張祚

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威王 張祚
前涼
第7代君主
王朝 前涼
在位期間 353年 - 355年
姓・諱 張祚
太伯
諡号 威王
生年 不詳
没年 和平2年(355年
文王
后妃 辛王后
叱干王后
陵墓 愍陵
年号 建興353年 - 354年
和平354年 - 355年

張 祚(ちょう そ)は、五胡十六国時代前涼の第7代君主。は太伯。小字は螽斯。第4代君主張駿の庶長子。

生涯[編集]

父・弟の時代[編集]

博学・雄武にして政事の才能があったが、表向きは人当たりが良いものの、その本性は腹黒く狡猾であったとされる。建興33年(345年)、父の張駿より延興郡太守に任じられ、長寧侯に封じられた。建興34年(346年)5月、張駿がこの世を去ると、異母弟の張重華が後を継いだ。張祚の方が年長ではあったが、庶子であったので後を継ぐことは出来なかった。張重華の時代に、 西河相に任じられた。

建興41年(353年)10月、張重華は病を患うようになると、当時まだ10歳であった子の張耀霊を世子に立てた。この時、張祚は密かに国権を掌握しようと目論んでおり、張重華の寵臣であった趙長・尉緝らと結託し、義兄弟の契りを結んだ。都尉常據は張祚の存在を危険視して朝廷の外へ出すよう勧めたが、張重華は「兄には周公旦のように幼子を補佐して欲しいと願っているのに、なぜそのような事を言うのか」と激怒した。酒泉郡太守謝艾もまた上疎して「長寧侯祚と趙長らはまさに乱を為すでしょう。これを放逐すべきです」と述べたが、聞き入れられなかった。ただその一方、張重華は張祚の誅殺を考えていたとの記載もある。

位を簒奪[編集]

11月、張重華の病がさらに重くなると、張重華は謝艾を衛将軍・監中外諸軍事に任じて張耀霊の輔政を命じる勅書を作成した。しかし張祚は趙長と共に暗躍し、この勅書を秘匿して発表しなかった。間もなく張重華がこの世を去ると、張耀霊が後を継いだ。趙長らは張重華の遺詔を捏造し、張祚を使持節[1]・都督中外諸軍事・撫軍大将軍[2]に任じ、張耀霊の輔政を委ねた。

12月、趙長らは建議して「時難は未だ平らげられておらず、年長の主君を立てるべきです。耀霊は沖幼であり、どうか長寧侯祚を立てていただきますよう」と陳述した。張祚は事前に張重華の母の馬氏にこの事を伝えており、馬氏は張祚を寵愛していたので、これを認めた。これにより、張耀霊は廃されて涼寧侯に降格となり、幽閉される事となった。張祚は大都督・大将軍・護羌校尉・涼州牧・涼公を称し、その位を簒奪した。

張祚は涼州牧に即位して以降、淫暴となって道徳にも従わなくなった。兄嫁(張重華の妻)である裴氏と肉体関係を結び、さらに閤内にいるや、張駿・張重華の子女で嫁いでいない者に悉く関係を迫った。国の人は互いに目を見合わせて不満を示し、『牆茨の詩』を著して遠回しにその振る舞いを非難した。

即位[編集]

建興42年(354年)1月、趙長・尉緝らの勧めに従い、謙光殿において王位、または帝位への即位を宣言した。『晋書』では帝位[3]、『十六国春秋』では王位[4]を称したとされる。そして詔を下し、「晋室の没落により、中華の地は凶暴な戎狄(非漢民族)により蹂躙された。曾祖父の武公(張軌)はその神武によって西夏の地を安寧に導き、勤王の姿勢を一日たりとも絶やす事はなかった。我ら(張氏)が張軌の代より晋から禅譲を受けていた事は天下の知るところであったが、謙譲を続けて今に至るまで40年になる。今、中原の地は乱れており統治者がおらず、故に必要に迫られて統治を代行する事となり、四海の心を一つにする事となった。やむを得ずしてこれを受け、群議に従うよう勉めよう。二京(洛陽・長安)の穢れを払う時を待ち、周魏を清めた後に帝を旧都に迎え入れ、罪を天闕に謝罪したい」と宣言した。

張祚は宗廟を立てて八佾の舞を行い、百官を配置し、年号をそれまでの「建興」(前涼は西晋の最後の年号であった「建興」を、東晋の成立後も引き続き使用していた)から「和平」へと改元し、天地を祀り、天子の礼楽を用いた。死罪以下に大赦を下し、寡婦にはを下賜し、文武百官には爵一級を加えた。また曾祖父の張軌を武王と追諡し、祖父の張寔を昭王と追諡し、叔祖父の張茂を成王と追諡し、父の張駿を文王と追諡し、弟の張重華を明王と追諡した。妻の辛氏を王后に立て、同じく妻の叱干氏もまた王后に立て、弟の張天錫を長寧侯[5]に封じ、子の張泰和を太子に立て、張庭堅を建康侯[5]に封じ、張耀霊の弟である張玄靚を涼武侯[5]に封じた。また肉体関係にあった兄嫁の裴氏を殺害し、張重華の時代の功臣であった謝艾もまた殺害した。

尚書馬岌は即位への反対を述べて固く諫めると、張祚は彼を処罰して罷免した。さらに郎中丁其は「我々は武公(張軌)以来、50年余りに渡って臣下としての節を守り、謙譲を維持し続けてきました。州民が命に従い、四海の民が帰順してくれるのは、我らが晋室を奉じていたからに他なりません。殿下の勲徳は未だ先公ほど高くはありませんのに、どうやってこの地を保つ事ができましょうか」と述べると、張祚は激怒して丁其を斬殺した。

即位した張祚は、同年のうちに南山に割拠する非漢民族の驪靬戎の討伐を命じたが、討伐軍は大敗した。さらに3月、東晋太尉桓温前秦へ侵攻すると、当時前涼に服属していた半独立勢力の王擢も東晋と組んで前秦に侵攻したが、桓温が撤退すると王擢も敗れて略陽に敗走した。張祚は王擢と桓温が手を組んで前涼に侵攻してくる事を恐れ、密かに王擢の暗殺を計画したが、事前に露見してしまい王擢との関係は悪化した。さらに張祚は大軍を集めて東征すると称し、実際には西へ赴いて敦煌に拠点を移す事を考えた。しかし桓温が撤退した事により、結局実行には移されなかった。その後張祚は王擢を討伐し、王擢は前秦に服属する事となった。

張瓘挙兵[編集]

7月、宗族である河州刺史張瓘枹罕に鎮し、強大な兵力を有していた。張祚はこれを疎ましく思い、枹罕の守備を張掖郡太守索孚に交代するよう命じ、張瓘には反乱を起こした胡人の討伐を命じた。さらに、側近の将軍の易揣・張玲に歩騎万3千を与え、密かに張瓘の討伐を命じた。王鸞という人物は「この軍が出撃すれば、必ずや帰還する事は出来ないでしょう。涼国の危機をもたらしますぞ」と諫めたが、張祚はこれに激怒し、妖言を為したとして王鸞を処刑させた。刑に臨むと王鸞は「あと20日と経たず軍は敗れ、張祚もまた命を落とすだろう!」と言い放ったため、張祚は王鸞の一族を全員誅殺した。

この事が張瓘の耳に入ると、赴任してきた索孚を殺害して張祚討伐の兵を挙げた。また、州郡に檄を飛ばして「張祚を廃し、涼寧侯耀霊を復位させよう」と触れ回った。この時、易揣・張玲の軍は河を渡り始めていたが、張瓘は頃合いを見計らって奇襲し、これを撃ち破った。また驃騎将軍宋混も、1万余りの兵を率いて張瓘に呼応した。この事実が姑臧に届くと、城内は大混乱に陥った。張瓘らが張耀霊の復位を掲げている事を知ると、張祚は配下の楊秋胡を派遣し、張耀霊を捕らえて殺害した。

最期[編集]

9月、宋混の軍が迫ると、張祚は張瓘の弟である張琚と子の張嵩を捕らえて殺そうとしたが、これを知った張琚らは市において数百人をかき集めると「張祚は無道であり、我が兄は大軍を率いて城東へ迫っている。敢えてこれに逆らう者は三族を誅す!」と宣言した。これにより張祚の衆は四散してしまい、張祚は神雀観に逃れた。張琚らはそのまま西門へ赴くと、門兵400人余りを殺し、城門を開いて宋混の軍を迎え入れた。

張祚の側近であった領軍将軍趙長・張璹らは禍を恐れ、宮門を開いて宋混らに寝返った。さらに馬太后を呼び寄せて謙光殿に向かい、張祚を廃して張玄靚を主に立てると宣言し、罪を免れようとした。宋混らが入殿を果たすと人々はみな万歳と叫び、その声を聞いた張祚は趙長らが宋混を破ったのだと思い様子を見に向かうと、宋混らの姿があったため驚愕したという。そして殿上にて剣を振り回し応戦するよう左右の者に呼び掛けたが、張祚は既に人心を失っており、彼のために戦う兵は1人もいなかった。趙長は鉾で張祚の頬を斬りつけ、張祚は逃げようとしたが徐黒により殺された。宋混らは張祚を晒し首にして内外に示し、その屍を道端に曝した。これを知ると、城内ではみなが万歳を唱えたという。趙長らもまた、兵を率いて入殿してきた易揣らに捕らえられ、殺害された。張祚は庶人の礼で葬られ、2人の子も処刑された。

張天錫が即位すると、張祚は礼を備えて愍陵において改葬され、威王と追諡された。また、子の張庭堅は金沢侯に任じられた。

逸話[編集]

張祚は諸々の神祀を廃したので、山川は枯竭した。また五都尉を設置したが、その役人が強姦などの狼藉を働き、それは過ぎたるものがあった。四品以下は衣や絹を得られず、庶民は家畜や奴婢を得られず、車馬に乗る他なかった。これにより、百姓の怨憤は国中に広がったという。

怪異譚[編集]

  • 張祚が王位を称したその夜、天に車蓋のような光が現れ、雷霆のような音を発し、城邑を震動させた。翌日、大風により木が引き抜かれ、黒気が起こって日中にもかかわらず闇に包まれた。これ以降も、このような災異がしばしば発生したという。
  • 張瓘討伐の兵を派遣した折、玄武殿において神が降臨し、自らを玄冥と称して人と語り合った。張祚はその夜に彼に祈りを捧げると、神は『福利を与えよう』と告げたので、張祚はこれを深く信じた。

宗室[編集]

妻妾[編集]

  • 王后辛氏
  • 王后叱干氏

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年号[編集]

  1. 建興353年 - 354年
  2. 和平354年 - 355年

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『晋書』には持節とある
  2. ^ 『晋書』には撫軍将軍とある
  3. ^ 『晋書』穆帝本紀「十年春正月己酉朔、帝臨朝、以五陵未復、懸而不楽。涼州牧張祚僭帝位」
  4. ^ 『十六国春秋』「僣即王位于謙光殿」
  5. ^ a b c 『晋書』には侯ではなく王とある