「津下紋太郎」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (kotobank.jp) (Botによる編集) |
m Bot作業依頼: 倉敷市域の記事改名に伴うリンク修正 (藤戸地区) - log |
||
3行目: | 3行目: | ||
== 人物 == |
== 人物 == |
||
岡山県[[平民]]・津下豊次郎の長男<ref name="jinji5"/>。津下家は代々[[岡山県]][[児島郡]][[藤戸町]]天城(現・倉敷市[[藤戸 |
岡山県[[平民]]・津下豊次郎の長男<ref name="jinji5"/>。津下家は代々[[岡山県]][[児島郡]][[藤戸町]]天城(現・倉敷市[[藤戸地区|藤戸町]])に住し、古くは[[農業|農を業]]とし、荒物酒類商を営む<ref name="jinji11">[{{NDLDC|1072938/236}} 『人事興信録 第11版 下』]ツ3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月31日閲覧。</ref>。[[1921年]]、[[家督]]を相続する<ref name="jinji11"/>。[[1885年]]に[[亀山昇]]の紹介で[[同志社普通学校]]に入学し、[[1893年]][[同志社神学校]]を卒業した<ref>『同志社山脈』 188頁</ref>。 |
||
[[1884年]]に岡山で[[オティス・ケーリ]]から[[洗礼]]を受ける<ref>津下の回想によれば[[金森通倫]]から(『同志社山脈』 188頁)。</ref>。奈良県吉野の山林[[地主]]・[[土倉庄三郎]]の子・[[土倉龍次郎|龍次郎]]が同志社の同窓だった関係で、[[1899年]]に土倉家の[[日本統治時代の台湾|台湾]]事業総支配人となり、山林開墾、[[樟脳]]の生産などの事業に携わる<ref name="kotobank"/>。 |
[[1884年]]に岡山で[[オティス・ケーリ]]から[[洗礼]]を受ける<ref>津下の回想によれば[[金森通倫]]から(『同志社山脈』 188頁)。</ref>。奈良県吉野の山林[[地主]]・[[土倉庄三郎]]の子・[[土倉龍次郎|龍次郎]]が同志社の同窓だった関係で、[[1899年]]に土倉家の[[日本統治時代の台湾|台湾]]事業総支配人となり、山林開墾、[[樟脳]]の生産などの事業に携わる<ref name="kotobank"/>。 |
2024年4月15日 (月) 22:33時点における最新版
津下 紋太郎(つげ もんたろう、1870年5月7日(明治3年4月7日)[1] - 1937年(昭和12年)9月20日[2])は、日本の実業家、同志社理事。参議院議員の羽田雄一郎は曽孫にあたる。
人物[編集]
岡山県平民・津下豊次郎の長男[1]。津下家は代々岡山県児島郡藤戸町天城(現・倉敷市藤戸町)に住し、古くは農を業とし、荒物酒類商を営む[3]。1921年、家督を相続する[3]。1885年に亀山昇の紹介で同志社普通学校に入学し、1893年同志社神学校を卒業した[4]。
1884年に岡山でオティス・ケーリから洗礼を受ける[5]。奈良県吉野の山林地主・土倉庄三郎の子・龍次郎が同志社の同窓だった関係で、1899年に土倉家の台湾事業総支配人となり、山林開墾、樟脳の生産などの事業に携わる[2]。
諸会社の重役で、満州国財政顧問を兼ねる[3]。カルピス製造社長、鶴見臨港鉄道、日本石油、日本コンクリートポール、帝国ニューヒューム鋼管各取締役、北樺太石油監査役などをつとめる[3]。
1919年に同志社理事となり、海老名弾正の総長就任に最後まで反対した。1928年の有終館出火事件後には西村金三郎らとともに海老名の追い落としと大工原銀太郎(前九州帝大総長)の擁立を画策した[6]。
宗教はキリスト教[3]。東京府在籍で、住所は東京市本郷区駒込富士前町[3]。
家族・親族[編集]
- 津下家
- 父・豊次郎(1849年 - ?、岡山平民)[1]
- 妻・しづ(志津[1]、1878年 - ?、東京、櫛部信一の妹)[1]
- 長男・統一郎(1903年 - ?)[3]
- 男・綱平(1909年 - ?)[3]
- 二女[3]
- 三女[3]
- 孫[3]
- 親戚
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 下』人事興信所、1937 - 1939年。
- 『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年。
- 同志社山脈編集委員会編 『同志社山脈』 晃洋書房、2003年。ISBN 4771014086