二階堂トクヨ
人物情報 | |
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全名 | 二階堂 トクヨ |
生誕 |
1880年12月5日 日本宮城県志田郡桑折村[1](現・大崎市三本木桑折) |
死没 | 1941年7月17日(60歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京女子高等師範学校文科[1] |
両親 | 二階堂保治、二階堂キン[1] |
学問 | |
時代 | 明治 - 昭和 |
活動地域 | 日本 |
研究分野 | 体育学 |
研究機関 | 東京女子高等師範学校・二階堂体操塾 |
主な指導学生 | 人見絹枝[2] |
称号 | 勲六等瑞宝章[1] |
主な業績 | 日本へのホッケー・クリケットの紹介[3] |
二階堂 トクヨ(にかいどう トクヨ、1880年12月5日 - 1941年7月17日)は、宮城県大崎市(旧三本木町)出身の教育者。日本女子体育大学創設者[2][3]で、「女子体育の母」と称される[2]。
概要
明治13年(1880年)12月5日に宮城県志田郡桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・二階堂保治、母・二階堂キンの二階堂家の長女として生まれる[1]。文学少女に成長し、15歳で准教員の免許を取得する[1]。地元の三本木小学校で准教員をしていたが、その後に福島県尋常師範学校と東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を卒業して教師となった。赴任先で本業の国語の傍ら、体操を教えたことがきっかけで、イギリスに留学するなど体操科の勉強に励んだ。イギリスに派遣された日本女性の体育留学生は井口阿くり以来2人目であった[4]。1915年(大正4年)に東京女子師範学校教授となり、第六臨時教員養成所教授を兼任する[1]。
1922年、私財を投げ打ち、日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開いた[1]。塾生には1928年のアムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、陸上800m走で同じく日本女子史上初となる銀メダルを獲得した人見絹枝がいた[2]。1941年、60歳で死去。死後、勲六等瑞宝章が贈られた[1]。墓所は築地本願寺和田堀廟所[1]。郷里の三本木にある大崎市三本木総合支所には、二階堂の胸像が設置されており[3]、2019年3月17日には二階堂トクヨ先生を顕彰する会と館山公園を復活させる会が協同して二階堂を顕彰する看板を設置した[2]。
その他
東京女子高等師範学校の生徒時代には安井てつの指導を受けた[4]。安井は後に二階堂体操塾の理事を務めることで二階堂を支えた[4]。
イギリス留学で学んだスポーツの普及に努めた。クリケットとホッケーを日本に初めて紹介したのは二階堂である[3]。
演じた人物
脚注
参考文献
- 曽我芳枝・平工志穂・中村有紀「女性におけるスポーツ・運動実践―東京女子大学の体育を中心として―」『東京女子大学紀要論集. 科学部門報告』第65号、東京女子大学論集編集委員会、2015年、1987-1999頁、NAID 120006512580。