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熊野古道

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熊野古道(くまのこどう)は、熊野三山熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称。

牛馬童子像

概要

熊野古道とは、主に以下の5つの道を指す。

大門坂

これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的景観」)として登録された。なお、その登録対象には紀伊路は含まれていない。

熊野古道(大阪では熊野かいどうといわれている)を紹介した銅版(大阪市北浜

このような「道」が世界遺産として登録された他の例には、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(文化遺産、スペイン)がある。道が世界遺産として登録されること自体はまれである[1]

熊野古道の遺構の特徴として、舗装に用いられた石畳が残っていることがある。石畳が用いられたのは、紀伊半島が日本でも有数の降雨量の多い地域だからである。また、江戸時代に紀州藩により整備された一里塚が残っている個所もある。

熊野古道の中には、国道や市街地のルートと重複していて吸収されてしまったものもある[2]。こうしたことが生じるのには紀伊半島の地理が関係している。すなわち、紀伊半島の中央部は、際立った高山こそないものの、どこまでも続く山々と谷に覆われている。このため、古来より交通開発が困難であり、交通路に適する場所は限られている。現在もこの事情は同様であり、結果として、現代の主要な交通路は古人の拓いた道に並行し[3]、さらには上述のように重複することとなる。

世界遺産に登録されたものが熊野古道の全てではないことにも留意する必要がある。これは、熊野詣それ自体の盛衰もあって正確なルートが不明になっている区間があること、歴史的な変遷から生じた派生ルートがありそのすべてが対象となっていないこと等による。なお、そうした「忘れられた」ルートを再発見しようとする地元の動きもある。

歴史

熊野周辺は、日本書紀にも登場する自然崇拝の地であった。

907年宇多法皇の熊野行幸が最初と言われる。

熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年白河上皇の熊野行幸からと言われている。白河上皇はその後あわせて9回の熊野行幸を行った。これにより京都の貴族の間に熊野詣が行われるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。

江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようになったといわれている。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が記録されたこともあったようだ。

明治維新後、神仏分離令により熊野古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。

熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路として使用されつづけた。

九十九王子

熊野古道(特に紀伊路、中辺路)には大阪の基点であった淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から熊野三山までに100近くの熊野権現を祭祀した九十九王子があった。現存するものは少ない。

熊野古道の地図

熊野古道の地図

脚注

  1. ^ なお、世界遺産(文化遺産)としての「紀伊山地の霊場と参詣道」には熊野古道等の「参詣道」以外にも、吉野・大峯、熊野三山、高野山を含む。
  2. ^ 例えば、かつて十津川街道として知られていたルートは国道168号線に吸収されている。紀伊路(大阪-田辺)が登録外であるのも同様の事情による。なお、世界遺産に登録されたルートでも、大辺路・伊勢路の大部分は国道42号線と重複している。
  3. ^ 並行している例として、中辺路と国道311号線、JR紀勢本線国道42号線の紀伊半島部分と大辺路・伊勢路がある。また、小辺路や大峯奥駈道のような例外もある。

関連項目

外部リンク