宋混

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宋 混(そう こん、? - 361年)は、五胡十六国時代前涼の人物。字は玄一。敦煌郡の出身。

生涯[編集]

忠義に篤く、節操は固かったという。

前涼に仕え、張重華の時代には驃騎将軍にまで昇進した。

355年7月、河州刺史張瓘は朝廷を専横していた張祚の誅殺を掲げて挙兵した。宋混は兄の宋脩と張祚がかねてより対立していたことから、禍を恐れて弟の宋澄と共に西へ逃亡した。そこで1万人余りの兵を纏め上げると、張瓘に呼応して姑臧へ向けて軍を発した。9月、張祚が先代君主である張耀霊を殺害したと知ると、武始に屯営していた宋混は張耀霊のために喪を発した。その後、さらに進軍を続けて姑臧に逼迫すると、張瓘の弟である張琚と子の張嵩は内側から呼応し、城門を開いて宋混軍を迎え入れた。宋混はそのまま兵を率いて入殿すると、張祚はこれに驚愕して万秋閣へ逃れたが、厨士徐黒により殺された。宋混は張祚を晒し首にして内外に示し、その屍を道端に曝した。張祚の死が知れ渡ると、城内ではみなが万歳を唱えたという。

その後、宋混は張琚らと共に張重華の末子である張玄靚を君主に推戴し、持節・大都督大将軍・護羌校尉・涼州・西平侯を名乗らせた。また、張祚が勝手に改めた和平の元号を廃し、再び西晋の元号を用いて建興43年と号すと、その領内に大赦を下した。さらに張祚を庶人の礼で葬り、2人の子を処刑した。

やがて張瓘もまた姑臧に到着すると、張玄靚を涼王に立て、自らは衛将軍・使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖郡公・行大将軍事を称し、朝権を掌握した。宋混は功績により輔国将軍・尚書僕射に任じられ、役人の任官・免官の権限を委ねられた。

この時、張玄靚はまだ5歳であったので、張瓘が政治を運営したが、彼は猜疑心が強く苛虐な性格であった。さらに賞罰は全て自らの好みで行い、そこに綱紀などなかったので、次第に人心は離れていった。また、張瓘は次第に宋混の存在を危険視するようになり、弟の宋澄ともども誅殺を目論むようになった。

359年6月、張瓘は宋混誅殺の為に数万の兵を姑臧に集結させたが、宋混はこれを事前に察知し、宋澄と共に楊和を始めとした壮士40騎余りを率いて南城へ入ると、諸陣営へ向けて「張瓘が造反を企てた。太后(馬氏)の命によりこれを誅殺する」と宣言した。すると、多くがこれに呼応し、すぐに2千余りの兵が集った。張瓘は宋混の決起を知ると兵を率いて出撃したが、宋混はこれを返り討ちにした。この時、乱戦の中で張瓘の将軍玄臚は宋混を刺したが、鎧を突き破る事が出来ず、逆に宋混に捕らえられた。これにより張瓘の部下は戦意喪失してみな降伏し、張瓘と弟の張琚は自殺した。乱が鎮まると、宋混は彼らの一族をみな処刑し、その後張玄靚へ入見した。張玄靚は宋混を使持節[1]・都督中外諸軍事・驃騎大将軍[2]・尚書令・酒泉郡侯に任じ、張瓘に代わって輔政を委ねた。宋混は張玄靚へ、涼王の称号を廃して涼州牧に戻し、晋朝に臣従するよう請願した。

その後、宋混は玄臚へ「卿は我を刺したが、幸いにも傷を負うことがなかった。今、我が輔政となったが、卿は恐れているかね」と問うと、玄臚は「この臚(玄臚)は瓘殿(張瓘)より恩を受けた身だ。ただ怨むのは節下(権力を持った大臣への敬称。ここでは宋混を指す)を刺した時、それが深くなかったことで傷つけられなかったのが悔しいだけだ。恐れることなどない!」と答えた。宋混はこれを義とし、玄臚を腹心として迎え入れた。

361年4月、宋混は病に倒れた。張玄靚は王太后の馬氏と共に自ら彼の下へ詣でると「将軍に万一の不幸があれば、この寡婦(馬氏)と孤児(張玄靚)は何を頼みとすべきか!林宗(宋混の子である宋林宗)に将軍を継がせたいと思うが、如何か」と問うた。宋混は「臣の子である林宗は幼弱であり、大任には耐えられません。もし殿下が臣の一門を見捨てておられないのでしたら、弟の澄(宋澄)は臣よりも政治の才能があります。但し、柔弱なところがあるので、機事には向いておりません。その時は殿下が策励して彼を動かすとよいでしょう」と告げた。また、宋混は宋澄や諸子を戒めて「我が家は国の大恩を受けた。死をもってこれに報いるのだ。勢位を恃んで驕ることのないように」と忠告した。また、朝臣とまみえたときには、みなへ忠貞を旨とするよう戒めた。

やがて宋混が没すると、道行く者も涙を流したという。張玄靚は遺言に従い、宋澄を領軍将軍に任じて輔政を委ねた。

怪異譚[編集]

宋混は昼寝していた時、家の中に張瓘の姿を見た。張瓘はたちまち柱の下に潜り込んだかと思うと、柱は火の様に燃え上がった。その為、すぐにその下を掘ってみたが、何も見つける事は出来なかった。宋混は大いに驚き、これが原因で病に罹ったという。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 晋書には仮節とある
  2. ^ 晋書には車騎大将軍とある