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小笠原元枝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原元枝
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不詳
死没 慶長9年6月20日1604年7月16日
改名 小笠原長徳→元枝
別名 通称:少輔三郎、治右衛門
戒名 心翁浄空大居士
官位 弾正忠兵部少輔掃部助
主君 小笠原長雄長旌長親
氏族 清和源氏義光流石見小笠原氏
父母 父:小笠原長雄、母:吉川元経の娘
兄弟 長旌元枝長秀糸賀盛家[1]三吉氏室、出羽氏室、永田氏室、君谷氏
元長長親
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小笠原 元枝(おがさわら もとしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏に属した石見小笠原氏の重臣。父は小笠原長雄

生涯

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石見国国人石見小笠原氏の14代当主である小笠原長雄の次男として生まれる。初めは祖父である小笠原長徳と同名の「長徳」と名乗っていたが、毛利輝元から「元」の偏諱を賜り、「元枝」と改名した。改名した正確な時期は不明であるが、天正8年(1580年)8月に書かれた石見小笠原氏重臣の連署起請文に「元枝」と署名をしているため、改名時期はこれ以前である。

元枝は五人張りの強弓使いだったと伝えられ、病弱だった兄・長旌に代わって天正8年(1580年)頃から石見小笠原氏の家政を執り行う。石見国三原徳森に居住し、丸山城の二の丸を預かった。

天正7年(1579年)12月、長旌と共に三原郷八幡宮を修復して「武明八幡宮」と命名し、天正8年(1580年)や天正11年(1583年)等に度々寄進を行った。 天正8年(1580年)、石見小笠原氏の重臣たちが吉川元春の三男・経言(後の広家)を小笠原長旌の養子とするよう要請した書状に、元枝も名を連ねている[2]。なお、その要請は輝元の反対により成立しなかった。また、小笠原長扶と連署での書状がいくつか残されており、天正10年(1582年11月3日には平田雅楽助に、天正11年(1583年1月19日には横道式部少輔に坪付状を発給している。

長旌に後継となる男子が不在であったため、長旌の娘・千代姫を元枝の次男・長親に嫁がせて後継とし、元枝をその後見と定めた。同時に長旌に実子が生まれた際にはその実子を後継とすると定めていたため、天正19年(1591年)に長旌の実子・千代童丸が生まれると、千代童丸が長旌の後継となった。しかし千代童丸は翌年に早世し、再度長親が後継となった。同時に石見小笠原氏は輝元の命により、出雲国神門郡神西に移封となる。

慶長5年(1600年)に毛利氏が防長二国に減封されると石見小笠原氏は暇を与えられ、元枝は慶長9年(1604年6月20日に出雲国神宮で死去した。

脚注

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  1. ^ 『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』16頁
  2. ^ この書状に署名したのは、小笠原長秀小笠原元枝小笠原長往小笠原長益小笠原長治小笠原長貞小笠原長扶小笠原長江小笠原長秋の9名。

参考文献

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  • 萩藩閥閲録』巻81「小笠原友之進」、巻94「小笠原弥右衛門」
  • 川本町誌編纂委員会編『川本町誌 歴史編』(1982年
  • 三卿伝編纂所編『毛利元就卿伝』(マツノ書店1984年
  • 井上寛司「石見小笠原文書について」(島根大学山陰地域研究総合センター編『山陰地域研究』(伝統文化)第2号、1986年
  • 川本町歴史研究会編『川本町文化財シリーズⅤ 石見小笠原氏史と伝承』(川本町歴史研究会、2001年