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川勝広豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝広豊
時代 江戸時代前期 - 江戸時代中期
生誕 天和3年(1683年
死没 享保11年1月17日1726年2月18日
別名 造酒之助、数馬(通称)、刑部
戒名 日豊(法名)
墓所 東京都杉並区堀ノ内の宗延寺
官位 布衣(六位)
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
氏族 川勝氏
父母 父:川勝広利、母:大草高盛の娘
兄弟 川勝広豊、女子、某(善左衛門)
正室:朽木則綱の娘
婿養子に広當(五井松平忠明の五男)、
女子(川勝広當室)
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川勝 広豊(かわかつ ひろとよ)は、江戸時代前期から中期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の5代当主。

生涯

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天和3年(1683年)、川勝広利の嫡男として江戸に生まれた。元禄11年(1698年)9月1日、初めて将軍徳川綱吉に拝謁した。元禄15年(1702年)3月19日、父広利の死去により、その家督(丹波内2,570石余)を継ぎ、小普請となった。

宝永元年(1704年)6月30日、桐間番に列し、同年7月28日より小姓に転じた。宝永6年(1709年)綱吉薨去のため、同年2月21日より小姓組に移った。享保2年(1717年豊前国中津城奥平大膳大夫昌成に与えるため[1]、4月13日、筧新太郎正尹と伴に命により現地に赴き、城引渡しの役を務めた。享保6年(1721年)2月28日、使番に進み、同年12月18日に布衣を着る事を許された。享保10年(1725年)10月18日、禁裏付となった[2]。享保11年(1726年)1月17日、44歳で没した。家督は婿養子の広當が継いだ。

脚注

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  1. ^ 享保2年2月11日、奥平昌成丹後宮津藩から1万石加増の上で、豊前中津藩10万石へ移封となった。
  2. ^ 皇居を守護・警護し、朝廷の経費を掌った。妻子同伴で、5 - 6年に一度は江戸に参勤した。老中支配。

参考文献

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  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年

関連項目

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先代
広利
川勝継氏系秀氏流(本家)
5代:1702年 - 1726年
次代
広當