水原吉一

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水原吉一
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 元和元年5月14日1615年6月10日
改名 亀千代(幼名)、吉一
別名 吉勝、通称:亀介
官位 石見守
主君 豊臣秀長秀吉秀頼
氏族 水原氏
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水原 吉一(みずはら よしかず)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将豊臣家の家臣。吉勝(よしかつ)も用いているが、通称水原 亀介(みずはら かめすけ)と署名する文書が多い。

略歴[編集]

紀伊地侍であったが、初め羽柴秀長に属し、天正13年(1585年)3月3日、紀伊海部郡[1]舟津内に100石を安堵される[2]

次いで羽柴秀吉に仕えて所領も丹波国へ移る[2]金切裂指物使番となった[2]。秀吉の御使番衆の一人。

天正18年(1590年)の小田原征伐後、秀吉が会津に進発するにあたっての沿道の工事奉行を、垣見家純・西川八右衛門・杉山源兵衛・友松次右衛門[3]と共に務める[2][4]

文禄3年(1594年)3月21日、丹波から播磨船井郡[5]妙薬寺村100石に移封[2]。また同年の伏見城築城の普請奉行[2]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける動向は不明だが、その後、1,000石で豊臣秀頼に仕えており、慶長11年(1606年)、江戸城普請の際には出張して奉行を務め、慶長16年(1611年)の春には禁裏の普請を担当した[2]。秀頼のもとでは奉行衆であったようだ。

大坂の陣における戦功の有無はわからないが、当時は大坂町奉行を務めていた。元和元年(1615年)5月8日大坂城が落城すると逃亡して京都市中に潜伏していたが、5月14日に発見され、藤堂高虎が派遣した兵によって討たれた[2]

脚注[編集]

  1. ^ 『戦国人名辞典』にある「神東郡」は誤り。
  2. ^ a b c d e f g h 高柳 & 松平 1973, p. 243
  3. ^ 西川八右衛門が西川与右衛門のことならば、全員が金切裂指物使番の人物。この話の原典は『太閤さま軍記のうち』の記述なので、西山は八右衛門が正しいのか。
  4. ^ 参謀本部 編『国立国会図書館デジタルコレクション 日本戦史 小田原役』元真社、1914年、75頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936354/43 国立国会図書館デジタルコレクション 
  5. ^ 『戦国人名辞典』にある「笠井郡」は誤り。

参考文献[編集]