榎下城

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榎下城
神奈川県
榎下城遠景
榎下城遠景
別名 久保城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 上杉憲清
築城年 永享年間か
主な城主 上杉憲清、上杉憲直後北条氏(山田右京之進?)
廃城年 不明
遺構 曲輪[1]虎口[2]空堀[1]横堀が主体[3])、土塁[2]
指定文化財 史跡未指定
(寺林は県指定天然記念物[4]
登録文化財 未登録
(山田右京之進城址碑は「緑区遺産」に登録[5]
埋蔵文化財
包蔵地番号
県:緑区No.89
市:緑区No.78
位置
地図
榎下城の位置(神奈川県内)
榎下城
榎下城

榎下城(えのしたじょう)または久保城(くぼじょう)は神奈川県横浜市緑区三保町[6]にあった上杉氏日本の城。現在は久保山舊城寺(旧城寺)の境内となっている[注 1]

概要[編集]

榎下城は恩田川氾濫原に面した舌状台地の先端に占地し[1]、近辺の眺望に優れるとされる[7]。北方低湿地との比高差は約7メートル[1]

宅間上杉家上杉憲房系)の上杉憲清により永享年間(1429年-1441年)に築かれたと伝わり、永享10年(1438年)に勃発した永享の乱の際には、憲清の子憲直足利持氏方として拠った。幕府方に攻められた憲直は榎下城から退いたが、上杉憲実方に追われ、称名寺において子の憲家と共に自害した。

戦国時代後期の後北条氏支配下の時期には、後北条被官「山田右京之進」の居城であったとする伝承があり、城西隣の畑には右京之進のものとされる五輪塔があった[7]

城域に佐藤小左衛門氏が隠居所を建て、更に慶長8年頃(1603年)舊城寺(旧城寺)を開基した。このため城域は境内地となり開発等の改変を受けず、前後2面の曲輪土塁などの遺構が比較的良く保存されていることが特筆すべき点とされる[7]

城跡として史跡には指定されていないが、土塁上の寺林は県の天然記念物に指定されている[4]

また、1935年(昭和10年)に横浜貿易新報社(現・神奈川新聞)が行った県内45箇所の名勝史蹟選定事業に選定されたことを記念した「山田右京之進城址碑」があり、この碑は緑区独自の文化遺産登録制度「緑区遺産」No.15に登録されている[5]

なお、城名は横浜市営バス停の名称(「榎下城址裏」)として現在も残っている。

歴史・沿革[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 「舊」の簡体字が「旧」であり、「城跡に建つ寺」を意味する寺名となっている。
  2. ^ 日本城郭協会学生研究会は日本城郭協会の学生会員によって結成されたが[8]1966年(昭和41年)に協会から独立し、日本城郭学生研究会となる[9][10]。その後、学生研究会の活動は一旦停止したが、1971年(昭和46年)にOBによって再建された際に中世城郭研究会として新発足し[11]、現在まで続いている。
  3. ^ その時の発掘調査成果は日本城郭学生研究会の機関紙である『城郭』第2号[13](副題は「榎下城発掘調査報告集」[14])に記録されている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 西股1996、127頁
  2. ^ a b 西股1996、127~129頁
  3. ^ a b 西股1996、129頁
  4. ^ a b 「神奈川県の文化財」神奈川県公式HP
  5. ^ a b 「山田右京之進城址碑」横浜市緑区公式HP
  6. ^ 西股1996、120頁
  7. ^ a b c 平井ほか 1980 p.318
  8. ^ 八巻1999、109頁
  9. ^ 八巻1999、116頁
  10. ^ 八巻2000、82頁
  11. ^ 八巻2000、99頁
  12. ^ 八巻1999、110頁
  13. ^ 日本城郭学生研究会 Webcat Plus (1968年). “城郭 2号”. 2020年4月22日閲覧。
  14. ^ 八巻1999、123・124頁

参考文献[編集]

  • 平井聖ほか 1980「榎下城」『日本城郭大系』第6巻(千葉・神奈川)pp.317-318 新人物往来社
  • 西股総生「小机城とその支城」『中世城郭研究』第10号、中世城郭研究会、1996年、 118-146頁、 ISSN 0914-3203
  • 八巻孝夫「昭和四〇年代の城郭研究の流れについて(中)」『中世城郭研究』第13号、中世城郭研究会、1999年、 106-126頁、 ISSN 0914-3203
  • 八巻孝夫「昭和四〇年代の城郭研究の流れについて(3)」『中世城郭研究』第14号、中世城郭研究会、2000年、 82-106頁、 ISSN 0914-3203

関連項目[編集]

外部リンク[編集]