浅水鉄男

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浅水 鉄男
[[ファイル:浅水鐵男肖像|200px]]
生誕 1908年3月28日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1934-09-07) 1934年9月7日(26歳没)
日本の旗 日本 新潟県佐渡島
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1929 - 1934
最終階級 OF-2 - Kaigun Taii (collar).gif 海軍大尉
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浅水 鉄男(あさみず てつお、1908年明治41年) 3月28日[1] - 1934年昭和9年)9月7日)は、日本海軍軍人五・一五事件の海軍側被告人を裁いた軍法会議において被告特別弁護人を務める。操縦員として夜間訓練中に殉職。最終階級海軍大尉

生涯[編集]

東京府(現・東京都)出身。芝中学を経て[2]海軍兵学校に入校した。浅水は「目から鼻にぬけた」といわれる秀才で、最終学年では第二分隊伍長(同期全体の次席)を務め[2]1928年(昭和3年)3月、海兵56期を111名中3番、恩賜で卒業した。56期の練習艦隊小林躋造司令官)は豪州方面に向かい、帰国後に京都で行われた昭和天皇即位式に堵列。術科学校教育や艦隊配乗を経て、翌年11月海軍少尉任官している。すでに同期生の山岸宏古賀清志林正義らは国家革新を目指し、秘密裏に王師会に参加していた。

五・一五事件
浅水が弁護した一人である古賀清志は、藤井斉亡き後の計画立案の中心的存在であった。

1932年(昭和7年)5月15日、上述の三名や同期生の中村義雄海兵54期三上卓ら海軍士官10名、橘孝三郎らの愛郷塾関係者、陸軍士官学校生徒は犬養毅総理を射殺した。当時霞ヶ浦海軍航空隊で操縦学生の学生長(学生中の先任者)であった[3]浅水は同期生らと相談の結果特別弁護人に選ばれた。同じく特別弁護人となった朝田肆六海兵54期)らと弁護士塚崎直義を訪問し、無報酬弁護や他の弁護人選任の約束を取り付け、清瀬一郎林逸郎などで構成される弁護団が結成された。浅水は横須賀鎮守府附となり収監された被告人らの面倒をみていたが、支払を請け負った林らの書籍購入代金が高額になり困惑する一幕もあった[4]。なお海兵同期生は、死後の遺産分配や不祥事を起こした者の進退問題にも関与するなど、家族ぐるみで親しい関係をもっていた。ただし、五・一五事件においては弁護人を出さなかったクラスもある。

現職総理を現役海軍士官が射殺する前代未聞の事件は、世界恐慌の影響で疲弊した社会状況やロンドン海軍軍縮条約での統帥権干犯問題などを背景に抱えており、被告人に対しては批判とともに同情論も存在した。海軍部内もその処分を巡って意見が分かれたが、厳罰派も同情派も事件の動機が「憂国の情」 に発することを認めて被告人らの心情に理解を示していたのであり、また新聞や世論にも同様の傾向があった[5][* 1]。同情派には加藤寛治艦隊派岡村徳長小園安名源田實板谷茂など[6]、大官では田中光顕が同調した動きをみせている[7]

海軍側被告の裁判は高須四郎大佐(海兵35期)が裁判長となり、7月24日に開廷した。公判が進むに連れて被告人に対する同情論は高まり、寄せられた減刑嘆願書は69万7千通。なかには血書が1千22通含まれていた[8]9月11日には山本高治検察官論告求刑、浅水、朝田の特別弁論が行われ、山本検察官は次の三件の要件を満たすことによって反乱罪を構成するとして、三上、古賀、黒岩勇(海兵54期)の三名に死刑を求刑した。

党を結ぶこと

軍刑法百五条には左の規定があります。 服従の道に違うことを目的として党を結びたる者は云々、六月以上五年以下の禁固に処す。と規定せられ居るより観るも明なる如く党を結ぶことのみにても罪となり処罰せらるることとなっております。

兵器を執ること

現行海軍刑法においても兵器を執りある種の犯罪を実行したるものは夫々特に重く処罰せらるることと相成っております。

反乱を為すこと

反乱を為すとは国憲に抵抗して暴動を為すことをいうのであります。軍人は国家の干城として国防の任にあたり又非常警察の場合において国家治安保護の任務に服すべきものであります。しかるにその本分に背き国憲に抵抗しその治安を紊乱するが如き行動は厳にこれを戒めねばなりません。

— 林正義『5・15事件』「東京軍法会議」

これに対し浅水は56期を代表[9]し、熱弁をふるって弁護した。この際の浅水の様子は、検察官を睨み、卓をたたき、涙ながらのものであり[10]、被告人らも涙を流した。新聞はその様子を「満員の法廷は寂として声なし」[11]と報じている。弁論内容は次の通り(適宜句読点を補った)。

(前略)わが級友が、直接行動を選ばねばならなかったのは何故でありましょうか。現在日本の世相がしからしめたのではありますまいか。憂れうべきこの世相、恐るべきこの国難の時局は、一体誰が持ち来らしめるものでしょうか。1921年(大正10年)アメリカの策略は、平和の美名に名をかりて遂にかのワシントン条約をつくりあげたのでありました。(中略)引き続き起こったのは日本移民排斥法案の通過でありました。(中略)かくして輝く希望と殉国の熱誠を抱き江田島を巣立ち、太平洋の怒涛の上に立った私達の眼前に展開された世の有様は如何でありましたか。主力艦の欠は補助艦をもって、量の欠は質をもって、そしてその燃料と爆薬の欠はただ我々の熱と意気をもって補おうと日夜研鑽、武を練り技を磨きつつあった私達の眼に映った国内の有様は果たして如何でありましたか。時弊は凝って遂に恐るべき議会中心主義となって現れ不戦条約となってその正体を暴露し、遂に亡国的ロンドン条約は締結せられたのでありました。(中略)実にのろうべきロンドン条約でありました。しかも統帥の大権が干犯せられたというに至っては誠にいうべき言葉も知らなかったのであります。遂に国難来る。1936年(昭和11年)国防の危機線 - 米国海軍の兵力量は名実共に本年(1933年)をもって日本のそれを凌駕し去ろうとしているのであります。更に翻って国内の情勢を見れば思想界の混乱は遂にその極に達し、国民は凶作に泣き不況に沈み、沈りんのはて乱をさえ思うものがあったではありませんか。(中略)彼等の心中は私達戦友がもっともよく知っております。徒に政党財閥を攻撃し、特権階級の非を鳴らすために立った彼等ではないのであります。(中略)彼等戦友の純一無雑しゅんこ(ママ)として純なる一死尽忠の誠心のみは是非共これをお汲みとり下さいますことを伏して庶幾し奉る次第であります。(後略)

— 血で描いた五・一五事件の真相 陸海軍大公判と血盟団公判の解説「同期生浅水中尉の特別弁論」
裁判長高須四郎大佐(のち海軍大将)。高須は「この判決がお国のためになるよう、ただそれのみを祈ってやまない」とのみ談話を発表した[12]

被告らは退廷の際、浅水、朝田に「ご苦労でした」と礼を述べている。翌日には海兵40期から58期の有志68名によって決議文が採択され、高須裁判長、大角岑生海相野村直邦横須賀鎮守府司令長官に提出予定であると新聞は報じている[13]11月9日に下った判決は、三上、古賀の禁固15年が最高刑であった。鈴木貫太郎は死刑判決を受けたものがいなかったことを「許すべからざる失態」と批判しているが、高須は家族に対し「被処刑者が英雄視されることを避けたかった」と語っていた[12]

翌日、浅水は朝田らと執行猶予となった林正義らの釈放を出迎えた。それから数日間、林らは救国の英雄扱いを受け、林は艦隊派の連絡掛の役割を担ってゆく[14]

この事件によって、戦前日本の政党政治は終焉を迎えた。池田清は五・一五事件に加わった海軍士官の心情につき、エリート意識と現実社会の低い評価とのギャップの存在を指摘している[15]

その後

館山海軍航空隊附となり[16]、翌年9月、第四戦隊所属重巡洋艦高雄」のケプガン(少尉のうち兵科最先任者)であった浅水は夜間演習中に佐渡島沖で行方不明となり、遺体は大湊方面で発見され収容された[17]。浅水は「女にも見まもほしき美男子」[18]で、前年の2月には百武源吾の娘と結婚しており、新妻と誕生してほどない男子が遺されている[17]。百武は娘に「寒厳一樹松」の書を贈った。

関係者

朝田肆六海軍大学校を卒業し、太平洋戦争開戦時は英国駐在武官補佐官であった。戦中は第六艦隊参謀から軍令部作戦課員に転じ、在任中に神経衰弱にいたり戦病死する[19]。林は1980年(昭和55年)、古賀は1997年平成9年)に死去した。

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ ただし井上成美大井篤豊田隈雄など同情を示さない者たちもいた。
出典
  1. ^ 昭三会(海軍兵学校56期海軍機関学校37期、海軍経理学校17期)戦公没者名簿”. なにわ会. 2012年9月7日閲覧。
  2. ^ a b 『海軍自分史』46頁-48頁
  3. ^ 『海軍自分史』66頁
  4. ^ 『5・15事件』96頁-97頁
  5. ^ 『ブーゲンビリアの花』116頁
  6. ^ 『昭和史を縦走する』63頁
  7. ^ 『5・15 事件』195頁-196頁
  8. ^ 茶本繁正『戦争とジャーナリズム』(三一書房、1991年)285頁
  9. ^ 『日本の海軍(下)』133頁
  10. ^ 『5・15事件』164頁-165頁
  11. ^ 『血で描いた五・一五事件の真相 陸海軍大公判と血盟団公判の解説』450頁
  12. ^ a b 『歴代海軍大将全覧』「高須四郎」
  13. ^ 『ブーゲンビリアの花』118頁
  14. ^ 『昭和史を縦走する』64頁
  15. ^ 『日本の海軍』134頁
  16. ^ 『海軍大尉浅水鉄男外一名叙勲ノ件』
  17. ^ a b 『異色の提督 百武源吾』107頁-108頁
  18. ^ 『5・15事件』164頁
  19. ^ 『日本陸海軍総合事典』「主要陸海軍人の履歴 朝田肆六」

参考文献[編集]