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{{Infobox Military Conflict
'''ウィリアム王戦争'''(ウィリアムおうせんそう, {{lang-en|'''King William's War'''}}, [[1689年]] - [[1697年]])は[[欧州]]の[[大同盟戦争]]に対応する[[北米大陸]]における最初の植民地戦争である。[[イングランド王国|イングランド]]領の[[ニューイングランド]]と[[フランス王国|フランス]]領の[[ヌーベルフランス]]間の最初の交戦であった。
| conflict = ウィリアム王戦争
| partof = 大同盟戦争
| image = [[ファイル:King williams war.svg|250px]]
| caption = ウィリアム王戦争での英仏両軍の経路
| date = [[1688年]] - [[1697年]]
| place = 北アメリカ(ヌーベルフランス、ニューイングランド、ニューヨーク)
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| commander1 = [[ルイ・ド・ボード・ド・フロンテナック]]<br>[[ピエール・ル・モイヌ・ディヴェルヴィユ]]<br/>[[クロード=セバスチャン・ド・ヴィユー]]<br/>[[ジョゼフ=フランソワ・エルテル・ド・ラ・フレニエール]]<br/>ルイ=ピエール神父<br/>族長マドカワンド
| commander2 =サー・[[ウィリアム・フィップス]]<br/>[[ベンジャミン・チャーチ]]<br/>ピーター・シュイラー
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}}
{{main|大同盟戦争|北米植民地戦争}}
'''ウィリアム王戦争'''(ウィリアムおうせんそう, {{lang-en|'''King William's War'''}}, [[1689年]] - [[1697年]])は、またの名を第二次インディアン戦争という。第一次は[[フィリップ王戦争]]、第三次は[[ラル神父戦争]]、第四次は[[ル・ルートル神父戦争]]、第五次は[[ジョージ王戦争]]、そして第六次は[[フレンチ・インディアン戦争]]である<ref>''Writing Early American History''. Philadelphia: [[University of Pennsylvania Press]], 2005; pg. 74.</ref><ref>Herbert Milton Sylvester. Indian Wars of New England: The land of the Abenake. The French occupation. King Philip's war. St. Castin's war 1910. </ref>)。大同盟戦争の[[北アメリカ]]の[[植民地]]における戦争であるが、植民地には両国とも遠征軍を派遣できず、それぞれが独自の兵力で対戦した。北アメリカではイギリス国王[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]の名を取ってウィリアム王戦争とよばれている<ref name=kaho>[http://www.kaho.biz/hokubei/g.html 北米イギリス植民地帝国史 後編 その3]</ref>。


[[ヌーベルフランス]]と[[アベナキ同盟]]は、イングランドのアカディアでの勢力拡大を阻止できる実力があった。アカディアの境界はヌーベルフランスにより、[[メイン]]南部の[[ケネベック川]]と定められていた<ref>William Williamson. ''The history of the state of Maine''. Vol. 2. 1832. p. 27</ref><ref>Griffiths, E. ''From Migrant to Acadian''. McGill-Queen's University Press. 2005. p.61</ref><ref>Campbell, Gary. ''The Road to Canada: The Grand Communications Route from Saint John to Quebec''. Goose Lane Editions and The New Brunswick Heritage Military Project. 2005. p. 21.</ref> 。[[レイスウェイク条約]](ライスワイク条約)では、ヌーベルフランス、ニューイングランド、そしてニューヨークの国境と辺境の入植地は戦前の状態を維持という結論に達した<ref name=vcanada>[http://www.vcanada2.com/section_2/2.1kingwilliamswar.htm 2.1: King William's War]</ref>。しかし、北アメリカでの決着は現地の判断にゆだねられたため<ref name=kaho/>、その後もまだ戦闘は続いた<ref name=vcanada/>。
[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[スペイン帝国|スペイン]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[バルト帝国|スウェーデン]]など欧州諸国はフランスの[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の拡張主義に対抗するため[[アウクスブルク同盟]]を結成し、[[名誉革命]]によって即位したイングランドの[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]が1689年同盟に参加したことによって「大同盟」と呼ばれた。


==戦争の発端==
北米での戦争は[[カナダ]]の仏軍とインディアン同盟軍が優勢で、[[ニューイングランド]]海岸地帯を侵略し、ニューイングランド軍は[[ケベック市]]包囲攻撃に失敗した。1697年の[[レイスウェイク条約]]によって戦争は終結したが、平和は永続きせず、[[1702年]]には[[アン女王戦争]]が始まる。
{{see also|大同盟戦争|名誉革命}}
[[File:King William III of England, (1650-1702).jpg|thumb|180px|left|ウィリアム3世(オラニエ公ウィレム3世)]]
[[1685年]]の、[[プファルツ選帝侯]][[カール2世 (プファルツ選帝侯)|カール2世]]の死去に伴い、相続をめぐって[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]、[[スペイン帝国|スペイン]]、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[バルト帝国|スウェーデン]]など欧州諸国は、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の相続権主張に対抗するため[[アウクスブルク同盟]]を結成した。[[オランダ総督]](統領)の[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]が[[名誉革命]]後にウィリアム3世として即位した[[イングランド王国]]も後にこの同盟に加わった<ref name=kaho/>。


[[北アメリカ]]では、[[ヌーベルフランス]]と、[[1686年]]に[[ニューイングランド自治領]]として統一された[[イギリス]]人入植地北部との間に緊張が高まっていた。ニューイングランドと[[イロコイ連邦]]は、ヌーベルフランスと[[アベナキ同盟]]を相手に戦った、イロコイ族は経済面で重要な[[毛皮交易]]を支配しており、[[1680年]]からフランスと敵対関係にあった<ref>The Iroquois restoration: Iroquois diplomacy on the colonial frontier, 1701-1754 By Richard Aquila. University of Nebraska Press. 1997. p. 43</ref>。イングランドの強い勧めにより、イロコイ族はヌーベルフランスと西方の部族との交易を中断した。ヌーベルフランスはこれへの報復として、[[ニューヨーク植民地|ニューヨーク]]西部の[[セネカ族]]を襲った。その見返りに、ニューイングランドはイロコイ族に支援して、ヌーベルフランスのラシーヌを襲撃させた<ref>Richard Aquila, ''The Iroquois restoration: Iroquois diplomacy on the colonial frontier, 1701-1754'' University of Nebraska Press. 1997. p. 44</ref>。
== 関連項目 ==

ニューイングランドと[[アカディア]]の間でも、境界を巡って同じような緊張が走っていた。ヌーベルフランスはこの境界を、[[メイン]]の南にあるケネベック川であると定めていた<ref>William Williamson. ''The history of the state of Maine''. Vol. 2. 1832. p. 27</ref><ref>Griffiths, E. ''From Migrant to Acadian''. McGill-Queen's University Press. 2005. p.61</ref><ref>Campbell, Gary. ''The Road to Canada: The Grand Communications Route from Saint John to Quebec''. Goose Lane Editions and The New Brunswick Heritage Military Project. 2005. p. 21.</ref>。マサチューセッツ(当時は勅諚によりメインも含まれていた)のイングランド人入植者は、アカディアに入植地を拡張する一方で、ヌーベルフランスは、自らの主張を正当化するため、[[カトリック]]の[[教会]]を、メインの3つの最も大きな集落にそれぞれ建てた。ひとつは[[ケネベック川]]流域(ノリッジウォック)、もうひとつは[[ペノブスコット川]]流域(ペノブスコット)、そして最後のひとつは[[セントジョン川]]の流域(メデュクトゥク)に建てられた<ref>{{cite web| url=http://www.historicplaces.ca/en/rep-reg/place-lieu.aspx?id=14831| title=Meductic Indian Village / Fort Meductic National Historic Site of Canada| publisher=Parks Canada| accessdate=December 20, 2011}}</ref><ref>John Grenier, ''The Far Reaches of Empire''. University of Oklahoma Press, 2008, p. 51, p. 54.</ref>。他の地はともかく、アカディアの5つのインディアン部族は、[[フィリップ王戦争]]を受けてアベナキ同盟を作り、ニューイングランドの拡張を阻止するために、政治や軍事の面でヌーベルフランスと同盟を結んだ<ref>[http://www.wabanaki.com/Harald_Prins.htm Wabanaki]</ref>。

==戦争==
===アカディアとニューイングランド===
[[File:New england ref 2001.jpg|thumb|200px|right|2001年現在のマサチューセッツ、メイン両州。州境の左にドーヴァー、メイン南部にサコの地名がある。]]
アカディアとニューイングランドを戦場とした戦いは、キャスタン戦争として知られる<ref>Herbert Milton Sylvester, ''Indian Wars of New England: The land of the Abenake. The French occupation. King Philip's war. St. Castin's war 1910'' </ref>。

大同盟戦争勃発の[[1689年]]、ペノブスコット族をはじめとするアベナキ同盟はイングランド入植地への攻撃を再開し、以前にもまして激しく襲撃するようになった。<ref>[http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=594 ABBADIE DE SAINT-CASTIN, JEAN-VINCENT D’, Baron de Saint-Castin - Dictionary of Canadian Biography Online]</ref>。その年の[[6月]]、数百人のアベナキ族と[[ペナコック族]]が、カンカマガス(Kancamagus)とメサンドウィット(Mesandowit)とに率いられ、[[ニューハンプシャー]]のドーヴァーを攻撃して住民20人以上を殺し、29人を連れ去った。この29人は[[奴隷]]として売買されたと言われる。サコでも4人が殺された。これらの襲撃への対応として、24人の中隊が召集され、遺体探索とインディアンたちの追跡に当たったが、インディアンとの戦いで4分の1が戦死したため、帰還を余儀なくされた<ref>Clayton, W. W. Full text of "History of York County, Maine. With illustrations and biographical sketches of its prominent men and pioneers", 1888. p. 51</ref> 。

1689年の[[8月]]、[[ジャン=ヴァンサン・ダバディ・ド・サンキャスタン]]と[[ルイ=ピエール・テュリ]][[神父]]が<ref>http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?id_nbr=562&PHPSESSID=m3tj852vp2kc6522vmk91nd765</ref>アベナキの戦闘集団を率いて、ペマキッド(現在の[[メイン州]][[ブリストル]])を攻略して[[ペマキッドの戦い (1689年)|砦を破壊した]]。イングランドにとって、ペマキッドの陥落は大きな挫折となり、アカディアとニューイングランドの境界線は、メインのカンゾ(ファルマス)にまで戻された<ref>Conquering the American wilderness: the triumph of European warfare in ... By Guy Chet, p. 81</ref> 。

[[File:BenjaminChurchNewYorkPublicLibraryStephenSchwarzmanBuildingPrintCollectionMiriamAndIraWallachDivisionPrintsandPhotographsID1217364.jpg|thumb|150px|left|ベンジャミン・チャーチ]]
ニューイングランドはこれへの報復として、[[ベンジャミン・チャーチ]]にアカディアを襲撃させた。ウィリアム王戦争の間、チャーチは4つのニューイングランドの襲撃隊を率いて、アカディア人やアベナキ同盟諸族との対戦のため、メインを含むアカディアへの遠征を繰り返した。1689年[[9月21日]]、最初のアカディアへの遠征で、チャーチと250人の軍勢は、[[ファルマス]]にとどまろうとするイングランド人入植者を敵から守った。アベナキ同盟諸族の反撃により、チャーチ軍の21人の兵が戦死したが、チャーチ自身の防御は効を奏し、インディアンたちは撤退した<ref>Drake, ''The Border Wars of New England'', p. 33</ref>。

その後チャーチは、無防備なイングランド人入植者をその場残して[[ボストン]]に戻った。翌年の春、キャスタンが率いる400人のフランスとインディアンの部隊が、サーモンフォールズ(現在のメイン州[[バーウィック]])を破壊してからファルマスに戻り、[[ロイヤル砦の戦い]]でファルマスのすべてのイングランド人入植者を虐殺した。その後チャーチは、夏になってファルマスの集落に戻り、遺体を埋葬した<ref>Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, ''The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ...'', pp.175-176</ref>。ロイヤル砦の陥落により、メインの人口が減少したため、インディアンたちは、報復されることなく、ニューハンプシャーとの境界を攻めることができるようになった<ref>Conquering the American wilderness: the triumph of European warfare in ... By Guy Chet; p. 82</ref>。

====ポートロワイヤルの戦い (1690年)====
{{Main|ポートロワイヤルの戦い (1690年)}}
[[File:William Phips - Project Gutenberg etext 20110.jpg|thumb|150px|right|サー・ウィリアム・フィップス]]
サー・[[ウィリアム・フィップス]]が指揮を執るニューイングランド軍は、報復として、アカディアの首都である[[ポートロワイヤル]]を攻撃した。これが、[[ポートロワイヤルの戦い (1690年)|1690年に始まったポートロワイヤルの戦い]]である<ref>John Reid, "1686-1720: Imperial Intrusions", in Buckner, P. and Reid J. (eds), ''The Atlantic Region to Confederation: A History'', Toronto University Press. 1994. p. 82.</ref>。フィップスは7隻から成るイングランド[[艦隊]]に、736人のニューイングランドの兵を乗せていた。アカディア総督のド・メネヴァルは2日間の戦いの後に、条件付きの[[降伏]]をした。これにより駐屯隊は教会に監禁され、メネヴァルは自宅に閉じ込められた。ニューイングランド軍は、自分たちのものとなった砦を破壊し始めた<ref>Brenda Dunn. ''A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800''. Nimbus Publishing, 2004. p. 38</ref>。ポートロワイヤルの住民も教会に閉じ込められ、イギリス国王への忠誠を宣言させられた<ref>Brenda Dunn. ''A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800''. Nimbus Publishing, 2004. p. 39</ref> 。

フィップスは去ったが、6月にニューヨークからまた軍艦がやってきて、町はよりひどく破壊された<ref>John Reid. "1686-1720: Imperial Intrusions". In Buckner, P. and Reid J. (eds). ''The Atlantic Region to Confederation: A History''. Toronto University Press. 1994. p. 82.</ref> 。水夫たちは町に火を放ち、町や教会から物を略奪した<ref>Brenda Dunn. ''A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800''. Nimbus Publishing, 2004. p. 40</ref> 。ニューイングランド軍が再び去っていき、当時のアカディア総督[[ジョゼフ・ロビノー・ド・ヴィユボン]]が、首都を、内陸のより安全な[[ナシュワーク砦]](現在の[[ニューブランズウィック州]]フレデリクトン)に移した。ここは、[[1699年]]に、ポートロワイヤルが首都として修復されるまで、アカディアの中心地であった<ref>Brenda Dunn. ''A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800''. Nimbus Publishing, 2004. p. 45</ref>。

[[File:Dates historique ACADIE.jpg|thumb|180px|left|かつてのアカディアの地図の再現図]]
[[1690年]][[9月11日]]、チャーチは2度目のアカディア遠征のため、300人の兵を率いて[[カスコ湾]]に到着した。彼の任務は、アベナキ同盟に占領されているイングランドのペジェプスコット砦(現在のメイン州ブランズウィック)を解放することだった<ref>Drake, p. 66(翻訳元にタイトル未記載)</ref> <ref>Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, ''The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ...'', pp.179-180</ref>。チャーチはリヴァモアフォールズから40マイル(64キロ)上流に行き、インディアンの集落を攻撃した。チャーチの部隊は3人または4人のインディアンを銃撃し、彼らは撤退した。チャーチは、イングランド兵たちが[[ウィグワム]](インディアンの小屋)の中にいるのを発見した。6人または7人のインディアンを虐殺し9人を連れ去った<ref>Drake, p. 67 (翻訳元にタイトル未記載)</ref>。数日後、アベナキ同盟の部族が、報復としてパープードックポイントのケープエリザベスでチャーチ軍を襲い、兵を7人殺し、24人を負傷させた<ref>Drake, p.69 (翻訳元にタイトル未記載)</ref>。

ウィリアム王戦争中、[[ポストロード]]沿いに、80軒の入植者の家や丸太小屋が立ち並ぶウェルズの町が、[[1691年]][[6月9日]]に[[ウェルズ襲撃|襲撃にあった]]。襲撃したのは、族長モクサス指揮下の200人のインディアンだった。民兵隊[[大尉]]の[[ジェームズ・コンヴァース]]と兵たちは、門つきの砦柵の中にいた[[中尉]][[ジョセフ・ストアラー]]の駐屯隊を守った。もう一人の族長であるマドカワンドが、翌年また来るとニューイングランド兵を脅かした<ref name=Roach>{{Cite book | last = Roach | first = Marilynne K. | title = The Salem Witch Trials: A Day-by-Day Chronicle of a Community Under Siege | year = 2002| location = Lanham, Maryland| pages = 163| url = http://books.google.com/books?id=TvxES1lB6XoC&lpg=PA163&ots=YUA3fyQH7i&dq=Madockawando%20Converse%20do&pg=PA163#v=onepage&q&f=false}}</ref>。

インディアンたちは撤退と共に、ケープネディックから離れた場所にあるヨークへ行き、そこの船の1隻に乗り込んで乗組員のほとんどを殺し、また集落をも焼いた<ref>Clayton, W. W. Full text of "History of York County, Maine. With illustrations and biographical sketches of its prominent men and pioneers", 1888. p. 51</ref>。

[[1692年]]の始め、およそ150人のアベナキ族とテュリ神父がヨークで、イングランド系入植者を約300人殺害または捕囚して集落を焼いた。これは[[キャンドルマスの虐殺]]として知られるようになった<ref>[http://www.waymarking.com/waymarks/WME5D9_Candlemas_Massacre_York_ME Candlemas Massacre - York, ME - Maine Historical Markers on Waymarking.com
]</ref>。

その1692年にチャーチの3度目のアカディア遠征が行われ、この時彼は、450人の兵を連れてペノブスコット(現在のインディアンアイランド)を襲撃した<ref>Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, ''The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ...'' p. 212</ref> チャーチと兵たちはその後タノコック(現在のメイン州ウィンスロウ)を襲撃した<ref>Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, ''The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ...'' p. 214</ref> 。

[[1693年]]、ニューイングランドの[[フリゲート艦]]がまたもポートロワイヤルを攻撃し、12軒の民家のほとんどと、穀物でいっぱいになっていた3つの納屋を焼いた<ref>Brenda Dunn. ''A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800''. Nimbus Publishing, 2004. p. 43</ref> 。

[[1694年]][[7月]]、フランス人士官の[[クロード=セバスチャン・ド・ヴィユー]]と、アベナキの族長ボモシーンに率いられた約250人のアベナキ族が、イングランド集落であるニューハンプシャーのダラム(オイスターリバー)を襲った。その後[[1696年]]の[[8月]]に、ヴィユーはサンキャスタンと共に、[[ペマキッドの戦い (1696年)|ペマキッドの戦い]]に参戦した。
<ref>[http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=1147 VILLIEU, CLAUDE-SÉBASTIEN DE - Dictionary of Canadian Biography Online]</ref>

==== ペマキッドの戦い ====
{{Main|ペマキッドの戦い (1696年)}}
[[File:Pierre Le Moyne d'Iberville 1661-1706.jpg|thumb|150px|right|ピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユ]]
1696年、ヌーベルフランスとアベナキ同盟が、サンキャスタンと[[ピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユ]]の指揮のもと、アカディアに戻ってきて[[1696年7月14日の海戦]](ファンディ湾の戦い)を戦い、その後メインのペマキッドを襲った。これへの報復として、チャーチは4度目のアカディア遠征を行い、[[シグネクト奇襲|シグネクト地峡のアカディア人集落を攻撃]]し、また、当時アカディアの首都だったナシュワーク砦(現在のフレデリクトン)にも襲撃をかけた<ref>Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, ''The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ...'' p.215</ref> 。

===ケベック、ニューヨーク===
1689年の8月に、1500人のイロコイ族が、ヌーベルフランス総督デノンヴィユの侵略への報復として、ラシーヌのフランス系住民の集落を攻撃した。デノンヴィユに代わってヌーベルフランスの総督に就任した、[[ルイ・ド・ボード・ド・フロンテナック]]は、その後オノンダガのイロコイ族の集落を攻撃した。そしてヌーベルフランスとインディアン同盟はその後、1690年の始めに、ニューヨークのイングランド系住民の集落を襲撃した。これは[[シェネクタディの虐殺]]として、特に知られている<ref>[http://www.aadnc-aandc.gc.ca/eng/1100100028966/1100100028968 Maritime Indian Treaties In Historical Perspective]</ref><ref>[http://www.accessgenealogy.com/military/kingwilliam/index.htm King William's War]</ref> 。

{{Main|ケベックの戦い (1690年)}}
[[File:Battle of Quebec.png|thumb|230px|left|ニューイングランド艦隊を砲撃するヌーベルフランス軍]]
1690年、[[マサチューセッツ湾直轄植民地|マサチューセッツ]]によるヌーベルフランス侵略で、[[4月]]にポートロワイヤルを攻略したサー・ウィリアム・フィップスが、同年の[[9月]]に[[ケベック・シティー|ケベック]]に乗り込んだ。この時もフィップスの艦隊が出動したが、ヌーベルフランスの総督フロンテナックは、ニューイングランド側の戦略を察知していた。フロンテナックは兵力をケベックの防御に集中させ、フィップス軍の撃退に成功した。その後フランスはポートロワイヤルを奪回し、現地のインディアン部族と同盟を結ぶことになった<ref name=kaho/>。

イロコイ連邦は、イングランドとの同盟関係の弱さに悩まされた。1693年と1696年、フランスとインディアンの連合軍はイロコイ族の集落を荒らし、作物をめちゃめちゃにした<ref>Taylor, ''American Colonies: The Settling of North America,'' p.290</ref>。[[1697年]]の平和条約締結後、イロコイ族はイングランド系入植者から見捨てられ、[[1701年]]までヌーベルフランスと戦闘行為を共にした<ref>Taylor: ''American Colonies: The Settling of North America,'' p.291</ref>。その1701年、[[モントリオール]]でフランスとイロコイ族の和議が成立し、[[条約]]が結ばれた<ref>木村和男編、『カナダ史 世界各国史23』 山川出版社、1999年、100頁。</ref>。


===ハドソン湾===
[[File:HS34 1.jpg|thumb|180px|right|マニトバ州のヨークファクトリー(1853年)]]
英仏の小競り合いは、[[ハドソン湾]]にも影響を及ぼした。毎年のように毛皮交易所の奪い合いと奪還が続き、[[1686年]]には、ディベルヴィユ率いる軍勢がモントリオールから陸路ハドソン湾へ向かい、ムース、ルパーツ、オールバニの交易所を占拠した。ウィリアム王戦争勃発後は、双方による海戦も起こり、[[1697年]]9月の[[ハドソン湾の戦い]]では、ディベルヴィユのペリカン号は単独で3隻のイングランド艦を迎撃した。ディベルヴィユはヨークを包囲して陥落させ、ここをブルボン砦とした。後のレイスウェイク条約ではフランスが[[ジェームズ湾]]、イギリスがヨークを確保する予定だったが、ヨークの陥落により、フランスがヨーク、イギリスがジェームズ湾となった。フランスの占拠により、ヨークで2万ポンドの損失を出したイングランドには大いに不満が残った<ref name=kegawa>木村和男著 『毛皮交易が創る世界 ハドソン湾からユーラシアへ』 岩波書店、2004年、25-26頁。</ref>。

==条約締結とアン女王戦争==
1697年のレイスウェイク条約で英仏両植民地の戦いは終わり、両植民地の境界は「戦前の状態に」戻された。この平和は長くは続かなかった<ref>Trafzer, Clifford E. ''As long as the grass shall grow and rivers flow a history of Native Americans''. Fort Worth: Harcourt College, 2000</ref>。イングランドではウィリアム3世と[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー2世]]夫妻の死後、メアリー2世の妹[[アン (イギリス女王)|アン]]が即位した。一方フランスの[[ルイ14世]]の孫である[[フェリペ5世 (スペイン王)|アンジュー公フィリップ]]が[[スペイン]]の王位に就き、スペインとフランスが縁続きになることで、[[ヨーロッパ]]や植民地に与える影響をイングランドは恐れた。これが再び英仏対決へとつながって行った<ref>[http://www.usahistory.info/colonial-wars/King-Williams-War.html King William's War - History of the USA]</ref>。

この[[アン女王戦争]]では、イロコイ族はヨーロッパ人相手にうまく立ち回り、双方から贈り物があったにもかかわらず、兵としていずれの側につくことをも拒んだ<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=Ir86E8BAUOAC&pg=PA109&lpg=PA109&dq=Iroquois+Queen+Anne's+War&source=bl&ots=LUBSoAk1C6&sig=Wf80J-3KeTpQv-FlmV9vhxXNLns&sa=X&ei=Pzw2UKzsKO_4mAWxw4HICA&ved=0CCcQ6AEwAw#v=onepage&q=Iroquois%20Queen%20Anne's%20War&f=false A People & a Nation: A History of the United States to 1877]</ref>。

==関連項目==
*[[ジョージ王戦争]]
*[[フレンチ・インディアン戦争]]
*[[アン女王戦争]]
*[[北米植民地戦争]]
*[[北米植民地戦争]]
*[[第2次百年戦争]]
*[[第2次百年戦争]]

==脚注==
{{reflist|2}}


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[[Category:大同盟戦争]]
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[[Category:アメリカ合衆国の歴史 (-1776)]]
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[[Category:カナダの歴史]]
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28行目: 146行目:
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[[nn:Kong Vilhelm-krigen]]
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[[pl:Wojna króla Wilhelma]]
[[pl:Wojna króla Wilhelma]]
[[ru:Война короля Вильгельма]]
[[ru:Война короля Вильгельма]]

2012年9月12日 (水) 13:44時点における版

ウィリアム王戦争
大同盟戦争中

ウィリアム王戦争での英仏両軍の経路
1688年 - 1697年
場所北アメリカ(ヌーベルフランス、ニューイングランド、ニューヨーク)
結果 レイスウェイク条約により、戦前の状態を維持
衝突した勢力
フランス王国の旗フランス王国
ヌーベルフランス
アベナキ同盟
グレートブリテン王国の旗イングランド王国
イギリス領アメリカ
イロコイ連邦
指揮官
ルイ・ド・ボード・ド・フロンテナック
ピエール・ル・モイヌ・ディヴェルヴィユ
クロード=セバスチャン・ド・ヴィユー
ジョゼフ=フランソワ・エルテル・ド・ラ・フレニエール
ルイ=ピエール神父
族長マドカワンド
サー・ウィリアム・フィップス
ベンジャミン・チャーチ
ピーター・シュイラー

ウィリアム王戦争(ウィリアムおうせんそう, 英語: King William's War, 1689年 - 1697年)は、またの名を第二次インディアン戦争という。第一次はフィリップ王戦争、第三次はラル神父戦争、第四次はル・ルートル神父戦争、第五次はジョージ王戦争、そして第六次はフレンチ・インディアン戦争である[1][2])。大同盟戦争の北アメリカ植民地における戦争であるが、植民地には両国とも遠征軍を派遣できず、それぞれが独自の兵力で対戦した。北アメリカではイギリス国王ウィリアム3世の名を取ってウィリアム王戦争とよばれている[3]

ヌーベルフランスアベナキ同盟は、イングランドのアカディアでの勢力拡大を阻止できる実力があった。アカディアの境界はヌーベルフランスにより、メイン南部のケネベック川と定められていた[4][5][6]レイスウェイク条約(ライスワイク条約)では、ヌーベルフランス、ニューイングランド、そしてニューヨークの国境と辺境の入植地は戦前の状態を維持という結論に達した[7]。しかし、北アメリカでの決着は現地の判断にゆだねられたため[3]、その後もまだ戦闘は続いた[7]

戦争の発端

ウィリアム3世(オラニエ公ウィレム3世)

1685年の、プファルツ選帝侯カール2世の死去に伴い、相続をめぐってオーストリアスペインオランダスウェーデンなど欧州諸国は、ルイ14世の相続権主張に対抗するためアウクスブルク同盟を結成した。オランダ総督(統領)のウィレム3世名誉革命後にウィリアム3世として即位したイングランド王国も後にこの同盟に加わった[3]

北アメリカでは、ヌーベルフランスと、1686年ニューイングランド自治領として統一されたイギリス人入植地北部との間に緊張が高まっていた。ニューイングランドとイロコイ連邦は、ヌーベルフランスとアベナキ同盟を相手に戦った、イロコイ族は経済面で重要な毛皮交易を支配しており、1680年からフランスと敵対関係にあった[8]。イングランドの強い勧めにより、イロコイ族はヌーベルフランスと西方の部族との交易を中断した。ヌーベルフランスはこれへの報復として、ニューヨーク西部のセネカ族を襲った。その見返りに、ニューイングランドはイロコイ族に支援して、ヌーベルフランスのラシーヌを襲撃させた[9]

ニューイングランドとアカディアの間でも、境界を巡って同じような緊張が走っていた。ヌーベルフランスはこの境界を、メインの南にあるケネベック川であると定めていた[10][11][12]。マサチューセッツ(当時は勅諚によりメインも含まれていた)のイングランド人入植者は、アカディアに入植地を拡張する一方で、ヌーベルフランスは、自らの主張を正当化するため、カトリック教会を、メインの3つの最も大きな集落にそれぞれ建てた。ひとつはケネベック川流域(ノリッジウォック)、もうひとつはペノブスコット川流域(ペノブスコット)、そして最後のひとつはセントジョン川の流域(メデュクトゥク)に建てられた[13][14]。他の地はともかく、アカディアの5つのインディアン部族は、フィリップ王戦争を受けてアベナキ同盟を作り、ニューイングランドの拡張を阻止するために、政治や軍事の面でヌーベルフランスと同盟を結んだ[15]

戦争

アカディアとニューイングランド

2001年現在のマサチューセッツ、メイン両州。州境の左にドーヴァー、メイン南部にサコの地名がある。

アカディアとニューイングランドを戦場とした戦いは、キャスタン戦争として知られる[16]

大同盟戦争勃発の1689年、ペノブスコット族をはじめとするアベナキ同盟はイングランド入植地への攻撃を再開し、以前にもまして激しく襲撃するようになった。[17]。その年の6月、数百人のアベナキ族とペナコック族が、カンカマガス(Kancamagus)とメサンドウィット(Mesandowit)とに率いられ、ニューハンプシャーのドーヴァーを攻撃して住民20人以上を殺し、29人を連れ去った。この29人は奴隷として売買されたと言われる。サコでも4人が殺された。これらの襲撃への対応として、24人の中隊が召集され、遺体探索とインディアンたちの追跡に当たったが、インディアンとの戦いで4分の1が戦死したため、帰還を余儀なくされた[18]

1689年の8月ジャン=ヴァンサン・ダバディ・ド・サンキャスタンルイ=ピエール・テュリ神父[19]アベナキの戦闘集団を率いて、ペマキッド(現在のメイン州ブリストル)を攻略して砦を破壊した。イングランドにとって、ペマキッドの陥落は大きな挫折となり、アカディアとニューイングランドの境界線は、メインのカンゾ(ファルマス)にまで戻された[20]

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ベンジャミン・チャーチ

ニューイングランドはこれへの報復として、ベンジャミン・チャーチにアカディアを襲撃させた。ウィリアム王戦争の間、チャーチは4つのニューイングランドの襲撃隊を率いて、アカディア人やアベナキ同盟諸族との対戦のため、メインを含むアカディアへの遠征を繰り返した。1689年9月21日、最初のアカディアへの遠征で、チャーチと250人の軍勢は、ファルマスにとどまろうとするイングランド人入植者を敵から守った。アベナキ同盟諸族の反撃により、チャーチ軍の21人の兵が戦死したが、チャーチ自身の防御は効を奏し、インディアンたちは撤退した[21]

その後チャーチは、無防備なイングランド人入植者をその場残してボストンに戻った。翌年の春、キャスタンが率いる400人のフランスとインディアンの部隊が、サーモンフォールズ(現在のメイン州バーウィック)を破壊してからファルマスに戻り、ロイヤル砦の戦いでファルマスのすべてのイングランド人入植者を虐殺した。その後チャーチは、夏になってファルマスの集落に戻り、遺体を埋葬した[22]。ロイヤル砦の陥落により、メインの人口が減少したため、インディアンたちは、報復されることなく、ニューハンプシャーとの境界を攻めることができるようになった[23]

ポートロワイヤルの戦い (1690年)

サー・ウィリアム・フィップス

サー・ウィリアム・フィップスが指揮を執るニューイングランド軍は、報復として、アカディアの首都であるポートロワイヤルを攻撃した。これが、1690年に始まったポートロワイヤルの戦いである[24]。フィップスは7隻から成るイングランド艦隊に、736人のニューイングランドの兵を乗せていた。アカディア総督のド・メネヴァルは2日間の戦いの後に、条件付きの降伏をした。これにより駐屯隊は教会に監禁され、メネヴァルは自宅に閉じ込められた。ニューイングランド軍は、自分たちのものとなった砦を破壊し始めた[25]。ポートロワイヤルの住民も教会に閉じ込められ、イギリス国王への忠誠を宣言させられた[26]

フィップスは去ったが、6月にニューヨークからまた軍艦がやってきて、町はよりひどく破壊された[27] 。水夫たちは町に火を放ち、町や教会から物を略奪した[28] 。ニューイングランド軍が再び去っていき、当時のアカディア総督ジョゼフ・ロビノー・ド・ヴィユボンが、首都を、内陸のより安全なナシュワーク砦(現在のニューブランズウィック州フレデリクトン)に移した。ここは、1699年に、ポートロワイヤルが首都として修復されるまで、アカディアの中心地であった[29]

かつてのアカディアの地図の再現図

1690年9月11日、チャーチは2度目のアカディア遠征のため、300人の兵を率いてカスコ湾に到着した。彼の任務は、アベナキ同盟に占領されているイングランドのペジェプスコット砦(現在のメイン州ブランズウィック)を解放することだった[30] [31]。チャーチはリヴァモアフォールズから40マイル(64キロ)上流に行き、インディアンの集落を攻撃した。チャーチの部隊は3人または4人のインディアンを銃撃し、彼らは撤退した。チャーチは、イングランド兵たちがウィグワム(インディアンの小屋)の中にいるのを発見した。6人または7人のインディアンを虐殺し9人を連れ去った[32]。数日後、アベナキ同盟の部族が、報復としてパープードックポイントのケープエリザベスでチャーチ軍を襲い、兵を7人殺し、24人を負傷させた[33]

ウィリアム王戦争中、ポストロード沿いに、80軒の入植者の家や丸太小屋が立ち並ぶウェルズの町が、1691年6月9日襲撃にあった。襲撃したのは、族長モクサス指揮下の200人のインディアンだった。民兵隊大尉ジェームズ・コンヴァースと兵たちは、門つきの砦柵の中にいた中尉ジョセフ・ストアラーの駐屯隊を守った。もう一人の族長であるマドカワンドが、翌年また来るとニューイングランド兵を脅かした[34]

インディアンたちは撤退と共に、ケープネディックから離れた場所にあるヨークへ行き、そこの船の1隻に乗り込んで乗組員のほとんどを殺し、また集落をも焼いた[35]

1692年の始め、およそ150人のアベナキ族とテュリ神父がヨークで、イングランド系入植者を約300人殺害または捕囚して集落を焼いた。これはキャンドルマスの虐殺として知られるようになった[36]

その1692年にチャーチの3度目のアカディア遠征が行われ、この時彼は、450人の兵を連れてペノブスコット(現在のインディアンアイランド)を襲撃した[37] チャーチと兵たちはその後タノコック(現在のメイン州ウィンスロウ)を襲撃した[38]

1693年、ニューイングランドのフリゲート艦がまたもポートロワイヤルを攻撃し、12軒の民家のほとんどと、穀物でいっぱいになっていた3つの納屋を焼いた[39]

1694年7月、フランス人士官のクロード=セバスチャン・ド・ヴィユーと、アベナキの族長ボモシーンに率いられた約250人のアベナキ族が、イングランド集落であるニューハンプシャーのダラム(オイスターリバー)を襲った。その後1696年8月に、ヴィユーはサンキャスタンと共に、ペマキッドの戦いに参戦した。 [40]

ペマキッドの戦い

ピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユ

1696年、ヌーベルフランスとアベナキ同盟が、サンキャスタンとピエール・ル・モイヌ・ディベルヴィユの指揮のもと、アカディアに戻ってきて1696年7月14日の海戦(ファンディ湾の戦い)を戦い、その後メインのペマキッドを襲った。これへの報復として、チャーチは4度目のアカディア遠征を行い、シグネクト地峡のアカディア人集落を攻撃し、また、当時アカディアの首都だったナシュワーク砦(現在のフレデリクトン)にも襲撃をかけた[41]

ケベック、ニューヨーク

1689年の8月に、1500人のイロコイ族が、ヌーベルフランス総督デノンヴィユの侵略への報復として、ラシーヌのフランス系住民の集落を攻撃した。デノンヴィユに代わってヌーベルフランスの総督に就任した、ルイ・ド・ボード・ド・フロンテナックは、その後オノンダガのイロコイ族の集落を攻撃した。そしてヌーベルフランスとインディアン同盟はその後、1690年の始めに、ニューヨークのイングランド系住民の集落を襲撃した。これはシェネクタディの虐殺として、特に知られている[42][43]

ニューイングランド艦隊を砲撃するヌーベルフランス軍

1690年、マサチューセッツによるヌーベルフランス侵略で、4月にポートロワイヤルを攻略したサー・ウィリアム・フィップスが、同年の9月ケベックに乗り込んだ。この時もフィップスの艦隊が出動したが、ヌーベルフランスの総督フロンテナックは、ニューイングランド側の戦略を察知していた。フロンテナックは兵力をケベックの防御に集中させ、フィップス軍の撃退に成功した。その後フランスはポートロワイヤルを奪回し、現地のインディアン部族と同盟を結ぶことになった[3]

イロコイ連邦は、イングランドとの同盟関係の弱さに悩まされた。1693年と1696年、フランスとインディアンの連合軍はイロコイ族の集落を荒らし、作物をめちゃめちゃにした[44]1697年の平和条約締結後、イロコイ族はイングランド系入植者から見捨てられ、1701年までヌーベルフランスと戦闘行為を共にした[45]。その1701年、モントリオールでフランスとイロコイ族の和議が成立し、条約が結ばれた[46]


ハドソン湾

マニトバ州のヨークファクトリー(1853年)

英仏の小競り合いは、ハドソン湾にも影響を及ぼした。毎年のように毛皮交易所の奪い合いと奪還が続き、1686年には、ディベルヴィユ率いる軍勢がモントリオールから陸路ハドソン湾へ向かい、ムース、ルパーツ、オールバニの交易所を占拠した。ウィリアム王戦争勃発後は、双方による海戦も起こり、1697年9月のハドソン湾の戦いでは、ディベルヴィユのペリカン号は単独で3隻のイングランド艦を迎撃した。ディベルヴィユはヨークを包囲して陥落させ、ここをブルボン砦とした。後のレイスウェイク条約ではフランスがジェームズ湾、イギリスがヨークを確保する予定だったが、ヨークの陥落により、フランスがヨーク、イギリスがジェームズ湾となった。フランスの占拠により、ヨークで2万ポンドの損失を出したイングランドには大いに不満が残った[47]

条約締結とアン女王戦争

1697年のレイスウェイク条約で英仏両植民地の戦いは終わり、両植民地の境界は「戦前の状態に」戻された。この平和は長くは続かなかった[48]。イングランドではウィリアム3世とメアリー2世夫妻の死後、メアリー2世の妹アンが即位した。一方フランスのルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップスペインの王位に就き、スペインとフランスが縁続きになることで、ヨーロッパや植民地に与える影響をイングランドは恐れた。これが再び英仏対決へとつながって行った[49]

このアン女王戦争では、イロコイ族はヨーロッパ人相手にうまく立ち回り、双方から贈り物があったにもかかわらず、兵としていずれの側につくことをも拒んだ[50]

関連項目

脚注

  1. ^ Writing Early American History. Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2005; pg. 74.
  2. ^ Herbert Milton Sylvester. Indian Wars of New England: The land of the Abenake. The French occupation. King Philip's war. St. Castin's war 1910.
  3. ^ a b c d 北米イギリス植民地帝国史 後編 その3
  4. ^ William Williamson. The history of the state of Maine. Vol. 2. 1832. p. 27
  5. ^ Griffiths, E. From Migrant to Acadian. McGill-Queen's University Press. 2005. p.61
  6. ^ Campbell, Gary. The Road to Canada: The Grand Communications Route from Saint John to Quebec. Goose Lane Editions and The New Brunswick Heritage Military Project. 2005. p. 21.
  7. ^ a b 2.1: King William's War
  8. ^ The Iroquois restoration: Iroquois diplomacy on the colonial frontier, 1701-1754 By Richard Aquila. University of Nebraska Press. 1997. p. 43
  9. ^ Richard Aquila, The Iroquois restoration: Iroquois diplomacy on the colonial frontier, 1701-1754 University of Nebraska Press. 1997. p. 44
  10. ^ William Williamson. The history of the state of Maine. Vol. 2. 1832. p. 27
  11. ^ Griffiths, E. From Migrant to Acadian. McGill-Queen's University Press. 2005. p.61
  12. ^ Campbell, Gary. The Road to Canada: The Grand Communications Route from Saint John to Quebec. Goose Lane Editions and The New Brunswick Heritage Military Project. 2005. p. 21.
  13. ^ Meductic Indian Village / Fort Meductic National Historic Site of Canada”. Parks Canada. 2011年12月20日閲覧。
  14. ^ John Grenier, The Far Reaches of Empire. University of Oklahoma Press, 2008, p. 51, p. 54.
  15. ^ Wabanaki
  16. ^ Herbert Milton Sylvester, Indian Wars of New England: The land of the Abenake. The French occupation. King Philip's war. St. Castin's war 1910
  17. ^ ABBADIE DE SAINT-CASTIN, JEAN-VINCENT D’, Baron de Saint-Castin - Dictionary of Canadian Biography Online
  18. ^ Clayton, W. W. Full text of "History of York County, Maine. With illustrations and biographical sketches of its prominent men and pioneers", 1888. p. 51
  19. ^ http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?id_nbr=562&PHPSESSID=m3tj852vp2kc6522vmk91nd765
  20. ^ Conquering the American wilderness: the triumph of European warfare in ... By Guy Chet, p. 81
  21. ^ Drake, The Border Wars of New England, p. 33
  22. ^ Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ..., pp.175-176
  23. ^ Conquering the American wilderness: the triumph of European warfare in ... By Guy Chet; p. 82
  24. ^ John Reid, "1686-1720: Imperial Intrusions", in Buckner, P. and Reid J. (eds), The Atlantic Region to Confederation: A History, Toronto University Press. 1994. p. 82.
  25. ^ Brenda Dunn. A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800. Nimbus Publishing, 2004. p. 38
  26. ^ Brenda Dunn. A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800. Nimbus Publishing, 2004. p. 39
  27. ^ John Reid. "1686-1720: Imperial Intrusions". In Buckner, P. and Reid J. (eds). The Atlantic Region to Confederation: A History. Toronto University Press. 1994. p. 82.
  28. ^ Brenda Dunn. A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800. Nimbus Publishing, 2004. p. 40
  29. ^ Brenda Dunn. A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800. Nimbus Publishing, 2004. p. 45
  30. ^ Drake, p. 66(翻訳元にタイトル未記載)
  31. ^ Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ..., pp.179-180
  32. ^ Drake, p. 67 (翻訳元にタイトル未記載)
  33. ^ Drake, p.69 (翻訳元にタイトル未記載)
  34. ^ Roach, Marilynne K. (2002). The Salem Witch Trials: A Day-by-Day Chronicle of a Community Under Siege. Lanham, Maryland. pp. 163. http://books.google.com/books?id=TvxES1lB6XoC&lpg=PA163&ots=YUA3fyQH7i&dq=Madockawando%20Converse%20do&pg=PA163#v=onepage&q&f=false 
  35. ^ Clayton, W. W. Full text of "History of York County, Maine. With illustrations and biographical sketches of its prominent men and pioneers", 1888. p. 51
  36. ^ [http://www.waymarking.com/waymarks/WME5D9_Candlemas_Massacre_York_ME Candlemas Massacre - York, ME - Maine Historical Markers on Waymarking.com ]
  37. ^ Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ... p. 212
  38. ^ Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ... p. 214
  39. ^ Brenda Dunn. A History of Port Royal, Annapolis Royal: 1605-1800. Nimbus Publishing, 2004. p. 43
  40. ^ VILLIEU, CLAUDE-SÉBASTIEN DE - Dictionary of Canadian Biography Online
  41. ^ Benjamin Church, Thomas Church, Samuel Gardner Drake, The history of the great Indian war of 1675 and 1676, commonly called Philip ... p.215
  42. ^ Maritime Indian Treaties In Historical Perspective
  43. ^ King William's War
  44. ^ Taylor, American Colonies: The Settling of North America, p.290
  45. ^ Taylor: American Colonies: The Settling of North America, p.291
  46. ^ 木村和男編、『カナダ史 世界各国史23』 山川出版社、1999年、100頁。
  47. ^ 木村和男著 『毛皮交易が創る世界 ハドソン湾からユーラシアへ』 岩波書店、2004年、25-26頁。
  48. ^ Trafzer, Clifford E. As long as the grass shall grow and rivers flow a history of Native Americans. Fort Worth: Harcourt College, 2000
  49. ^ King William's War - History of the USA
  50. ^ A People & a Nation: A History of the United States to 1877