松波勝直

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松波 勝直
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文10年(1541年
死没 慶長12年9月1日1607年10月21日[1]
改名 正置、勝置、勝直
別名 三助、平右衛門、半右衛門[1]
戒名 浄心[1]
幕府 江戸幕府 旗本
主君 織田信長信雄徳川家康
氏族 藤原北家日野流松波氏[2]
父母 父:松波政綱[2]
勝安勝吉政俊[2]
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松波 勝直(まつなみ まさなお)は、戦国時代から江戸時代初期の武将

経歴[編集]

父の政綱斎藤道三の子(斎藤義龍の弟)で織田信長に仕え、道三の出自である松波氏を称したという[注釈 1]。信長の死後はその次男の織田信雄に仕えた尾張国中島郡下起郷・小寺郷[注釈 2]を領したが、後に尾張国に蟄居した[1][5]

天正18年(1590年江戸城主となった徳川家康武蔵国橘樹郡の内600石で召し出される。慶長5年(1600年)嫡男勝安に家督を譲るが、後に再出仕を命じられて美濃国池田郡本巣郡に500石を改めて与えられ、駿府城の家康に仕えた。慶長12年(1607年)67歳で死去。美濃の所領は次男の勝吉が継承し、また三男の政俊は別家を立て、三子はいずれも旗本家として家名を繋いだ[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 斎藤道三の父の出自とされる松波氏は『美濃国諸旧記』は藤原秀郷波多野氏の末裔で北面武士の家系とするが、『寛政重修諸家譜』は日野家庶流とする[3][1]。日野流松波氏は能登国珠洲郡若山庄の松波を名字の地とする一族で、荘園領主日野家の被官となったものが庶流に列せられたものと考えられている[4]
  2. ^ いずれも現在の愛知県稲沢市

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』, p. 402.
  2. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』, p. 86.
  3. ^ 『美濃国諸旧記』, pp. 26–27.
  4. ^ 若林 & 高澤, § 松波城跡.
  5. ^ 『続群書類従』, p. 153.

参考文献[編集]

  • 『新訂寛政重修諸家譜』 14巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0218-5 
  • 美濃国諸旧記 濃陽諸士伝記』国史研究会〈国史叢書〉、1915年。 
  • 続群書類従』 第25輯 上、続群書類従完成会、1959年。ISBN 978-4-7971-0088-4 
  • 若林喜三郎; 高澤裕一 編『石川県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1991年。ISBN 978-4-582-91009-4