烏帽子形八幡神社

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烏帽子形八幡神社
Eboshigatahachiman-Jinja-honden1.jpg
所在地 大阪府河内長野市喜多町305
位置 北緯34度26分27.0秒
東経135度34分8.4秒
座標: 北緯34度26分27.0秒 東経135度34分8.4秒
主祭神 素盞鳴命 足仲彦命
社格 村社
主な神事 10月10日
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烏帽子形八幡神社(えぼしがたはちまんじんじゃ)は、大阪府河内長野市喜多町305に所在する神社旧社格は村社。

祭神[編集]

末社[編集]

  • 恵比須社(島根県美保神社御分霊)※例祭日は一月七日
  • 白山社
  • 平野社
  • 稲荷社(伏見大社御分霊)

歴史[編集]

烏帽子形山には楠木七城(河内七城)のひとつとされる烏帽子形城があった。楠小二郎がこれに拠い、城の鎮護として創祀したものと伝えられる。その後天台宗神宮寺である高福寺が創建されるなどしたが荒廃し、室町時代文明12年(1480年)に、河内源氏の末裔と言われる石川八郎左衛門尉が新たに入母屋造りの社殿を建立した(1965年昭和40年)の解体修理時に棟札・棟束からこの年代のわかる墨書が発見された)。その後、室町末期に一度修理されたのみで荒廃していたが、元和3年(1617年)に楠木一族の後裔と言われる甲斐庄正房(正保)が、大阪四天王寺の普請奉行を勤めた折、その竣工後に自身の居城・烏帽子形城の鎮守が荒廃しているのを嘆き、その余材で改修したとされる(元和8年(1622年)8月に竣工)。

明治初年、神仏分離により神宮寺を廃絶、1868年(明治5年)神社のみ村社に列格。1903年(明治40年)10月19日、「村社廃合」により当時の南河内郡三日市村大字小塩字宮山に鎮座の小塩八幡神社を当社に合祀、1904年(明治41年)12月には神饌幣帛料供進社の指定を受けた。

境内[編集]

境内
本殿(重要文化財)
文明12年(1480年)の建立。入母屋造檜皮葺。桁行三間、梁間二間、身舎柱は円柱とし、側面後端に脇障子を設け、木部は朱塗りとする。正側面三方に縁を設け、擬宝珠付き高欄をめぐらす。向拝は三間の総向拝で、中央に五段の木階を造り、浜床が付く。1940年(昭和15年)に古文書「河州烏帽子形八幡宮伝記覚」を添付して国宝申請し、同年5月14日、国宝(現行法の重要文化財に相当)の指定を受けた。その後文化財保護法の施行に伴い、1950年(昭和25年)8月29日に国の重要文化財に指定された。1965年(昭和40年)7月に解体修理が行われ、建立当時の姿に復元された。(1966年(昭和41年)9月上棟)

本殿の向かいには、楠木正成湊川の戦いに出陣の折、武運を祈願して植えたとされる老松の巨木「楠公武威の松」があったが、1934年(昭和9年)の室戸台風で倒れ、樹齢約600年の命を全うした。現在はその輪切りにされたものが境内に納められている。

本殿の横には、忠尊王が戦勝記念に御参拝された時、御腰を掛けられたと言われる御座石がある。

行事[編集]

だんじり宮入

祭礼は10月10日。10月体育の日の前々日には小塩・喜多・上田順でそれぞれの氏子区が地車(だんじり)を奉納し、五穀豊穣・無病息災を祈願する。

その他[編集]

上田・喜多・小塩・楠ヶ丘・大師町の五氏子区の氏神。

言い伝えによれば当烏帽子形山は応神天皇の別宮があったところで、山嶺は殿閣のあった跡とも言われている。

また、京都の石清水八幡宮の例祭放生会の放魚の儀は、当烏帽子形神社により川に放魚を行なったときが初めとするとも言われている。

交通アクセス[編集]

関連項目[編集]