永田政純
| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 寛文11年7月18日[1](1671年8月22日) |
| 死没 | 宝暦4年5月8日[2](1754年6月28日) |
| 別名 | 通称:四郎三郎[1]→右衛門八[1]→瀬兵衛[1] |
| 墓所 | 海潮寺[2](山口県萩市北古萩町) |
| 主君 | 毛利吉広→吉元→宗広 |
| 藩 | 長州藩 |
| 氏族 | 宇多源氏佐々木氏流高島氏庶流永田氏[3] |
| 父母 | 父:永田政納[4]、母:山崎道察の娘[4] |
| 兄弟 | 政矩[4]、万槌[1]、政純、李家正勝[1]、女[1] |
| 妻 |
正室:山中賢光の娘[1] 継室:李家宗椿の娘[1] |
| 子 | 政古[1] |
永田 政純(ながた まさずみ)は、江戸時代の武士、歴史家。毛利氏家臣で長州藩士。禄高は143石。長州藩主・毛利吉元の命を受けて『閥閲録』の編纂を行い、『新裁軍記』や『江氏家譜』等の編集も行った。
生涯
[編集]前半生
[編集]寛文11年(1671年)7月18日、長州藩の藩医・永田政納の三男として、長門国の萩に生まれる[1]。母は陸奥二本松藩主・丹羽光重の儒臣であった山崎道察の娘で、長州藩士・岩佐圭庵の姪[4]。
元禄10年(1697年)2月1日、新規召抱えで右筆役として手廻組に加えられ、扶持方2人分・切米2石4斗を給される[1]。元禄12年(1699年)2月15日には扶持方5人分・銀250目(高直し43石)に昇給[1]。
元禄13年(1700年)に江戸御留守公儀向御用を務め[1]、宝永元年(1704年)には江戸御勤方を兼務[2]。宝永3年(1706年)7月29日に江戸御用所右筆に任じられた[2]。
正徳4年(1714年)12月1日に江戸矢倉方の職も兼任し、享保元年(1716年)に江戸御用所役に昇進した[2]。一方で、享保3年(1718年)8月6日には御用所・矢倉方の職を辞し、同年8月14日に手廻組から大組に入り、8月16日に御什書御用掛として御内用掛(後の密用方)の責任者となった[2]。
史書編纂事業
[編集]享保5年(1720年)6月16日、藩主・毛利吉元の命を受け、毛利氏の家譜及び家臣の家に伝来した古文書・家系の調査事業を開始した[2]。翌享保6年(1721年)3月4日には江戸当職手元役に任じられ、銀1貫200目(高直し60石)を加増され、知行高103石となる[2]。享保9年(1724年)、徳田良方と共に『江氏家譜』の撰修に着手し、享保10年(1725年)に寺社証文を録上[2]。そして享保11年(1726年)に『閥閲録』を完成させ、同年12月15日に銀3枚を拝領した[2]。
元文3年(1738年)6月16日、毛利元就に関する編年体の歴史書である『御軍記』(後の『新裁軍記』)編纂に着手[2]。政純が中心となって、他に山県周南、小倉鹿門、小田村鄜山、山根華陽らが参加し、寛保元年(1741年)5月までに元就期の大部分[注釈 1]の記述を完成させた[2]。寛保2年(1742年)7月には『江氏家譜』が完成し、山県周南、徳田良方、安部和貞が校訂を行った[2]。
晩年
[編集]元文5年(1740年)7月18日、政純の親族・友人が政純の古稀を祝った[2]。延享4年(1747年)1月、銀800目(高直し40石)を加増され、知行高が143石となる[2]。
宝暦3年(1753年)7月、毛利氏の『御系図御家譜引用書』が完成[2]。同年10月28日に隠居を許され、銀子10枚を拝領し、翌年の宝暦4年(1754年)5月8日に病死[2]。享年84[2]。萩の海潮寺に葬られた[2]。
政純の人となりについて、山県周南は「重厚慎密」、小田村鄜山は「謹厚貞良」と評し、安部和貞は政純の古稀の祝文において「性閑雅にして」と評した[5]。山根華陽は墓碑銘に「君博聞強記、有好古癖、最精国史」と記し、歴史学者としての政純の人物像を伝えている[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 山口県文書館編『萩藩閥閲録 第一巻』1967年発行、1979年復刻。
国立国会図書館デジタルコレクション - 田村哲夫校訂『毛利元就軍記考証 新裁軍記』マツノ書店、1993年4月。 NCID BN09195334。全国書誌番号:93063892。
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