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川崎鉄三

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横浜・海岸通。手前が川崎の作品の一つ、昭和ビル。解体されたキッコーマンビルの先の横浜海洋会館横浜貿易協会ビルとともに、海岸通から大桟橋にかけての都市景観を形作ったとみられている

川崎 鉄三(かわさき てつぞう、生年不明 - 1932年昭和7年)?)は、日本の建築家大正末期から昭和初期にかけて、横浜モダニズム建築を残した。横浜で活躍した時期は長くなかったが、確認されているだけで7棟の建築に携わり、現在でも3棟のビルが残る[1]

来歴

生年は明らかになっておらず、出身地は石川県と推測されている[2]1912年明治45年)に東京高等工業学校(現在の東京工業大学)建築科卒業[3]台湾など日本国外での勤務ののち、1919年から1924年にかけて福井県庁に勤務。1925年に本町工務所を開設、若尾ビルの建築にあたった。これは若尾幾太郎商店の建築部のような位置づけであった。若尾幾太郎は、甲州財閥の生糸商人で初代甲府市長である若尾逸平の大甥に当たる[2]。その後、関内地区を中心に、確認されているだけで若尾ビルを含め7棟のビルを設計した。

没年は、東京高等工業学校の同期卒業生の随筆内容から1932年と推測される[2]

作品

このほか、キッコーマンビルとジャパンエキスプレスビルの間にある横浜貿易協会ビルの施工監理に携わり[3]横浜海洋会館にも携わった可能性があると推定されている[2]

脚注

  1. ^ a b "関内の近代建築1件を横浜市歴史的建造物として認定しました" (Press release). 横浜市都市整備局企画部都市デザイン室. 25 February 2011. 2017年6月10日閲覧
  2. ^ a b c d 吉田鋼市横浜を築いた建築家たち (12)川崎鉄三——昭和初期のハマに一瞬輝いたモダニズムの光芒」『Web版 有鄰』第499巻、有隣堂、2009年6月10日。 
  3. ^ a b 日本建築家協会関東甲信越支部神奈川地域会まちづくり保存研究会 編『横浜近代建築 関内・関外の歴史的建造物』2012年11月29日、29頁。 
  4. ^ 若尾ビル”. 近代建築アーカイブクラブ. 2017年6月11日閲覧。
  5. ^ 加藤電気工業株式会社(前加藤組、旧加藤商店)”. 近代建築アーカイブクラブ. 2017年6月11日閲覧。