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源資通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源資通
時代 平安時代中期
生誕 寛弘2年(1005年
死没 康平3年8月23日1060年9月20日
官位 従二位参議
主君 三条天皇後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 宇多源氏
父母 父:源済政、母:源頼光の娘
兄弟 資通藤原能長室、藤原信家室、藤原定頼正室
源頼光の娘、藤原憲房の娘
師賢政長、成仲、師俊、為忠、源経成
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源 資通(みなもと の すけみち)は、平安時代中期の公卿宇多源氏播磨守源済政の長男。官位従二位参議

経歴

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後一条朝にて大膳亮六位蔵人右衛門少尉式部少丞を経て、治安2年(1022年従五位下侍従に叙任される。

五位蔵人を務める傍ら、始め左馬助左兵衛佐と武官を務め、万寿2年(1025年)従五位上、万寿4年(1027年正五位下と昇進する。長元元年(1028年)左少弁に遷ると、長元3年(1030年)右中弁、長元4年(1031年従四位下に叙せられた後も、長元7年(1034年)従四位上、長元8年(1035年)権左中弁、長暦元年(1037年正四位下、長暦2年(1038年)左中弁次いで右大弁と後一条朝後半から後朱雀朝にかけて弁官を務めながら昇進する。長久4年(1043年蔵人頭(頭弁)に任ぜられ、翌長久5年(1044年正四位上参議に任ぜられ公卿に列した。

後冷泉朝に入り、寛徳2年(1045年)左大弁を兼ね、永承元年(1046年従三位に叙せられる。永承5年(1050年)20年以上に亘って務めた弁官を離れ、太宰大弐を兼ねて九州に下向し、赴任の功労により正三位に昇進。天喜2年(1054年)まで4年に亘って大弐を務めた。天喜5年(1057年従二位に至る。

康平3年(1060年)8月17日に病により出家し、同月23日薨去享年56。最終官位は参議従二位勘解由長官

人物

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管弦に秀で、琵琶源経信に教授した。和歌の心得もあり、伊勢大輔菅原孝標女[1]らと交流を持つ一方、勅撰歌人として『後拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に4首が採録されている[2]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

  • 父:源済政
  • 母:源頼光の娘
  • 妻:源頼光の娘
  • 妻:藤原憲房の娘
    • 男子:源成仲
  • 生母不明の子女
    • 男子:源師俊
    • 男子:源為忠
    • 女子:源経成

脚注

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  1. ^ 『更級日記』に孝標女と歌を詠み合う相手として源資通が登場する。
  2. ^ 『勅撰作者部類』

参考文献

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