当時は新奇なストーリーばかりが注目され、文学的な達成とみなされるまでには時間を要した<ref>森田 2007年 p.225</ref>|group="n"}}、引き締まった文体と[[E.T.A.ホフマン|ホフマン]]を思わせる幻想的な雰囲気に満ちた格調高い名作<ref>神西清「プーシキンと作品」『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.288</ref>。また1930年前後の<ref name="笠間1"/>幻想と現実とが交差する都市[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]を舞台にした「ペテルブルクもの」に連なり<ref>神西清「短篇6種の発生について」『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.247</ref>、長編小説『[[未成年 (小説)|未成年]]』における〔スペードの女王の主人公〕「ゲルマンは巨大な人物だ。異常な、まったくペテルブルグ的な典型だ―ペテルブルグ時代の典型だ」という言葉のとおり、[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]がこの作品を激賞したことは有名である<ref>神西 1967年 p.256</ref>。
『'''スペードの女王'''』([[ロシア語]]:''{{lang|ru|Пиковая дама}}'')は、[[1835年]]に[[ロシア]]の作家[[アレクサンドル・プーシキン]]が書いた[[短編小説]]。[[散文]]におけるプーシキン後期の代表作のひとつ。[[日本]]では、[[神西清]]による名訳で知られる。


その平民出身の主人公ゲルマンは、大金を求めて人知の限りを尽くすが、愛と友情とを知らぬまま[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]のごとき野望を持てあまし、ついには発狂して全てを失ってしまう。神西清はこの作品にプーシキン自身の内面とも通じ合う「悲劇」を見いだしている<ref>神西 1967年 p.248</ref>。
[[1890年]]にこれを元に[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]が同名の[[オペラ]]を作曲している。


[[1916年]]、[[1987年]]に映画化された。また、[[宝塚歌劇団]]でも2舞台化され
[[1890年]]には本作を元に[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]が[[:en:The Queen of Spades (opera)|同名のオペラ]]を作曲している。また[[1916年]]、[[1987年]]に映画化された。[[日本]]では[[神西清]]による名訳で知られ、[[宝塚歌劇団]]でも2度の舞台化されている


==関連図書==
==あらすじ==
[[File:Pushkin Alexander, self portret, 1820s.jpg|left|thumb|180px|アレクサンドル・プーシキン(自画像)]]
*スペードの女王([[1967年]]、ISBN 4003260422)
工兵士官であるゲルマンは、騎兵士官トムスキイの家で連夜開かれるカルタ勝負を熱心に見守りはするが、決して自分では金を賭けようとはしない。しかしトムスキイに言わせれば、ゲルマンよりも自分の祖母アンナ・フェドトブナ伯爵夫人が賭けをしないことのほうが奇妙なのだという。なんでも伯爵夫人はかつてカルタで散々に負けたのだが、ある人から必勝の手を教わり、失ったはずの大金を取り戻したことがあるのだ。さらに同じように大負けした青年を哀れに思い、その策を授けて勝たせてやったというのである。それを聞いたゲルマンは心を躍らせたが、同時に自分にとっての必勝の手は節度なのだと思い直す。
*悪魔のトランプ占い([[1986年]]、ISBN 4591022994)

**ポプラ社文庫から発刊された児童向けの短編集。[[渡辺節子]]訳による「スペードの女王」収録。
{{quotation|……所であの話だが、一体あれは本当なのかな。いやいや、倹約、節制、勤勉、これが俺の三枚の勝ち札だ。これこそ俺の身代を築き上げるどころか七層倍にもして、安楽と独立を齎すものなのだ|神西清訳『スペードの女王』岩波文庫、1967年 p.26}}

しかし思索にふけりながら歩き、ふと顔を上げた先は伯爵夫人の屋敷だった。ゲルマンは覚悟を決める。伯爵夫人にいいように使われるみじめな娘リザヴェータをかどわかし、逢い引きの風を装って館に忍び込み、伯爵夫人の寝室に滑り落ちた。ゲルマンは勝つための手を自分にも教えろと迫るが、しかし伯爵夫人は「あれは笑談だった」と言ったぎり無言のままであった。ついにゲルマンは懐から拳銃をとりだして突きつける、と伯爵夫人は恐怖に戦き、そのままこと切れた。

リザヴェータの手引で館を脱出し、その後の伯爵夫人の葬式にも顔を出したゲルマンはある夜にたまさか目を覚ました。誰かが訪ねてきたと気をやる彼の枕元に、あの伯爵夫人が姿を現した。驚くゲルマンに、老女は「三<small>トロイカ</small>」「七<small>セミョルカ</small>」「一<small>トウズ</small>」の順でカルタを張れば勝てると告げたのだった。必勝の策を得たゲルマンは、カルタで大金持ちとなったチェカリンスキイのテーブルについた。「三」に有るだけの金を賭け、ゲルマンは見事に勝ちをおさめた。次の日は「七」に有るだけの金を賭け、やはり鮮やかに勝った。三度目の勝負の日には、噂を聞きつけてたくさんの観衆が集まっていた。

{{quotation| チェカリンスキイは顫える手に札を配った。右手には『女王』が、左手には『一』が出た。</br> 「『一<small>トウズ</small>』がやった!」とゲルマンは言って、持ち札を起こした。</br> 「いや、『女王<small>ダーマ</small>』の負けと存じますが」とチェカリンスキイが優しく言い直した。</br>
 ゲルマンは愕然と自分の手を見た。張った筈の『一』は消えて、開いたのはスペードの『女王』であった。―この指が引き違いをする筈はないのだが。―</br>
 そのとき、スペードの『女王』が眼を窄めて、北叟笑みを漏らしたと見えた。その生き写しの面影に、彼は悚然とした。……</br>
 「あいつだ!」彼は眼を据えて絶叫した。|前掲書 pp.60-61}}

ゲルマンは精神に変調をきたし、ほどなく精神病院に入れられた。何を聞かれても早口で「三<small>トロイカ</small>」「七<small>セミョルカ</small>」「一<small>トウズ</small>」、「三<small>トロイカ</small>」「七<small>セミョルカ</small>」「女王<small>ダーマ</small>」と呟くだけになったのだという。

==解題==
===登場人物===
[[file:Perrot View of the Smolny Convent 1841.jpg|thumb|1840年ごろのペテルブルク、スモーリヌイ修道院。ゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイなどの何人もの作家によってペテルブルクは幻想と現実の折り重なった都市として描かれ、無数の「ペテルブルクもの」を生み出してきた。]]
;ゲルマン
帰化したドイツ人を父に持つ平民出の青年で、計算高さだけでなく立身への野心もそなえている。モデルと考えられているのは、南方結社を率いてデカブリストの乱を率いた[[パーヴェル・ペステリ]]である。ゲルマン同様にこのペステリも帰化ドイツ人の子で、やはりナポレオンに似ていたと伝わっている。また『スペードの女王』を書いていた頃の日記には、ある公爵とペステリの話をしたことを記してもいる。ペステリと交際のあったプーシキンは、敗れ去ったデカブリストたちへの「痛恨」<ref name="神西5051"/>を!詩的形象としてゲルマンにことよせたのである<ref name="神西5051">神西 1967年 pp.250-251</ref><!--出典はパラグラフ全体-->。ゲルマンと比較される主人公を描く他作品としてドストエフスキー『罪と罰』(ラスコーリニコフ)、[[スタンダール]]『赤と黒』(ジュリヤン・ソレル)、[[バルザック]]『あら皮』(ラファエル)などの名が挙がる<ref name="神西5051"/><ref>森田 2007年 pp.228-230</ref>。

{{quote box|width=33% |align=right|わたしの『スペードの女王』はすっかり流行りっ児だ。賭博者連中は三、七、一と張っている。宮中では、老伯爵夫人がN・P公爵夫人に似ているという評判だが、あの連中も腹を立ててはいないらしい|―1834年4月7日の手紙<ref name="神西256">神西 1967年 p.256</ref>}}
;アンナ・フェドトブナ伯爵夫人
かつては美貌を誇ったが、いまでは醜く老い、うら若いリザヴェータを「殉教者のように」使っている。モデルとしてきわめて有力なのは、プーシキンが手紙で触れるN・P公爵夫人ことナターリヤ・ペトロヴナ・ゴリツィナ公爵夫人である<ref name="笠間1">笠間 1982年 p.1</ref>。これはモスクワ特別市長ドミートリー・ゴリツィン公爵の妻であり、エカチェリーナ2世にも仕えたことのある女官である<ref name="神西5455">神西 1967年 p.254-255</ref>。プーシキンは実際に面識があったわけではなかったが、公爵夫人はマダム・ムスタッシュとも呼ばれ{{#tag:ref|都年老いてから口ひげを生やし始めたため、それを嗤ってあだ名された<ref name="笠間2"/>|group="n"}}、『スペードの女王』の老伯爵夫人のようにかつてはパリの花形だった。そうしたゴリツィナ夫人の噂話を取り込む形で、フェドトブナ伯爵夫人という人物をつくりあげたと考えられている<ref name="笠間1"/>。一方で人となりや容貌などで矛盾する点もあり、伯爵夫人のモデルは実はエカテリーナ・アプラクシナという女性であったか、もしくはディテールに使用されていたとする説もある<ref name="笠間2">笠間 1982年 p.2</ref>。

トムスキイやリザヴェータのモデルを求める試みは成功をみていない。またプーシキンその人も賭博好きでありたばたび賭博を作中に登場させているが、ゲルマンのそれは単なる気晴らしではなく、「安楽と独立」をもたらす希望であった点は重要な対比である<ref>森田 2007年 p.242</ref>。

===執筆と反響===
[[File:Nathalie Petrovna Golitsyn .jpg|thumb|伯爵夫人のモデルとされるナターリヤ・ゴリツィナ公爵夫人。美しい顔立ちからはほど遠く、むしろたいへんな醜婦だったともいわれる<ref name="笠間2"/>]]
『スペードの女王』の萌芽は、1819年に創作ノートに書き留められた『ナージニカ』に求められる<ref name="森田238">森田 2007年 p.238</ref>。その後1828年にゴリツィン公爵から「3枚のトランプ」の話を聞いたプーシキンは、構想段階であった『ナージニカ』とこの[[アネクドート]]をもとにした作品を肉付けしていった<ref name="森田238"/>。そして1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この[[プガチョフの乱|暴動]]が起こった土地であるオレンブルグなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留した<ref name="神西246">神西 1967年 p.246</ref>。しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、二月近く留まることになって時間が生まれる<ref name="森田226">森田 2007年 p.226</ref>。この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『[[青銅の騎士 (詩)|青銅の騎士]]』などとともに『スペードの女王』が書かれたのである<ref name="神西246"/>。そして「読書文庫」紙上で発表され後に選集にもおさめられたが、原稿は散逸してしまった<ref name="森田226"/>。発表後すぐに人気を集め、プーシキンが手紙でそれを自賛するほどであった。当時こそ文学として真に評価されていたとはいいがたいが、すぐに[[ヴィッサリオン・ベリンスキー|ベリンスキー]]やドストエフスキー、フランスでは[[プロスペル・メリメ|メリメ]]や[[アンドレ・ジッド|ジイド]]といった人々に絶賛を受け{{#tag:ref|メリメは1849年に『スペードの女王』の仏訳を行っている。誤訳も少なくなかったが訳業としてはすぐれたもので、プーシキンというロシア人の名を借りたメリメ自身の作品と考えられるほどだった<ref>神西 1967年 pp.257-258</ref>|group="n"}}、現在ではプーシキンの、つまり[[ロシア文学]]における最高傑作の1つに数えられるようになった<ref>神西 1967年 pp.256-259</ref>。

===英雄ナポレオン===
「横から見ればナポレオン」とトムスキイに評される<ref name="神西43">神西清訳『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.43</ref>『スペードの女王』の主人公ゲルマンにはその通り「ナポレオン主義」が見いだされてきた<ref name="森田227">森田 2007年 p.227</ref>。金と名誉とを求める平民出のゲルマンは、伯爵夫人の殺害や無垢なリザヴェータをただ利用することを躊躇しない。容貌だけでなく、この野心と「[[メフィストフェレス]]」<ref name="神西43"/>じみた悪魔性においてゲルマンはナポレオンのイメージが重ねられているといってよい<ref>森田 2007年 p.229</ref>。しかし彼はこのナポレオン主義によって破滅し、死の手前で「不条理な生」<ref>森田 2007年 p.230</ref>を生きなければならなくなるのである。しかしナポレオンが英雄としての側面を持つように、ゲルマンもその意味で両義的な人物である。伯爵夫人の部屋が[[モンゴルフィエ兄弟|モンゴルフィエ]]の気球や[[フランツ・アントン・メスメル|メスメル]]の磁気といった「前世紀の」品々であふれている通り、この老婆は18世紀フランスの[[アンシャン・レジーム|旧体制]]を象徴する存在として描かれている<ref name="鳥山12">鳥山 2010年 p.12</ref>。ナポレオンがそれを打倒して英雄になったように、ゲルマンは非対称的に伯爵夫人を「見る」行為によって征服し、殺すことで英雄としてのナポレオン像にも比せられているのである<ref name="鳥山12"/>。だがゲルマンもまた幻想の伯爵夫人に「見つめられ」て一方的な支配権を失い、ナポレオンの没落と軌を一にするかのように、破滅へ向かうのである<ref>鳥山 2010年 p.14</ref>。

==日本語訳==
*{{Cite book |title=スペードの女王・ベールキン物語 |author=アレクサンドル・プーシキン、神西清訳 |year=1967 |publisher=岩波文庫 |isbn=4003260422}}
*{{Cite book |title=スペードの女王 |author=アレクサンドル・プーシキン、[[岡本綺堂]]訳 |year=1987 |publisher=河出書房新社 |series=世界怪談名作集 03|isbn=4003260422}}-[http://www.aozora.gr.jp/cards/001088/card42305.html (青空文庫)]
*{{Cite book |title=悪魔のトランプ占い |author=アレクサンドル・プーシキン他、渡辺節子訳 |year=1986 |publisher=ポプラ社 |series=(ポプラ社文庫―怪奇・推理シリーズ) |isbn=4591022994}}

==脚注==
<references group="n"/>
;出典
{{Reflist|2}}
;参考文献
*{{Cite journal |author=藻利佳彦 |year=1992 |title=『スペードの女王』に関する一考察 |url=http://ci.nii.ac.jp/els/110001249209.pdf?id=ART0001628057&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1335687381&cp= |journal=ロシヤ語ロシヤ文学研究 |volume=24 |pages=108-110 |publisher=日本ロシア文学会 }}
*{{Cite journal |author=笠間啓治 |year=1982 |title=『スペードの女王』の老伯爵夫人のモデルをめぐって |url=http://ci.nii.ac.jp/els/110001256915.pdf?id=ART0001635798&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1335687407&cp= |journal=ロシヤ語ロシヤ文学研究 |volume=14 |pages=1-10 |publisher=日本ロシア文学会 }}
*{{Cite journal |author=鳥山祐介 |year=2010 |title=プーシキン『スペードの女王』と光学劇場 : 「幻想性」のコンテクストをめぐって |url=http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/33465/1/SLA0250001.pdf |journal=Slavistika |volume=14 |pages=1-10 |publisher=東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室 }}
*{{Cite journal |author=森田敦子 |year=2007 |title=プーシキン『スペードの女王』の比較文学的考察--スタンダール『赤と黒』・バルザック『あら皮』『赤い宿屋』との対比 |url=http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/38703/1/09_morita.pdf |journal=スラブ研究 |volume=54 |pages=225-243 |publisher=北海道大学スラブ研究センター }}
;関連文献
*{{Cite journal |author=Nathan Rosen |year=1975 |title=The Magic Cards in The Queen of Spades |url=http://www2.fwcds.org/faculty/Faculty%20Resources%20Page/Boberg/Pushkin/Magic%20in%20QofS.pdf |journal=The Slavic and East European Journal |volume=19 |issue=2 |pages=255-275 |publisher=American Association of Teachers of Slavic and East European Languages }}
*{{Cite journal |author=Sergei Davydov |year=1999 |title=The Ace in "The Queen of Spades" |url=http://community.middlebury.edu/~sdavydov/The%20Ace%20in%20%27The%20Queen%20of%20Spades,%27%20in%20Pushkin%20volume%20of%20Slavic%20Review%2058,%20No.%202%20%28Summer%201999%29,%20309-328.pdf |journal=Slavic Review |volume=58 |issue=2 |pages=309-328 |publisher=Association for Slavic, East European, and Eurasian Studies }}
*{{Cite journal |author=Gary Rosenshield |year=1994 |title=Choosing the Right Card: Madness, Gambling, and the Imagination in Pushkin's
"The Queen of Spades" |url=http://www2.fwcds.org/Faculty/Faculty%20Resources%20Page/Boberg/Pushkin/Choosing%20the%20Right.pdf |journal=PMLA |volume=109 |issue=5 |pages=995-1008 |publisher=Modern Language Association }}
*{{Cite journal |author=Maxim D. Shrayer |year=1992 |title=Rethinking Romantic Irony: Puškin, Byron, Schlegel and The Queen of Spades |url=http://www2.fwcds.org/Faculty/Faculty%20Resources%20Page/Boberg/Pushkin/Rethinking.pdf |journal=The Slavic and East European Journal |volume=36 |issue=4 |pages=397-414 |publisher=American Association of Teachers of Slavic and East European Languages }}


==外部リンク==
==外部リンク==
*{{Cite web |author=松岡正剛 |date=2001-08-09 |url=http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0353.html |title=アレクサンドル・プーシキン『スペ-ドの女王 ベールキン物語』 |publisher=松岡正剛の千夜千冊|accessdate=2012-04-29}}
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/001088/card42305.html スペードの女王]([[青空文庫]]、[[岡本綺堂]]訳)
*{{Cite web |url=http://www.pushkiniana.org/naps.html |title=the Pushkin Review |publisher=North American Pushkin Society|accessdate=2012-04-30}}
*[http://public-library.narod.ru/Pushkin.Alexander/pikovaya.html スペードの女王(ロシア語)]
*[http://public-library.narod.ru/Pushkin.Alexander/pikovaya.html スペードの女王(ロシア語)]
* [http://home.tiscali.cz:8080/ist987/libreta/picdama.html オペラのリブレット(ロシア語)]
*[http://home.tiscali.cz:8080/ist987/libreta/picdama.html オペラのリブレット(ロシア語)]


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2012年4月30日 (月) 12:34時点における版

プーシキンとスペードの女王(建物に直接描かれている ハリコフ)

スペードの女王』(ロシア語Пиковая дама)は、ロシアの国民的作家アレクサンドル・プーシキン短編小説1834年に雑誌「読書文庫」に発表され、すぐさま大変な人気を博した[n 1]。『大尉の娘』とも比せられるプーシキンの代表的な散文作品であり[n 2]、引き締まった文体とホフマンを思わせる幻想的な雰囲気に満ちた格調高い名作[3]。また1930年前後の[4]幻想と現実とが交差する都市ペテルブルクを舞台にした「ペテルブルクもの」に連なり[5]、長編小説『未成年』における〔スペードの女王の主人公〕「ゲルマンは巨大な人物だ。異常な、まったくペテルブルグ的な典型だ―ペテルブルグ時代の典型だ」という言葉のとおり、ドストエフスキーがこの作品を激賞したことは有名である[6]

その平民出身の主人公ゲルマンは、大金を求めて人知の限りを尽くすが、愛と友情とを知らぬままナポレオンのごとき野望を持てあまし、ついには発狂して全てを失ってしまう。神西清はこの作品にプーシキン自身の内面とも通じ合う「悲劇」を見いだしている[7]

1890年には本作を元にチャイコフスキー同名のオペラを作曲している。また1916年1987年には映画化もされた。日本では神西清による名訳で知られ、宝塚歌劇団でも2度の舞台化がされている。

あらすじ

アレクサンドル・プーシキン(自画像)

工兵士官であるゲルマンは、騎兵士官トムスキイの家で連夜開かれるカルタ勝負を熱心に見守りはするが、決して自分では金を賭けようとはしない。しかしトムスキイに言わせれば、ゲルマンよりも自分の祖母アンナ・フェドトブナ伯爵夫人が賭けをしないことのほうが奇妙なのだという。なんでも伯爵夫人はかつてカルタで散々に負けたのだが、ある人から必勝の手を教わり、失ったはずの大金を取り戻したことがあるのだ。さらに同じように大負けした青年を哀れに思い、その策を授けて勝たせてやったというのである。それを聞いたゲルマンは心を躍らせたが、同時に自分にとっての必勝の手は節度なのだと思い直す。

……所であの話だが、一体あれは本当なのかな。いやいや、倹約、節制、勤勉、これが俺の三枚の勝ち札だ。これこそ俺の身代を築き上げるどころか七層倍にもして、安楽と独立を齎すものなのだ — 神西清訳『スペードの女王』岩波文庫、1967年 p.26

しかし思索にふけりながら歩き、ふと顔を上げた先は伯爵夫人の屋敷だった。ゲルマンは覚悟を決める。伯爵夫人にいいように使われるみじめな娘リザヴェータをかどわかし、逢い引きの風を装って館に忍び込み、伯爵夫人の寝室に滑り落ちた。ゲルマンは勝つための手を自分にも教えろと迫るが、しかし伯爵夫人は「あれは笑談だった」と言ったぎり無言のままであった。ついにゲルマンは懐から拳銃をとりだして突きつける、と伯爵夫人は恐怖に戦き、そのままこと切れた。

リザヴェータの手引で館を脱出し、その後の伯爵夫人の葬式にも顔を出したゲルマンはある夜にたまさか目を覚ました。誰かが訪ねてきたと気をやる彼の枕元に、あの伯爵夫人が姿を現した。驚くゲルマンに、老女は「三トロイカ」「七セミョルカ」「一トウズ」の順でカルタを張れば勝てると告げたのだった。必勝の策を得たゲルマンは、カルタで大金持ちとなったチェカリンスキイのテーブルについた。「三」に有るだけの金を賭け、ゲルマンは見事に勝ちをおさめた。次の日は「七」に有るだけの金を賭け、やはり鮮やかに勝った。三度目の勝負の日には、噂を聞きつけてたくさんの観衆が集まっていた。

 チェカリンスキイは顫える手に札を配った。右手には『女王』が、左手には『一』が出た。
 「『一トウズ』がやった!」とゲルマンは言って、持ち札を起こした。
 「いや、『女王ダーマ』の負けと存じますが」とチェカリンスキイが優しく言い直した。

 ゲルマンは愕然と自分の手を見た。張った筈の『一』は消えて、開いたのはスペードの『女王』であった。―この指が引き違いをする筈はないのだが。―
 そのとき、スペードの『女王』が眼を窄めて、北叟笑みを漏らしたと見えた。その生き写しの面影に、彼は悚然とした。……

 「あいつだ!」彼は眼を据えて絶叫した。 — 前掲書 pp.60-61

ゲルマンは精神に変調をきたし、ほどなく精神病院に入れられた。何を聞かれても早口で「三トロイカ」「七セミョルカ」「一トウズ」、「三トロイカ」「七セミョルカ」「女王ダーマ」と呟くだけになったのだという。

解題

登場人物

1840年ごろのペテルブルク、スモーリヌイ修道院。ゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイなどの何人もの作家によってペテルブルクは幻想と現実の折り重なった都市として描かれ、無数の「ペテルブルクもの」を生み出してきた。
ゲルマン

帰化したドイツ人を父に持つ平民出の青年で、計算高さだけでなく立身への野心もそなえている。モデルと考えられているのは、南方結社を率いてデカブリストの乱を率いたパーヴェル・ペステリである。ゲルマン同様にこのペステリも帰化ドイツ人の子で、やはりナポレオンに似ていたと伝わっている。また『スペードの女王』を書いていた頃の日記には、ある公爵とペステリの話をしたことを記してもいる。ペステリと交際のあったプーシキンは、敗れ去ったデカブリストたちへの「痛恨」[8]を!詩的形象としてゲルマンにことよせたのである[8]。ゲルマンと比較される主人公を描く他作品としてドストエフスキー『罪と罰』(ラスコーリニコフ)、スタンダール『赤と黒』(ジュリヤン・ソレル)、バルザック『あら皮』(ラファエル)などの名が挙がる[8][9]

わたしの『スペードの女王』はすっかり流行りっ児だ。賭博者連中は三、七、一と張っている。宮中では、老伯爵夫人がN・P公爵夫人に似ているという評判だが、あの連中も腹を立ててはいないらしい
―1834年4月7日の手紙[10]
アンナ・フェドトブナ伯爵夫人

かつては美貌を誇ったが、いまでは醜く老い、うら若いリザヴェータを「殉教者のように」使っている。モデルとしてきわめて有力なのは、プーシキンが手紙で触れるN・P公爵夫人ことナターリヤ・ペトロヴナ・ゴリツィナ公爵夫人である[4]。これはモスクワ特別市長ドミートリー・ゴリツィン公爵の妻であり、エカチェリーナ2世にも仕えたことのある女官である[11]。プーシキンは実際に面識があったわけではなかったが、公爵夫人はマダム・ムスタッシュとも呼ばれ[n 3]、『スペードの女王』の老伯爵夫人のようにかつてはパリの花形だった。そうしたゴリツィナ夫人の噂話を取り込む形で、フェドトブナ伯爵夫人という人物をつくりあげたと考えられている[4]。一方で人となりや容貌などで矛盾する点もあり、伯爵夫人のモデルは実はエカテリーナ・アプラクシナという女性であったか、もしくはディテールに使用されていたとする説もある[12]

トムスキイやリザヴェータのモデルを求める試みは成功をみていない。またプーシキンその人も賭博好きでありたばたび賭博を作中に登場させているが、ゲルマンのそれは単なる気晴らしではなく、「安楽と独立」をもたらす希望であった点は重要な対比である[13]

執筆と反響

伯爵夫人のモデルとされるナターリヤ・ゴリツィナ公爵夫人。美しい顔立ちからはほど遠く、むしろたいへんな醜婦だったともいわれる[12]

『スペードの女王』の萌芽は、1819年に創作ノートに書き留められた『ナージニカ』に求められる[14]。その後1828年にゴリツィン公爵から「3枚のトランプ」の話を聞いたプーシキンは、構想段階であった『ナージニカ』とこのアネクドートをもとにした作品を肉付けしていった[14]。そして1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この暴動が起こった土地であるオレンブルグなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留した[15]。しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、二月近く留まることになって時間が生まれる[16]。この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『青銅の騎士』などとともに『スペードの女王』が書かれたのである[15]。そして「読書文庫」紙上で発表され後に選集にもおさめられたが、原稿は散逸してしまった[16]。発表後すぐに人気を集め、プーシキンが手紙でそれを自賛するほどであった。当時こそ文学として真に評価されていたとはいいがたいが、すぐにベリンスキーやドストエフスキー、フランスではメリメジイドといった人々に絶賛を受け[n 4]、現在ではプーシキンの、つまりロシア文学における最高傑作の1つに数えられるようになった[18]

英雄ナポレオン

「横から見ればナポレオン」とトムスキイに評される[19]『スペードの女王』の主人公ゲルマンにはその通り「ナポレオン主義」が見いだされてきた[20]。金と名誉とを求める平民出のゲルマンは、伯爵夫人の殺害や無垢なリザヴェータをただ利用することを躊躇しない。容貌だけでなく、この野心と「メフィストフェレス[19]じみた悪魔性においてゲルマンはナポレオンのイメージが重ねられているといってよい[21]。しかし彼はこのナポレオン主義によって破滅し、死の手前で「不条理な生」[22]を生きなければならなくなるのである。しかしナポレオンが英雄としての側面を持つように、ゲルマンもその意味で両義的な人物である。伯爵夫人の部屋がモンゴルフィエの気球やメスメルの磁気といった「前世紀の」品々であふれている通り、この老婆は18世紀フランスの旧体制を象徴する存在として描かれている[23]。ナポレオンがそれを打倒して英雄になったように、ゲルマンは非対称的に伯爵夫人を「見る」行為によって征服し、殺すことで英雄としてのナポレオン像にも比せられているのである[23]。だがゲルマンもまた幻想の伯爵夫人に「見つめられ」て一方的な支配権を失い、ナポレオンの没落と軌を一にするかのように、破滅へ向かうのである[24]

日本語訳

  • アレクサンドル・プーシキン、神西清訳 (1967). スペードの女王・ベールキン物語. 岩波文庫. ISBN 4003260422 
  • アレクサンドル・プーシキン、岡本綺堂訳 (1987). スペードの女王. 世界怪談名作集 03. 河出書房新社. ISBN 4003260422 -(青空文庫)
  • アレクサンドル・プーシキン他、渡辺節子訳 (1986). 悪魔のトランプ占い. (ポプラ社文庫―怪奇・推理シリーズ). ポプラ社. ISBN 4591022994 

脚注

  1. ^ 執筆は1833年の終わりごろとされる[1]
  2. ^ しかし発表当時は新奇なストーリーばかりが注目され、文学的な達成とみなされるまでには時間を要した[2]
  3. ^ 都年老いてから口ひげを生やし始めたため、それを嗤ってあだ名された[12]
  4. ^ メリメは1849年に『スペードの女王』の仏訳を行っている。誤訳も少なくなかったが訳業としてはすぐれたもので、プーシキンというロシア人の名を借りたメリメ自身の作品と考えられるほどだった[17]
出典
  1. ^ 笠間 1982年 pp..6-7
  2. ^ 森田 2007年 p.225
  3. ^ 神西清「プーシキンと作品」『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.288
  4. ^ a b c 笠間 1982年 p.1
  5. ^ 神西清「短篇6種の発生について」『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.247
  6. ^ 神西 1967年 p.256
  7. ^ 神西 1967年 p.248
  8. ^ a b c 神西 1967年 pp.250-251
  9. ^ 森田 2007年 pp.228-230
  10. ^ 神西 1967年 p.256
  11. ^ 神西 1967年 p.254-255
  12. ^ a b c 笠間 1982年 p.2
  13. ^ 森田 2007年 p.242
  14. ^ a b 森田 2007年 p.238
  15. ^ a b 神西 1967年 p.246
  16. ^ a b 森田 2007年 p.226
  17. ^ 神西 1967年 pp.257-258
  18. ^ 神西 1967年 pp.256-259
  19. ^ a b 神西清訳『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.43
  20. ^ 森田 2007年 p.227
  21. ^ 森田 2007年 p.229
  22. ^ 森田 2007年 p.230
  23. ^ a b 鳥山 2010年 p.12
  24. ^ 鳥山 2010年 p.14
参考文献
関連文献

"The Queen of Spades"”]. PMLA (Modern Language Association) 109 (5): 995-1008. http://www2.fwcds.org/Faculty/Faculty%20Resources%20Page/Boberg/Pushkin/Choosing%20the%20Right.pdf. 

外部リンク