川勝広豊
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時代 | 江戸時代前期 - 江戸時代中期 |
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生誕 | 天和3年(1683年) |
死没 | 享保11年1月17日(1726年2月18日) |
別名 | 造酒之助、数馬(通称)、刑部 |
戒名 | 日豊(法名) |
墓所 | 東京都杉並区堀ノ内の宗延寺 |
官位 | 布衣(六位) |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 | 父:川勝広利、母:大草高盛の娘 |
兄弟 | 川勝広豊、女子、某(善左衛門) |
妻 | 正室:朽木則綱の娘 |
子 |
婿養子に広當(五井松平忠明の五男)、 女子(川勝広當室) |
川勝 広豊(かわかつ ひろとよ)は、江戸時代前期から中期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の5代当主。
生涯
[編集]天和3年(1683年)、川勝広利の嫡男として江戸に生まれた。元禄11年(1698年)9月1日、初めて将軍徳川綱吉に拝謁した。元禄15年(1702年)3月19日、父広利の死去により、その家督(丹波内2,570石余)を継ぎ、小普請となった。
宝永元年(1704年)6月30日、桐間番に列し、同年7月28日より小姓に転じた。宝永6年(1709年)綱吉薨去のため、同年2月21日より小姓組に移った。享保2年(1717年)豊前国中津城を奥平大膳大夫昌成に与えるため[1]、4月13日、筧新太郎正尹と伴に命により現地に赴き、城引渡しの役を務めた。享保6年(1721年)2月28日、使番に進み、同年12月18日に布衣を着る事を許された。享保10年(1725年)10月18日、禁裏付となった[2]。享保11年(1726年)1月17日、44歳で没した。家督は婿養子の広當が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
関連項目
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