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梶原氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

梶原氏(かじわらし)は、日本氏族坂東八平氏の一つで鎌倉氏大庭氏の一族が著名である。

平姓梶原氏

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梶原氏
家紋
丸に並び矢
本姓 桓武平氏良文鎌倉氏大庭氏支流
家祖 梶原景久
種別 武家
出身地 相模国鎌倉郡梶原
主な根拠地 相模国
著名な人物 梶原景時
梶原景季
梶原景久
団忠正
支流、分家 酒匂氏武家
役野氏(武家)
荻野氏(武家)
唐桑氏(武家)
上坂氏(武家)
宇津木氏(武家)
団氏(武家) など
凡例 / Category:日本の氏族

鎌倉景通(大庭景通)の嫡男の梶原景久相模国鎌倉郡梶原にて梶原氏を称したことに始まる。梶原景時の代に源頼朝に仕え権勢を誇ったが、その死後に没落した。しかし、一族は滅んだ訳ではなく、各地に存在している。

概要

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景久の曾孫の景時の代に一族は大いに発展することとなる。1180年源頼朝が挙兵すると、大庭景親と共にこれを石橋山の戦いで迎え撃ったが、景時は頼朝一行を見逃した。頼朝はこの時の行為を深く感じ入り、景時を重用することとなる。

頼朝に服属してからの梶原一族は平家追討に功を立て、1185年壇ノ浦の戦いにて滅亡させることとなるが、平家滅亡後に源義経とともに朝廷から勝手に官位を受けたため頼朝から怒りをかっている。その後、奥州合戦にも従軍し(なお、この合戦で景時の次男の景高は見事な歌を残している)、頼朝の寵が厚かったがその反面で多くの御家人の反発を買った。

そして頼朝が死ぬと事態は急変する。北条氏を始めとする御家人たちは、ここぞとばかりにと景時に謀反の疑いありと弾劾する。景時は息子らを引き連れてに逃れんとしたが、その途上で討たれた(梶原景時の変)。その後、景時の弟の朝景が梶原氏の家督を継いだが、1213年の和田合戦で討ち死にした。

しかし、梶原氏はそれで滅んだという訳ではなく、景時の次男の子孫は鎌倉幕府、後には足利氏に従い、被官として歴史に名を残している。それ以外の一族末裔を以下に記す。

平姓梶原氏歴代当主

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系図

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  梶原景久
   ┃
   景長
   ┃
   景清
   ┣━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━┓
   景実[注釈 1]景時                       景道   朝景
   ┏━━━━╋━━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓     ┃    ┃
   景季   景高    景茂 景国 景宗 景則 景連   酒匂景久 役野景貞
   ┃    ┣━━┓  ┣━━┓
   景望   景員 景継 景俊 景永

梶原氏の一族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 鎌倉時代初期に創建された梶原神社早馬神社の縁起、江戸時代の『奥羽観蹟聞老志』『封内風土記』『封内名跡志』『風土記御用書出』による。
  2. ^ 梶原景時の末裔を称していた後北条氏の家臣の一族、武蔵国多摩郡宇津木村(現東京都八王子市宇津木町)が起源であり梶原一族の他にも横山党の子孫とも称していた。

出典

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  1. ^ 新井浩文「梶原政景と足利義氏」『駒沢史学』55号、2000年。/所収:新井『関東の戦国期領主と流通』2011年、岩田書院。ISBN 978-4-87294-723-6

参考文献

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  • 梶原等『梶原景時-知られざる鎌倉本體の武士』(増補改訂版)新人物往来社、2004年。 
  • 田辺希文 著「本吉郡」、鈴木省三 (郷土史家) 編『封内風土記 巻之十四』仙台叢書出版協会〈仙台叢書封内風土記 三〉、1893年(原著1772年)。 NCID BN11172717NDLJP:763473 
  • 保田光則『新撰陸奥風土記』1860年。
  • 佐久間洞巖『奥羽観蹟聞老志 巻之九 気仙郡』宮城県、1883年。 NCID BA55683008NDLJP:993129 
  • 伊勢斉助『奥羽観蹟聞老志 補修篇 巻之九 本吉郡』仙台叢書刊行会〈仙台叢書 第十六巻〉、1929年。 NCID BN06896627 

関連項目

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外部リンク

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