波佐見焼

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中尾郷の窯元
波佐見焼

波佐見焼(はさみやき)は長崎県東彼杵郡波佐見町付近で産する陶磁器。慶長年間、藩主大村氏が朝鮮から連れ帰った陶工に始まる。丈夫な日用品が多い。[1]

江戸時代から大衆向けの食器を巨大な連房式登窯で多量に焼いてきた。今日でも食器生産が盛ん。1990年代前半には、全国の生活雑器のシェアの1/4から1/3を占めたこともある。

歴史・特徴[編集]

大村藩主の大村喜前文禄・慶長の役から帰国するとき、朝鮮陶工の李祐慶が同行し、彼が慶長3年(1598年)に村内に登り窯を築いたのが始まりとされる。当初は釉薬を施した陶器を焼いていたが、良質の陶土を発見したことによって磁器生産が中心となった。

当初は三股郷の陶石を原料とし、青磁が主力であった。その後、砥石として広く流通していた天草の石が白磁原料に向いていることが判明し、大量に天草砥石を購入して町内全土で磁器生産を行うようになった。

大衆向け陶磁器を志向し、大量生産に特化してきた。中尾上登窯(17世紀中葉-1929年)は全長約160mという巨大な窯であった[2]

一方で、隣の有田・三川内との薪炭材をめぐる諍いも激しかった。三藩が接する幕の頭(まくのとう)と呼ぶ山では、互いに領地を侵して薪を盗んでくることも日常的で、山の中で乱闘・殺し合いも起きる有様だった。結果、三藩の協議によって領地の見直し交渉が何度も実施されることになる。幕の頭山頂に立つ三角柱の「三領石(さんりょうせき)」は、薪をめぐる陶工たちの争奪戦からの産物である。

著名な商品[編集]

くらわんか碗[編集]

江戸時代に生産された、簡単な草花文などの絵付を施した磁器。それまで磁器は赤絵染付など高価なイメージが強く、庶民にとって高嶺の花であったが、このくらわんか碗は「磁器は高い」という従来の常識を覆し、庶民に普及した。名称は、淀川の京都・大坂間にある枚方宿で、商人が小舟で三十石船に近づいて「酒食らわんか餅食らわんか」と囃しながら食事などを売った「くらわんか舟」に由来する。

コンプラ瓶[編集]

1790年に初めて作られ、1820年代から盛んに生産されるようになった、醤油の輸出用の瓶。当初、木の樽だと風味が保てないため、オランダ商人らは、自分たちが持ってきたワインの空き瓶を利用していたが、出荷量の増加に対応するため、簡素な染付白磁を用いた徳利型の瓶を作らせた。中身を示すためオランダ語で「JAPANSCHZOYA(日本の醤油)」または「JAPANSCHZAKY(日本の酒)」と書かれている。名称はポルトガル語で仲買人を意味する「コンプラドール(comprador)」に由来する。[3]

給食用強化磁器食器[編集]

主に給食事業に使用される強化磁器。1987年に町内小中学校の給食用食器として開発された。当初、「割れにくい」を意味する方言「割れにくか」から「ワレニッカ」と称したが、改良を加えて「ハサミスクールウェア」に改称。2000年には「セーフティーわん」も開発された[4]

脚注[編集]

  1. ^ 『デジタル大辞泉』、『日本国語大辞典』
  2. ^ 長崎県教育庁学芸文化課「中尾上登窯跡」『長崎県の遺跡大辞典』
  3. ^ 長崎市「ナガジン!」2012年12月
  4. ^ 給食用強化磁器食器の導入について

関連項目[編集]

外部リンク[編集]