コンテンツにスキップ

沈懐文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

沈懐文(しん かいぶん、義熙5年(409年)- 大明6年3月27日[1]462年5月11日))は、南朝宋官僚文人は思明。本貫呉興郡武康県

経歴

[編集]

沈宣の子として生まれた。若くして道教の教理を好み、文章を得意とした。「楚昭王二妃詩」を作って、世間の評判を取った。はじめ揚州に召されて従事となり、西曹に転じた。元嘉16年(439年)、江夏王劉義恭の下で司空行参軍をつとめた。元嘉17年(440年)、劉義恭が司徒となると、懐文も従って司徒参軍事に転じ、東閤祭酒となった。新安郡太守をつとめた父が死去すると、手厚く葬った。喪が明けると、尚書殿中郎に任じられた。雷次宗何尚之らとともに文学を愛する仲間を集めて詩を作り、懐文の作品は最も美しいと評価された。仲間たちはみな官を辞していたが、懐文はひとり官に留まっていた。元嘉26年(449年)、隨王劉誕後将軍雍州刺史として襄陽に入ると、懐文はその下で後軍主簿となり、義成郡太守を兼ねた。元嘉28年(451年)、文帝は劉誕を広州刺史とし、懐文をその下で南府記室とすべく、先に通直郎に任じた。懐文は南に行くのを断ったため、文帝の不興を買った。

弟の沈懐遠が東陽公主の侍女の王鸚鵡を妾に迎えた。劉劭巫蠱をおこなったとき、王鸚鵡は巫蠱に加担していた。事件が発覚すると、懐文はこの事件の影響を受けて、治書侍御史とされた。元嘉30年(453年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、懐文は中書侍郎となった。孝武帝が劉劭を討つべく起兵すると、劉劭は懐文を呼び出して檄文を作らせようとした。懐文が固辞したため、劉劭の怒りを買い、殷沖の取りなしでその場は事なきをえた。間道を通って新亭に逃れ、孝武帝に帰順した。竟陵王劉誕の下で衛軍記室参軍となり、新興郡太守を兼ねた。さらに劉誕の下で驃騎録事参軍・淮南郡太守に転じた。文帝の喪の終わらないうちに、劉誕は内斎を起こそうとしたため、懐文がこれを諫めて取りやめさせた。まもなく懐文は揚州治中従事史に転じた。さらに揚州別駕従事史となった。孝建3年(456年)、西陽王劉子尚が揚州刺史となったが、懐文は揚州での職に留まった。

孝武帝は西州の旧館を廃して、劉子尚を東城に転居させようとした。懐文はこれに反対の意見を述べたが、聞き入れられなかった。大明2年(458年)、尚書吏部郎に転じた。朝廷で揚州の治所を会稽に移すことが議論された。懐文はこれに反対したが、やはり容れられなかった。大明3年(459年)、劉子尚が会稽に移ると、懐文はその下で撫軍長史となり、撫軍府と揚州の事務を代行した。当時、獄中に繋がれた囚人の数が非常に多かったため、懐文が着任すると、揚州五郡の936の刑獄を調査して、刑事行政の公平化を図った。

入朝して侍中となった。孝武帝の信任を得て、会稽郡太守とするとの声もあったが、その人事は行われなかった。竟陵王劉誕が広陵で反乱を起こして敗死すると、反乱に加担した人々への大規模な殺戮がおこなわれ、殺された人々の首級が石頭の南岸に集められて、これを髑髏山と言った。懐文はやめさせるよう奏上したが、孝武帝は聞き入れなかった。

孝武帝はたびたび遊興行楽に出かけたため、懐文はこれを諫めた。孝武帝はかつて処断した顔竣になぞらえて恫喝し、諫言を聞き入れなかった。また孝武帝が宴会を開くたび、懐文は酒を飲まず、他の列席者のように戯れふざけることも好まなかったため、孝武帝と懐文のあいだに溝ができるようになった。謝荘は人と異なる態度を取らないよう懐文に忠告したが、懐文は幼少以来の性格は一朝に変えられないと答えた。

大明5年(461年)、晋安王劉子勛の下で征虜長史・広陵郡太守となった。大明6年(462年)、朝廷に呼び出されて仕事を終えると、江北の任地に戻るよう命じられたが、娘の病気を理由に建康に長く留まっていた。御史の糾弾を受けて免官され、禁錮10年とされた。懐文は邸を買って帰郷しようとしたため、孝武帝の怒りを買って獄に下され、殺害された。享年は54。

子女

[編集]
  • 沈淡
  • 沈淵
  • 沈沖(字は景綽)

脚注

[編集]
  1. ^ 『宋書』巻6, 孝武帝紀 大明六年三月丁未条による。

伝記資料

[編集]