張バートル

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張 バアトル(ちょう バアトル)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。最初期にモンゴル帝国に投降し、チンギス・カンの諸国遠征に従った漢人武将の一人。

概要[編集]

張バアトルは金朝首都北方の守りの要である居庸関に近い昌平県の出身であった。1211年辛未)よりチンギス・カンの金朝遠征が始まると、張バアトルはモンゴル軍に投降し、その先鋒となることを願い出た。そこでチンギス・カンは張バアトルを自らのケシクテイ(宿衛)に入れ、以後張バアトルはチンギス直属の部下として各地の遠征に従った。張バアトルは漢都虎の指揮下にあってホラズム遠征タングート(西夏国)遠征第二次金朝遠征などモンゴル帝国の主要な戦役にはほぼ参加しているが、特に「砲兵」として活躍したのではないかと考えられている[1]

時期は不明であるが、ある時張バアトルは頬に矢を受けたが退かずに勇戦したため、チンギス・カンよりその戦いぶりを称えられて「バアトル」の名を与えられ、以後漢都虎より信任されるようになったという。1234年甲午)に金朝遠征が滅亡すると、漢都虎は砲手諸色軍民人匠都元帥に任じられ、張バアトルもこれに従った。漢都虎には子供がいなかったため、漢都虎の死後には張バアトルが跡を継ぎ、漢都虎の兄の子が成長するとこれに地位を譲り張バアトルは前線を退いた[2]

張バアトルの晩年の事績については記録が残っていない。張バアトルにはマングタイという息子がおり、父の跡を継いで第4代皇帝モンケ・第5代皇帝クビライ時代の南宋遠征に従軍して功績を挙げている[3]

脚注[編集]

  1. ^ 後述するように漢都虎が「砲手諸色軍民人匠都元帥」に任じられていること、また同時期にモンゴル軍に投降し張バアトルとよく似た戦歴を持つ薛タラカイも「砲水手元帥」として活躍しているため(池内1981,19頁)
  2. ^ 『元史』巻151列伝38張抜都伝,「張抜都、昌平人。歳辛未、太祖南征、抜都率衆来附、願為前駆、遂留備宿衛。従近臣漢都虎西征回紇・河西諸蕃、道隴・蜀入洛、屡戦、流矢中頬不少却。帝聞而壮之、賜名抜都、自是漢都虎亦専任之。甲午、金亡、以漢都虎為砲手諸色軍民人匠都元帥、守真定。漢都虎卒、無子、以抜都代之。及漢都虎兄子贍闍少長、抜都請于朝、帰其政而終老焉」
  3. ^ 『元史』巻151列伝38張抜都伝,「子忙古台、従憲宗攻蜀釣魚山・苦竹二塁、冒犯矢石、屡挫而不沮、遂以勇敢聞。中統元年、賜銀符、預議砲手軍府事。尋易金符、為行軍千戸、従征襄樊有功、卒。子世沢襲、従丞相伯顔南征、大小十餘戦、皆有功。又従平広西。明年、収瓊・万諸州、拝宣武将軍・行軍総管。未幾、遷副万戸、加明威将軍。従鎮南王脱歓伐交趾、既還、及再挙、将校旧嘗往者、許留恤之。有脱歓者、当行、適病、不能起、世沢曰『吾祖父以武勇称、吾蒙其餘沢、荷国厚恩、当輸忠王室、増光前人、豈可苟為自安計耶』。力請代之、凱還、人服其義云」

参考文献[編集]

  • 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-2-」『四国学院大学論集』46、1980年
  • 『元史』巻151列伝38張抜都伝