彭祖

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武夷山茶博園にある彭祖の彫像

彭祖(ホウソ、拼音:Péng Zǔ)は、中国の神話の中で長寿の仙人であり、伝説の中では南極老人の化身とされており、八百歳の寿命を保ったことで有名である。姓はで、名はであり、籛鏗ともいう。

紹介[編集]

彭祖顓頊来孫(五世の孫)とされている[1][2]。父親の陸終は、呉回の長子であり[3]、母親は鬼方首領の妹である女嬇である。擅長が野雞湯を作ったことにより、帝堯の知る所となり[4]、大彭に封じられ、これが大彭氏国(現在の江蘇省徐州市)となった。また、彭鏗と称している。伝説の中の姓の祖先である[5]。堯帝より、商朝を経て、商代には、守蔵史となり、官は拝賢大夫となっている。周代には、柱下史となっている。妻四十九を娶り、子は五十四人いたという。伝説では、八百年生き、長寿の神とされた。『神仙伝』(葛洪撰)では、彼を:“殷末已七百六十七歳,而不衰老。少好恬靜,不恤世務,不營名譽,不飾車服,唯以養生活身為事”と記している。彼の養生の道は、後世の人が整理して『彭祖養性経』、『彭祖攝生養性論』にまとめて、世に知られた。

彭祖の歴史上の影響は甚だ大きい。孔子は彼を大変尊敬している。荘子荀子呂不韋などの先秦思想家にはみな、彭祖に関する記述がある。『史記』などの史書にも、彼に関する記載がある。道家はさらに、彭祖を道家の先駆者の一人として奉っている。あまたの道家の典籍には彭祖の養生論を保存している。晋代の医学家葛洪が撰述した『神仙伝』の中には、特別に彭祖の伝記を立てている。そこには、以下のような記述がある。「当時の君主が人を派遣して、彼に道を求めてきた。彼が言うには、「私は、遺腹の子として生まれ、三歳で母を失った。犬戎の乱に遭い、西域を流離すること、百余年であった。少し枯れてきたが、四十九人の妻を失い、五十四人の子供を失い、しばしば憂患に遭遇し、気を和らげ、傷を折っしてきた。栄衛焦枯、世を渡るのを恐れている。聞いている所は浅薄なので、お教えする程ではありません。」

晩年は、犍為郡武陽(現在の四川省眉山市彭山区の東)に住み、病を得て亡くなった後、この地に葬られた[6]。碑には“商大賢墓”とある。現在の四川省彭山区の東から遠くない所に彭祖祠がある。一説には、銭鏐がかつて彭祖の墓、彭祖の廟等を整備したという。葛洪は『抱朴子』の中で、800歳とは彭祖が、この世を離れた年で仙人になったとしている。また、『釈滞篇』では、彭祖は、800年間大夫であり、その後、西の流砂に消えた、としている。

先秦時期、彭祖は、人々の間では、仙人とされていた。前漢劉向は、『列仙伝』の中で、彭祖を仙界に入れ、「列仙」と称している。こうして、彭祖は次第に神話の人物となっていった。

唐代の楊炯の『庭菊賦』に次の様にある。

降文皇之命、修彭祖之術、保性和神、此焉終吉。

太平広記』には、次の様にある。

遺腹而生、三歳失母、遇犬戎之亂、流離西域、百有余年。加以少怙、喪四十九妻、失五十四子、數遭憂患、和氣折傷。 傳言千歳、色如童子、歩行日過五百里、能終歳不食、亦能一日九食。

「彭祖」は一人を指すのではないという説[編集]

史記』の「楚世家」に、

「彭祖氏,殷之時嘗為侯伯,之末世滅彭祖氏。」

とあり、「氏」は古代において多く宗族の称号として用いられていることから、「彭祖」は実際上一氏族の名称と推測することができる。

史記』には、また、彭姓の氏族が大彭等の地に封じられていることが記載されている。

清代の孔広森は、『列子』「力命篇」に註釈を加える中で、「彭祖之智不出堯舜之上而壽八百」の句に解説を加えて、次のように述べている。

「彭祖者,彭姓之祖也。彭姓諸國:大彭、豕韋、諸稽。大彭歴事虞夏,於商為伯,武丁之世滅之,故曰彭祖八百歳,謂彭國八百年而亡,非實籛不死也。」

これは、明確に状況を説明している。彭祖が800年生きたのではなく、彭氏の国が800年で滅びたとするのである。

注釈[編集]

  1. ^ 張澍、『姓氏五書』:“顓頊曾孫祝融之弟吳回,生陸終,陸終子六人,其三曰籛鏗,爲彭祖,封於大彭。”
  2. ^ 『史記』楚世家「楚之先祖出自帝顓頊高陽。(中略)高陽生称、称生巻章、巻章生重黎。(中略)其弟呉回爲重黎後(中略)呉回生陸終。陸終生子六人(中略)三曰彭祖」
  3. ^ 『世本』には、次の様にある。:“陸終之子,其三曰籛、是為彭祖。彭祖城是也。下且彭祖冢。彭祖長年八百,綿壽永世,于此有冢,蓋亦元極之化矣!”
  4. ^ 楚辞』「天問」:「彭鏗斟雉帝何饗,受壽永多夫何久長。」
  5. ^ 通志』「氏族略二」:“彭氏,即大彭之國,在商爲侯國。古祝融之後,有陸終氏,六子,第三子彭祖建國于彭,子孫以國爲氏。又彭亦爲姓。”
  6. ^ 兪正燮、『癸巳類稿•彭祖長年論』に『浙江通志』を引いて、次の様に記している。“彭祖墓在臨安県東南十里、大滌山天柱峰下(実爲美女峰)”。

参考文献[編集]