張茂

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成公 張茂
前涼
第3代君主
王朝 前涼
在位期間 320年 - 324年
姓・諱 張茂
成遜
諡号 成公
廟号 太宗
生年 咸寧3年(277年
没年 建興12年(324年
張軌
年号 建興320年 - 324年[1]

張 茂(ちょう も)は、五胡十六国時代前涼の第3代君主。は成遜。安定郡烏氏県(現在の甘粛省平涼市涇川県)の人。父の張軌、兄の張寔はいずれも涼州刺史として河西を治めた。

生涯[編集]

父・兄の時代[編集]

咸寧3年(277年)、張軌の次男として生まれた。

父の張軌は涼州刺史として河西の地を治めていたが、308年2月に中風を患って会話が不自由となった。当時、長兄の張寔は洛陽にいた為、張茂は父に代わって州事を執り行った。

建興元年(313年)、南陽王司馬保により従事中郎に任じられ、散騎侍郎・中塁将軍に推挙されたが、全て辞退した。

建興2年(314年)、侍中に任じられて長安に召還されたが、父が老齢であることを理由に辞退した。しばらくして、平西将軍・秦州刺史に任じられた。同年5月、張軌がこの世を去ると、兄の張寔が後を継いだ。

建興8年(320年)、京兆の劉弘が邪道の術を用いて庶民を惑わしており、張寔の周囲の者も彼を崇拝していた。劉弘は張寔を殺して自ら君主となることを目論み、帳下閻渉・牙門趙卬に密かに命を下した。張茂は彼らの計画を知ると、張寔へ劉弘を誅殺するよう忠告したが、敵に先手を討たれて張寔は殺害された。左司馬陰元らは張寔の子である張駿がまだ幼いことから、張茂を後継に立てて涼州刺史・西平公に推挙した[2]。だが、張茂はこの任官を受けずに使持節・平西将軍・涼州牧の任を受けた[3]。また、劉弘を姑臧城の市街に引きずり出して車裂きの刑に処し、張寔殺害の実行犯である閻渉及びその徒党数百人余りを誅殺し、州内に大赦を下した。

同年8月[4]、張茂は張寔の子である張駿を世継ぎにすると公表し、撫軍将軍・武威郡太守に任じて西平公に封じた。

張茂の時代[編集]

建興9年(321年)2月、張茂は民衆に労役を課し、八十余りの城壁と高さ九にも及ぶ城(霊鈞台)の建造を始めた。だが諫言を受けると自らの過ちを認め、これを中止させた。また張茂は韓璞を隴西・南安の地に派遣して攻略に当たらせ、韓璞はこれらを平定すると秦州を設置して帰還した。建興11年(323年)8月、前趙の皇帝劉曜が隴上から西進して自ら涼州へ襲来した。劉曜は28万の兵を率いて河上にて百里余りに及ぶ陣を築き、前趙軍の戦鼓が鳴り響くと、張茂が配置した黄河沿いの守備兵は恐れ慄いて潰走してしまった。また臨洮郡出身の翟楷石琮らは県令を追放して県城ごと劉曜に呼応したので、河西は大いに震撼した。

張茂は参軍馬岌の進言を受け、自ら出兵して石頭に拠った。この際、守備軍の参軍陳珍に対して防衛の策に関して意見を求めると、陳珍は「劉曜の支配する領土は多岐に渡りますが、その支配は十分には行き届いておりません。軍にも精鋭は少なく、多くはの烏合の衆です。関東一帯の憂いを捨て置くことができないため、徒に戦を引き延ばしているに過ぎません。もし二十日経過しても奴らが退かなければ、この陳珍が弱卒数千をもって捕えて差し上げます」と答えた。張茂は大いに喜び、陳珍を平虜将軍に任じ、歩騎千八百を率いて韓璞の救援に向かわせた。陳珍は氐・羌の衆を徴発して劉曜に対峙すると、これを撃破して南安を奪還した。張茂は大いに彼を称賛し、折衝将軍に任命した。

その後、張茂は劉曜へ使者を送り、自ら劉曜の臣下と称して馬・牛・羊や珍宝を献上した。これにより、劉曜は軍を撤退させ、張茂を侍中・都督涼南北秦梁益巴漢隴右西域雑夷匈奴諸軍事・太師・涼州牧に任じた。さらに涼王に封じ、九錫を与えた[5]。同年秋、張茂はまた姑臧城において大いに土木工事を行い、霊鈞台の建造の再開にも取り掛かった。別駕呉紹はこれを諫めて民に安息を与えるよう上奏したが、張茂は「亡き兄の張寔が暗殺されたように、禍というのは不意に起きるものであり、智勇を備えていてもどうにもならない時もある。王公たるもの危険への備えは怠らないものであり、勇者であっても警備は厳重にするのが古の習わしである。国家が未だ騒乱の中にあるというのに、泰平の世の理を持ち出してこのような乱世を語ってはならぬ」と反論し、工事は継続された。

涼州の豪族の賈模は張寔の妻の弟であり、その権勢は西土を圧倒する程であった。これより以前、「手莫頭、図涼州」という民謡が流行った。張茂はこの民謡が賈模の事を言っていると考え、彼を招き寄せると誅殺した。これにより、権勢を持つ豪族は声を潜めて隠居するようになり、張茂の威厳は涼州に広く行き渡るようになった。

最期[編集]

建興12年(324年)5月、張茂は病に倒れた。世継ぎの張駿の手を取ると涙を流して「以前、我らの先人は孝友をもって称賛を受け、漢の時代より代々国家に忠誠を尽くしてきた。今、華夏が大乱に陥り、皇帝は東南に移った。汝は身を慎み人臣としての節度を守り、失うことのないように。我は天下大乱の時代に遭遇し、先人の余徳を受けてそれを引き継いだ。州の任を代行して命を守り、上は晋室に背くことなく、下は民を保護することを考えてきた。しかし、この官位は朝廷の任によるものではなく、職務は私的な議論によるものであり、仮初めに過ぎない。どこにも誉とするものがない。我が絶命したら白色の便帽を棺に入れ、朝服は着けないように。これを以て我の志を示すものである」と遺言し、間もなくこの世を去った。享年48、在位すること5年であった。諡号は成といった。前趙の劉曜は使者を派遣し、張茂へ太宰の職を贈り、成烈王と追諡した[6]

張祚が王位を称すると、成王と追諡され、廟号は太宗といった。

人物[編集]

清廉・高雅であり、物静かな性格だった。また学問を好み、俗世の名誉や利益を追い求めなかった。また、志を持ち節操を弁え、大事に対して決断力があったという。

脚注[編集]

  1. ^ 一説には永元
  2. ^ 『晋書』では大都督・太尉・涼州牧に推挙されたと記載されている。
  3. ^ 『十六国春秋』では使持節・平西将軍・都督涼州諸軍事・護羌校尉・涼州牧・西平公と記載されている。
  4. ^ 『十六国春秋』では9月
  5. ^ 『晋書』では322年の出来事と記載されている。
  6. ^ 『晋書』では325年の出来事と記載されている。

参考文献[編集]